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サー・ロジャー・ジョージ・ムーア(Sir Roger George Moore KBE, 1927年10月14日 - )は、イギリス出身の俳優。1973年から1985年の間に、7つの『007』作品でジェームズ・ボンドを演じた。身長は185cm。


ロンドンのストックウェルで警官の息子として生まれたムーアは、バッキンガムシャー、アマーシャムのドクター・シャロナーズ・グラマースクールに入学した。1940年代に映画にエキストラ出演した後に軍隊に入隊し、第二次世界大戦中はイギリス軍の娯楽部隊に所属した。

除隊後に再び大部屋俳優になり、モデルやテレビのステージ・マネージャーなどの職業も経験した。1950年代に入ってアメリカに渡り、テレビドラマに出演する下積み生活が続いた。1954年、MGM映画『雨の朝巴里に死す』に出演、同年MGMの契約俳優となる。

1962年、テレビシリーズ『セイント 天国野郎』に主演してスターの地位を得る。1971年からの『ダンディ2 華麗な冒険』などのテレビシリーズでも活躍した。

1973年に『007 死ぬのは奴らだ』で3代目ジェームズ・ボンド役に抜擢され、低迷していたシリーズの人気を立て直し、国際的スターの座にのぼる。持ち前の上品で軽妙洒脱なユーモアが愛され、1985年の『007 美しき獲物たち』までシリーズ7作品に主演(現在6人のボンド俳優の中で最多の出演本数[1])した。

歴代最初の黒髪ではない(栗毛色)ボンドである(ボンドデビュー作「死ぬのは奴らだ」のフォトセッションの時だけ黒く染めている)。

歴代最初のクイーンズイングリッシュを喋るボンドでもある(コネリーはスコットランド訛り、レーゼンビーはオーストラリア訛り)。

ボンド役については、原作者イアン・フレミングがムーアを推薦しており、ムーアが「セイント」で活躍していた頃、ショーン・コネリー降板後の2代目ボンド俳優の候補となったが、テレビの仕事の関係でスケジュール調整がつかず、その時点ではジョージ・レーゼンビーが2代目ボンドに抜擢された。レーゼンビーの降板後、再びムーアにボンド役の誘いがあり、ムーア・ボンドの誕生となった(5代目ボンドとして活躍したピアース・ブロスナンのボンド役決定までにも似たような経緯がある)。ムーア自身はフレミングとは面識がなく、彼の推薦という話は配役を正当化させるためのイオン・プロのプロパガンダではないかと推察している。

しかし、生前のフレミングのお墨付きがあるにもかかわらず、強烈な印象を残したコネリーと正反対の路線を目指したため、しばしば、原作のイメージを逸脱し、「ムーアのボンド」を追求し、一時代を築く。このため、後任のボンド俳優は「コネリーには及ばないがムーアよりもいい」、「コネリーとムーアの長所を掛け合せた」等、良くも悪くも引き合いに出されるボンド俳優の二大巨頭の一人である。ブロスナンも「(前任者4人の内)コネリーとムーアは意識しないわけにはいかなかった」と語るほどである。

ボンドを演じる際、コネリーの真似をしないよう気をつけていたが、特徴的なコネリーの声真似は得意である。

歴代ボンドで唯一アストン・マーチンに乗っていない(「キャノンボール」ではアストンマーチン・DB5に乗っている)。

歴代ボンド全員と交流がある(デヴィッド・ニーヴン、ピーター・セラーズも含む)。特にショーン・コネリーとは同じ英国出身の渡米組ということもあり、無名時代からの友人で、お互い、有名キャラクターを演じるために1962年に帰国したことなどもあり、親交が深い。

コネリーに次いで"サー"の称号が与えられたボンド俳優である。

英国文学界が生んだ世界的二大キャラクター「シャーロック・ホームズ」と「ジェームズ・ボンド」を演じた唯一の俳優である。

その他にも「サイモン・テンプラー(といえば今でもムーアというイメージが欧米にはある)」「クルーゾー警部(奇しくもこちらも初代からバトンを受けた3代目)」等の人気キャラクターも演じている。

「007」シリーズ以外にも数々のアクション映画に主演したムーアだが、意外にも自他共に認める運動音痴だという(唯一得意だった競技は水泳)。彼が演じた007はシリーズ中でもかなり豪華なアクションを取り入れたものであったが、スタントマンによる吹替えを多用したとの説もある[2]。また、最後のボンド作品となった『007 美しき獲物たち』ではムーアはすでに50代後半。ほとんどのアクションシーンではスタントマンを使ったのだという。同作ではかなり顔の皺が目立っている。ムーアが『美しき獲物たち』を最後にボンド役を降りた理由は、冗談めかしに「これ以上やったら殺される」ということであった。しかし、多くのスタントマンたちはムーアは世間が思っているほどスタントに消極的ではなく、むしろ、ティモシー・ダルトンの方がスタントマンに任せきりだったと語り、ムーア自身はスタントマンに頼ってばかりいることを揶揄した記者の質問に対して、冗談めかしてラブシーンは全部スタントマンが演じていると嘯いた。実際、ラブシーンはスタントマンに任せたいほど苦手だった。

初代ボンドショーン・コネリーより3歳年上である(ショーン・コネリーの生年月日は1930年8月25日)。

日本では7代目トヨタ・コロナ(T140系、最後のFRコロナ)のCMキャラクターを務めたことでも知られている。ムーアはCMや広告に登場したばかりではなく7代目コロナのカタログにも登場している。また、複数回来日している。

俳優として活躍する一方、ユニセフ親善大使(オードリー・ヘップバーンに勧められたという)[3]などボランティア活動にも精力的で、2003年にはナイトの称号を与えられた。同年にはブロードウェイの舞台で倒れ、病院に搬送される騒ぎもあった[4]。


2007年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を獲得した[5][6][7]。式典には007の宿敵ジョーズを演じたリチャード・キールや、『007 死ぬのは奴らだ』で共演したデヴィッド・ヘディスン、女優ステファニー・パワーズらが出席した[7]が、ムーアが星の前でひざまずいた後、立ち上がるのに人手を借りねばならない一幕もあった[8]。2008年には初めての自伝 "My Word Is My Bond" [9]を上梓、また仏芸術文化勲章の最高章であるコマンドゥールを授与された[10]。

私生活では、4度の結婚をしている。2人目の妻である歌手のドロシー・スクワイアーとは1961年に破局したが、彼女がその後8年間離婚を拒んだため、ムーアと後述するルイザ・マッティオリとの間の子供のうち2人は、庶出子となってしまった。ドロシーは1998年に死去したが、2009年になってムーアはドロシーが子供の頃住んでいた家に300ポンドのブルー・プラークを贈った[11]。

3人目の妻である元女優のルイザ・マッティオリとの間には2男1女がおり、子供の中でジェフリーとデボラは俳優になった。1994年、ムーアがルイザに電話で二人の38年間の関係は終わったと告げ、1993年に患った前立腺癌[12]のためリヴィエラで療養中、ルイザの親友であるクリスティナ・ソルストラップと恋愛関係になっていたことが明らかになった。2002年に1億ポンド(スターリング・ポンド)の慰謝料でルイザとの離婚が成立すると、ムーアは74歳でクリスティナとモンテカルロで秘密裏に結婚式を挙げたが、このときムーアの子供は誰も出席しなかった[13]。しかし、2007年のハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム殿堂入りの際には、妻クリスティナとムーアの3人の子供がそろって出席した[7]。