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アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie[2], 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2014年の今日でも慈善活動家としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。

スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業[要曖昧さ回避]だった鉄道への投資で築いた。

1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルで同社を売却。エルバート・H・ゲイリー(英語版)のフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなった。

カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソン(英語版)に2万5千ドルを寄贈している[3]。ニューヨーク・カーネギー財団(英語版)、カーネギー国際平和基金(英語版)、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。

1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた[4]。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた[4]。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた[4]。1836年、父ウィリアム・カーネギーがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移り住んだ[4]。叔父のジョージ・ローダーは彼にロバート・バーンズの作品やロバート1世やウィリアム・ウォレスやロブ・ロイ・マグレガー(英語版)といったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。


カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていたさくらんぼに見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。


当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める[5]。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった[6]。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。



16歳のときのカーネギー。弟のトーマスと
その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)[7]。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。また自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。

1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価[要曖昧さ回避]管理について多くを学んだ[8]。

スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた[9]。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレス(英語版)の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した[9][10]。数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁[要曖昧さ回避]建設業、レール製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。その後も企業を設立する際にトムソンとスコットとの密接な関係を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。


南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。

1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。

南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。


南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。

南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグでキーストン鉄橋会社(英語版)(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋[要曖昧さ回避]建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した[11]。セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。

1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。


カーネギーの母は彼を結婚させなかった[12]。1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、ルイーズ・ホイットフィールド(30)という女性と結婚した[12][13]。1897年、唯一の子どもである娘が産まれ[14]、母の名をとってマーガレット[要曖昧さ回避]と名付けた[15]。

カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。ヘンリー・ベッセマーは、炭素含有量の高い銑鉄を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルのホームステッド・ワークスを買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。

1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠したエドガー・トムソン製鋼所(英語版)、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。

1880–1900: 著作家および活動家として
カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領[16]や政治家や著名な作家とも親交した[17]。

1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。

1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。

1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズ(英語版)が編集する Nineteenth Century やロイド・ブライス(英語版)が編集する North American Review などである。

1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。

1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載[18]。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。

カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった[19]。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある[20]。

1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした[21]。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した[22][23]。


1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。当時のアメリカ金融業界の最重要人物である銀行家ジョン・モルガンは、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えており、そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。1901年3月2日、モルガンらの折衝で時価総額10億ドルを越える史上初の企業USスチールが誕生した。

チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。

カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。


カーネギー(左)とジェームズ・ブライス
引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。

スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、スペル改正(英語版)運動を強力に支持した。



彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している[24]。

19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた[25]。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。

ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。