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星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、日本のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。岡山県倉敷市出身。選手時代のポジションは投手。2011年から2014年まで東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。

愛称は「仙ちゃん」「仙さん」。

経歴

プロ入りまで
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は1964年東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。

高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学[1]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[1]、倉敷商の矢吹監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[1]。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司(のちの山本浩二)・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩にはのちに読売ジャイアンツへ進む高田繁がいた。

大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[2]。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。

プロ選手時代
1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した後も非常に愛着のある番号だったという。

入団した年、星野はある巨人戦に先発登板したが打ち込まれて敗戦投手になった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください!かならずリベンジをします!」と訴えた。コーチ陣は当惑したが、監督の水原は「仙がここまで言っているんだ、投げさせてやれ!」といい、星野は次の日もまさかの先発をすることになった。その試合、星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思い、ベンチ裏で落ち込んでうなだれる星野にむかって差し出す手があって顔をみあげると水原であった。「仙、よくやった。やられたら必ずやり返す。この気持ちを忘れたらプロとしてやっていけなくなる。今日のことは決して忘れるな。やられたらやり返す。これを忘れるな。今日はよくやった」と水原はいい、星野とかたい握手をかわした。「あのときの水原さんの手の感触は今でも忘れられない。自分は水原さんからプロの精神を学んだ」と星野は回顧している。

1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、チームも2勝4敗で日本一を逃した。

1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている。」と記している[3]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。

ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった[4]。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという[4]。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。

巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。

珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)[5]。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた[5]。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)[5]。

星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している[6]。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している[7]。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。