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2014年12月

12月25日生まれの有名人「アイザックニュートン」



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アイザック・ニュートン(英: Isaac Newton, ユリウス暦: 1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦: 1643年1月4日 - 1727年3月31日[注 1])は、イングランドの哲学者、自然哲学者[注 2]、数学者。神学者。

ニュートン力学を確立し、古典力学や近代物理学の祖となった。古典力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるものであり、近代科学文明の成立に影響を与えた。

生涯編集

アイザック・ニュートンは1642年のクリスマスにイングランドの東海岸に位置するリンカーンシャー州の小都市グランサムから南方に10kmほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース(英語版) (Woolsthorpe-by-Colsterworth) において、同名のアイザック・ニュートンを父として、ハナ・アスキューを母として生まれたが、生まれた時父親はすでに他界していた[1]。未熟児として生まれたといい、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったという[1]。なお、アイザックという名は、旧約聖書 の創世記に登場する太祖の一人イサクに由来する。

父親は、身分としてはヨーマン(独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳の時に近郊の農家の娘(アイザックの母ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3か月前に死去した(後にニュートンの義父となる人物は、この父が粗野な変人であった、と述べたという。父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している)。

実母はアイザックが3歳の時に近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。アイザックはものごころのつかない年齢で両親の愛を知らない子となった[1]。母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった[1]。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。息子アイザックは母のこの選択に反発、「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝。(この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た。)


The King's School。グランサムのキングス・スクール
母親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した[1]。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった[1]。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、後に至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。だが、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。グラマースクール時代も、ニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信をもつようになったとされる[2]。

学校に通うようになって2年がたち14歳になった時に、母の再婚相手が死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子供とともにウールスソープの家へと戻ってきた。母は、(亡くなった元の夫が遺した)農園を営むことを考え、父親のようにアイザックが農業(百姓)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、(前の下宿先の)クラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した[1]。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人等に相談し、ケンブリッジのトリニティカレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備として聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ[1]。


トリニティ・カレッジ
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[3]。入学当初は「sub-sizar サブサイザー」として仮に、1か月後に「sizar サイザー」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをするかわりに授業料や食費を免除される、という身分であった[1]。大多数の学生は「commoner コモナー」という自費で学費を払う者たちだったので、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという[1]。

当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好み、デカルトやガリレオ、コペルニクス、ケプラーといった自然哲学者の著書を好んで学んだ。例えば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学』ラテン語版第二版、ウィリアム・オートレッドのClavis Mathematicae(『数学の鍵』)、ジョン・ウォリスの『無限算術』などであり、自然哲学分野ではケプラーのDioptrice(『屈折光学』)、ウォルター・チャールトン (Walter Charleton) の原子論哲学の入門書などを読んだのである。


恩師のアイザック・バロー。ニュートンを大切にしてくれ、すぐれた指導をしてくれたうえに、さらに自身のルーカス教授のポストを譲ってくれた、ニュートンの大恩人である。
ここでニュートンは良き師に巡り会うことになった。アイザック・バローである。 ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローはニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトン主義を奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり1664年にニュートンは「スカラー」[3](奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、さらに翌年には学位を授与されることになる。彼との出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。ニュートンの三大業績は全て25歳ころまでになされたものである[1]。

また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである[1]。学位を取得した頃、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の1/3(以上)を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生の時のそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た[1]。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った[1]。こうしてニュートンは「Method of Fluxions( 流率法)」と彼が呼ぶもの(=将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(光学)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているので、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。

万有引力の法則に関して、古い伝記などでは「リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とするものが多かったが、基本的にウールスソープ滞在当時の文書記録や物証があるわけではなく、はるか後に(ロバート・フックと、万有引力に関して先取権争いのいざこざも生じた後に)そうだった、とニュートンが知人や親類などに語った話などがもとになって流布した話にすぎない。つまり利害関係者当人が語る話やその伝聞の類にすぎず、内容に関しては真偽が不明である。 伝記作家が援用する資料として、同時代の作家ウィリアム・ストゥークリ(英語版)の書いた Memoirs of Sir Isaac Newton's Life に1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のようなくだりがある。

“ when formerly, the notion of gravitation came into his mind. It was occasioned by the fall of an apple, as he sat in contemplative mood. Why should that apple always descend perpendicularly to the ground, thought he to himself. Why should it not go sideways or upwards, but constantly to the earth's centre. ”
—ウィリアム・ストゥークリ(Memoirs of Sir Isaac Newton's Lifeより)

 この文章も彼が如何に日常に起きることに関心を持ち、そこから理論への着想を得ていたかという彼の賢さを表現するために作られた話、とも言われており[誰によって?]、真偽は定かではない。また、ニュートンが死去した年に、ヴォルテールは彼のエッセイ Essay on Epic Poetry (1727) のなかで彼がニュートンの姪に聞いた話として「アイザック・ニュートンは庭仕事をしている際に、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、彼の重力に関する最初の発想を得た」とする逸話を紹介している。

ニュートンが万有引力の法則を思いついたきっかけが一体何だったか、という点については、現代ではニュートン自身の主張や伝説は脇に置いておいて様々な検証・推察がなされていて、いくつかの説がある。ひとつは友人のロバート・フックがきっかけになっている、とする説であり、他には、それ以前にも、この時代のイギリスの自然哲学者たちが影響を受けたケプラーの説(ケプラーの法則)を受けている、とする分析もある。物が落ちる現象、つまり物体が地球に引きつけられる現象であれば、以前から誰もが知っていて、それに関する説は古代ギリシアのアリストテレスも自説を唱えていた。この時代のイギリスでは(ニュートンに限らず)同時代の自然哲学者たち幾人もが、先人のケプラーやガリレオの説にヒントを得て、それを一般化・改良しようと試行錯誤を始めていたらしい。 [注 3] 1665年にカレッジを卒業し、バチェラー(Bachelor of Arts; 学士)の学位を得た[1][3]。

1667年にペストがおさまると、ケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえに他の1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため[1]、ニュートンはフェローになることができ[3]、研究費を支給されるようになった。 その年に『無限級数の解析 (De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。

この数学的研究について解説すると、ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。後々、優先権をめぐって熾烈な争いが展開されることになる。ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだが、ライプニッツより早く発見していた、と主張した。ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる。
1669年にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就いた。これは師バローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした[1]。ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった[1]。ニュートンは自分が開拓した光学について講義したが、内容が斬新すぎ理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者が無いということもしばしばだった[1]。


トリニティカレッジ内のチャペルにあるニュートン像
ルーカス教授時代に、彼の二大著書となる『光学 (Opticks)』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)、および聖書研究や錬金術の実験などに没頭し、また哲学者でもあったので、自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を神学に注いだ[1]。ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32%である[1]。

ニュートンが哲学者として、聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、後の時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために、事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返された[1]ので、やがて忘れられてしまうことになった。20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証が行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになったものである。
『自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際行われた1686年の法廷審理に大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした[1]。それから2年後の1688年には、大学から選出された庶民院議員(下院議員)になることになった[1]。だが、議員としてはほとんど発言をしなかったとされ、議会での唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」だったという[4]。

ニュートンは大著の執筆の後で疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた[1]。そこで教え子で、19歳年下ながら社交性に富み、たちまわりがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼し、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたので、彼にもポストの紹介を依頼したが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった[1]。

精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になったニュートンはやがて精神状態に変調をきたすようになった。回復するのに時間を要し不眠や食欲減退も引き起こし、被害妄想にも悩まされた。福島章は統合失調症説を展開している。[5]ジョン・ロックへの書簡の中には、(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになったといった内容を書いたりしたものが残っている[1]。2年ほど自宅に引きもるような状態になったとも言われる[誰によって?]。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある[1](母は1697年6月に死去した)。好んで行っていたものの一つで、錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている[誰によって?]。この壮年期におけるスランプにおいても頭脳は明晰かつ学問を楽しんでいて、ヨーロッパ中に難解かつ興味惹くような数学の問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直線上に2つの点があるとする。一つの物体が上の点から下の点まで引力のみで落下する時に要する時間をもっと短くするには、どのような道筋に沿って降下すれば良いか?」という最速降下点と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え匿名でベルヌーイに投稿した。


1702年の肖像画
そんな時期が続いた時代ではあったが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに王立造幣局監事のポストを紹介してくれ[1]、1699年には王立造幣局長官に昇格することになった。モンタギューとしては働きづめであった師に少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、就任早々通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した[1]。元大学教授にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした[1]。 在職中は偽金造りが激減した。一方、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしており、これは図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった[1]。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(South Sea Bubble 南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる[1](南海会社というのはイギリスの会社で、スペイン領中南米との貿易で独占権を得て、奴隷貿易で暴利をむさぼっていた会社であり、南海泡沫事件とは同社が大宣伝をして株が暴騰したが、事業の不振が明るみに出ると株は暴落して1720年に倒産し、多数の投資家が破産するに至った事件である[1])。

研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した。(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である。)晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イギリス国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れ、生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである[1]。

1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である[1]。


ウェストミンスター寺院内のニュートンの墓
授与から20年ほど後の1727年に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた[1]。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった[1]。

12月24日生まれの有名人「相葉雅紀」



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相葉 雅紀(あいば まさき[1]、1982年12月24日[1] - )は、日本の歌手、俳優、タレントであり、男性アイドルグループ・嵐のメンバーである[1]。

千葉県出身[1]。ジャニーズ事務所所属。

来歴編集

1997年7月23日、『STAND BY ME』で舞台初出演[1]。同年10月18日、『ぼくらの勇気 未満都市』でドラマ初出演。
1998年4月29日、『新宿少年探偵団』で映画初出演、初主演。
1999年9月15日、嵐が結成され、同年11月3日「A・RA・SHI」でCDデビュー[1]。
2002年3月、肺気胸のため入院[2]。
2004年4月15日、『天才!志村どうぶつ園』に単独でレギュラー出演[1]。さまざまな動物と触れ合い、動物たちを楽しませる道具を作り出している。
2005年9月6日、『燕のいる駅』で舞台初主演。
2006年8月1日、『トリプル・キッチン』で準主役。
2007年10月 - 11月、『忘れられない人』で舞台主演。
2009年
2月 - 3月、『グリーンフィンガーズ』で舞台主演。
10月 - 12月、『マイガール』で連続ドラマ初主演[1]。
2010年5月、『君と見る千の夢』で舞台主演。この舞台のDVDはオリコンチャートの週間DVDランキングにおいて、ミュージカル以外では演劇作品として史上初の総合首位を獲得した[3]。
2011年
2月 - 4月、『バーテンダー』で金曜ナイトドラマ枠では『マイガール』以来の主演。
6月28日、胸の痛みを訴え入院。29日には「左自然気胸」で、1週間程度入院の必要ありと診断され[2]、7月2日 - 3日放送の『体操ジャパンカップ2011』中継番組の出演を取りやめた[4]。
7月4日、左自然気胸のため入院していたが退院。翌5日の『VS嵐』(フジテレビ系列)の収録にて現場復帰[5]。
10月、ベストジーニスト一般選出部門を受賞[6]。
2012年
4月 - 6月、『三毛猫ホームズの推理』でゴールデンタイムの連続ドラマ初主演。
10月、ベストジーニスト一般選出部門で2年連続受賞[7]。
2013年
1月 - 3月、『ラストホープ』でフジテレビ系連続ドラマに初主演し、医師役に挑戦する。
4月21日、テレビ朝日系『相葉マナブ』で初の単独冠番組を持つ。
10月、ベストジーニスト一般選出部門で3年連続受賞で史上6人目の殿堂入り[8]。
2014年11月22日、『MIRACLE デビクロくんの恋と魔法』で映画単独初主演。
受賞歴編集

2010年 日刊スポーツ・ドラマグランプリ秋ドラマ主演男優賞:『マイガール』
2011年 第28回 ベストジーニスト 一般選出部門 男性1位[6]
2012年 第29回 ベストジーニスト 一般選出部門 男性1位[7]
2013年 第30回 ベストジーニスト 一般選出部門 男性1位(殿堂入り)[9]
出演編集

グループでの活動については「嵐 (グループ)#出演」を参照
※役名を太字で示しているものは主演作品
テレビドラマ
ぼくらの勇気 未満都市(1997年10月18日 - 12月20日、日本テレビ) - アキラ 役
ドンウォリー! 第11話(1998年6月23日、フジテレビ) - 秀人 役
BOYS BE…Jr.(日本テレビ)
イミテーションカップル(1998年11月8日) - 杉山寛治 役
クリスマスは君と一緒に(1998年12月20日) - ナオユキ 役
少年たち(1998年12月5日 - 19日、NHK) - 松下圭 役
熱血恋愛道(日本テレビ)
第1話「case.1 射手座のO型BOY」(1999年1月10日) - 植田ユウジ 役
第3話「case.3 蠍座のA型BOY」(1999年1月24日) - 神田博氏 役
っポイ!(1999年5月9日 - 6月27日、日本テレビ) - 日下万里 役
怖い日曜日「動かすなっ!」(1999年8月8日、日本テレビ) - 主演
Vの嵐(1999年10月11日 - 29日、フジテレビ) - 相葉雅紀 役
史上最悪のデート 最終話「the Last DATE 史上最悪の片想い」(2000年12月3日 - 2001年4月29日、日本テレビ) - デートキング(案内人)、勇一郎 役
ムコ殿(2001年4月12日 - 6月28日、フジテレビ) - 武山亮 役
少年タイヤ(フジテレビ)
第2話「ジプシー」(2001年11月13日 - 12月18日) - ロク 役
第3話「青木さん家の奥さん」(2002年1月8日 - 29日) - マサキ 役
よい子の味方 〜新米保育士物語〜 第7話(2003年3月1日、日本テレビ) - 俣木晃 役(友情出演)
介護家族-花、咲きまっか-(2003年3月4日、日本テレビ) - 俣木晃 役
演技者。 第11話「狂うがまま」(2003年6月17日 - 7月15日、フジテレビ) - 一八 役
ヤンキー母校に帰る(2003年10月10日 - 12月12日、TBS) - 屋敷哲治 役
トリプル・キッチン(2006年8月1日、TBS) - 小田島栄作 役
喰いタンスペシャル 香港全部食べちゃうぞ!(2006年9月30日、日本テレビ) - エキストラ
マイガール(2009年10月9日 - 12月11日、テレビ朝日) - 笠間正宗 役
最後の約束(2010年1月9日、フジテレビ) - 棚田昭 役
フリーター、家を買う。 最終話(2010年12月21日、フジテレビ) - 平田 役(友情出演)
フリーター、家を買う。スペシャル(2011年10月4日、フジテレビ) - 平田 役(宣伝出演)
バーテンダー(2011年2月4日 - 4月1日、テレビ朝日) - 佐々倉溜 役
三毛猫ホームズの推理(2012年4月14日 - 6月23日、日本テレビ) - 片山義太郎 役
ラストホープ(2013年1月15日 - 3月26日、フジテレビ) - 波多野卓巳 役
映画
新宿少年探偵団(1998年) - 羽柴壮助 役
ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY(2002年) - 岡野瞬(シュン) 役
ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY(2004年) - 岡野瞬(シュン) 役
黄色い涙(2007年) - 井上章一 役
日本列島 いきものたちの物語(2012年2月4日公開) - ナビゲーター
ピカ☆★☆ンチ LIFE IS HARD たぶんHAPPY(2014年8月1日公開) - 岡野瞬(シュン) 役
MIRACLE デビクロくんの恋と魔法(2014年11月22日公開)- 山本光 役
舞台
STAND BY ME(1997年7月23日 - 8月21日) - ゴードン・ラチャンス(ゴーディー) 役
ジャニーズ・ファンタジー KYO TO KYO(1997年8月29日・9月7日)
燕のいる駅(2005年9月6日 - 10月9日) - 高島啓治 役
忘れられない人(2007年10月22日 - 11月11日、16日 - 18日) - アダム 役
グリーンフィンガーズ(2009年2月23日 - 3月10日、20日 - 23日) - コリン 役
君と見る千の夢(2010年5月2日 - 24日) - 池辺春也 役
バラエティ番組
愛LOVEジュニア(1996年 - 1998年9月28日、テレビ東京)
ミュージック・ジャンプ(1997年4月6日 - 1999年、NHK-BS2)
SHOW-NEN J(1997年10月 - 1998年3月、テレビ朝日)
Gyu!と抱きしめたい!(1998年4月5日 - 9月27日、日本テレビ)
8時だJ(1998年4月15日 - 1999年9月22日、テレビ朝日)
京都ビストロジャーニー(1998年11月 - 1999年3月、テレビ朝日)
天才!志村どうぶつ園(2004年4月15日 - 、日本テレビ)
知らないほうが幸せだった事実(2009年4月3日、TBS)
相葉雅紀のオランダ取材奮闘記(2010年10月23日、フジテレビ)
本当のエコを考える地球旅行〜明日へのチカラ〜(2011年6月3日、日本テレビ)
21人の輪 〜震災のなかの6年生と先生の日々〜(2011年6月4日 - 2012年4月8日、NHK Eテレ) - ナレーション
相葉雅紀のバーテンダー大作戦(2011年1月14日、テレビ朝日)
土曜のアイバちゃん(2012年4月14日、日本テレビ)
相葉雅紀のデビュー・キッズ(2012年9月20日、フジテレビ)
相葉マナブ(2013年4月21日 - 、テレビ朝日)
トーキョーライブ24時 〜ジャニーズが生で悩み解決できるの!?〜(2014年4月2日・4月9日、テレビ東京) - MC [注 1]
相葉雅紀のNFJ(ニッポン・フード・ジャーナル)(2014年4月29日、NHK総合) - キャスター
トーキョーライブ22時(2014年10月19日 - 、テレビ東京) - MC(週替わりで出演)[注 2]
スポーツ番組
体操JAPAN CUP 2009(2009年7月18日・19日)フィールド・ナビゲーター
相葉雅紀の夏休みSP スポ根!サイエンスラボ 〜真相究明・スポーツのナゾ!〜(2009年7月20日)
世界体操選手権2009 イギリス・ロンドン(2009年10月18日)ナビゲーター
体操JAPAN CUP 2010 <男子団体総合決勝>(2010年7月3日・4日)ナビゲーター
世界体操選手権2010 オランダ・ロッテルダム(2010年10月20日 - 24日)ナビゲーター
体操JAPAN CUP 2011 対談内村航平選手(2011年7月2日)ナビゲーター
世界体操選手権2011 東京大会(2011年10月7日 - 16日)ナビゲーター
ラジオ
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嵐・相葉雅紀のレコメン!アラシリミックス(2003年7月 - 、文化放送)
ムテキの相葉クン! presented by コーセー・エスプリーク・プレシャス(2009年5月17日、TOKYO FM)
CM
森永乳業 エスキモーpino(1998年5月 - 2000年)
バンダイ たまごっち オスっちメスっち(1998年) - 横山裕、松本潤と共演
ハウス食品
さわやか吐息スーパーカテキン(2004年)
とんがりコーン(2007年)
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ハウスウェルネスフーズ C1000リフレッシュ レモン&ライム(2007年)
池田模範堂
液体ムヒS(2010年 - )
ムヒアルファEX(2010年 - )
住友生命保険 Wステージ 未来デザイン(2011年 - )
味覚糖
のど飴(2011年 - 2014年)
のど飴EX(2011年 - 2014年)
シゲキックス ゼロッシュ(2012年 - 2014年)
グミガーム(2013年 - 2014年)
コロロ(2014年 - )
キリンビバレッジ キリン メッツ コーラ(2013年 - ) - 大野智と共演
ダスキン ミスタードーナツ(2014年 - )
イベント
ローソン PRESENTS ALLジャニーズJr. 1st CONCERT(1998年2月1日・11日・15日)
ジャニーズJr. Summer Concert '98(1998年7月29日・8月5日・24日)
第80回全国高等学校野球選手権大会開会式(1998年8月6日)
ジャニーズ大運動会'98(1998年10月25日)
ジャニーズJr. Winter Concert(1998年12月27日 - 1999年1月
Fresh Spring Concert'99 Johnny's Senior Junior(1999年5月2日 - 6月20日)
台湾大震災チャリティー野球大会マーチオブ2000(1999年12月18日) - 「J2000」として参加

12月22日生まれの有名人「江原啓之」



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江原 啓之(えはら ひろゆき、1964年(昭和39年)12月22日 - )は、タレント、ワタナベエンターテインメント所属、作家、オペラ歌手(バリトン)。元吉備国際大学短期大学部客員教授、元九州保健福祉大学客員教授[1]。自ら設立した一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事長[2]、世界ヒーリング連盟元会員、関西二期会会員[3]、英国スピリチュアリスト協会(SAGB)会員[4]。東京都出身。妻と二人の息子がいる[5]。血液型A型。


1964年(昭和39年)12月22日、東京都墨田区の下町で、薬品会社に勤めるサラリーマンの第2子として誕生[6][7]。7歳上の姉を持つ[5]。

1968年、4歳のとき、父親を薬害で亡くし、15歳の時、母親を癌で亡くす[6]。中学生時代はギター部に所属していた[8]。技術職に就くことを目指し本郷高等学校デザイン科に進学。放課後はアマチュア合唱団の練習に参加[8]。

1981年、高校2年の時、姉が嫁に行き、一人暮らしを始める[5]。和光大学人文学部芸術学科[3]に入学し、美術を専攻([9],p127)。彫刻[10]や音楽を学ぶ。大学の近くに移住する[5]。「18歳までは守られる」という生前の母の言葉通りに、18歳になった頃から心霊現象に悩まされ19歳で大学を退学する[7]。

警備員のアルバイトをする傍ら、心霊現象の解決のため何人もの霊能者を訪ねるも解決できず、 自殺まで考えるほど精神的にも金銭的にも追い詰められた中で、20人目に出会った日本心霊科学協会の講師・寺坂多枝子に信頼を置く[5][6]。

人格や波長を高く保ち善きカルマを積めば、低級霊は寄って来ないとアドバイスを受け、自分の力をコントロールするため修験道(真言密教系[11])の修業を始める[6]。1年間寺で修業した後、高尾山での 2年間の滝行により憑依体質を克服[5][6]。「日本心霊科学協会」の「精神統一協会」や寺坂の主催する「清玲会」に通い、瞑想や心霊科学を学ぶ[5]。

滝行で知り合った男にプロの霊能者になる誘いを受ける。心霊相談の部屋を提供されるも、お金を一切もらえず、極貧の生活に追い込まれる。一攫千金を狙うための商品にされていることに気づき、夜逃げ同然に逃げ出す[6]。

「社会的に信頼されるようにきちんとした職業を持つべき」という寺坂の勧めに従い[11]、22歳[10]の時、神職の資格[12]を得るため國學院大學の夜間部に入学[8]。1987年(23歳)、 北沢八幡宮に実習生として勤める[13][14][15]。経済的に苦しかったため、夜間の授業を終えた後、深夜に心霊相談を行うという過酷な生活を送る[5]。 國學院大學別科神道専修II類を修了し[3]、神職の資格を得る[5]。

心霊相談で知り合った人たちや昔からの友人たちによって、東京、横浜に計3ヶ所スピリチュアリズムを学ぶサークルが作られ、毎月、講師として研修を行う[5]。後に計3ヶ所合同の研修会(これが後に「江原啓之のスピリチュアリズム講座」となる)を北沢八幡神社の広間で開催する[5]。

この頃、名古屋の医師の紹介で[11]、北海道の浦河町に建てた別荘の心霊現象に悩んでいた小説家、佐藤愛子の相談に乗る([5],p257)。

『シルバーバーチの霊訓』と出会い、これを読んだ江原は、つぎのような感想を述べている。「自分が見出した真理が正しかったことが裏付けられ、これまでの自身の経験の意味を改めて理解でき、感動した」[5]。江原が、この本を読んだのは、寺坂が江原の両親を招霊した時期に近い。

1989年(24歳)3月、北沢八幡宮を去り、近くの東京・下北沢のアパートで、心霊相談とヒーリングによるスピリチュアリズムの普及を目的として「スピリチュアリズム研究所」を設立(後に自宅も兼ねる。)[5]。

寺坂多枝子の「霊能者は拝み屋の域を離れ、アカデミックなスピリチュアリズムを学び、その地位を築くべき」とのアドバイスにより、1990年(25歳)2月、霊能者としての活動のヒントを求め、スピリチュアリズムの本場とされるイギリスに渡り学ぶ。ロンドンのミーディアム(霊能者)を育成する団体である「英国スピリチュアリスト協会」(SAGB)を訪ね、ネラ・ジョーンズ、テリー・ゴードン、ドリス・コリンズなど、霊媒師として知られる人物たちと会い、理論、実践を学ぶ[7]。中でも最も影響を受けたのはドリス・コリンズであり、自身のスピリチュアルカウンセラーとしての活動はドリスを見本にしているという[9]。 渡英中、ドリスにイギリスに住みたいと希望を伝えた際は、「私と同じようにパイオニアとして、日本で人々に真理を伝えてゆきなさい」と言われたという[5]。以降1996年まで、足かけ6年、計9回渡英する[5]。

帰国後、個人カウンセリングにイギリスで学んだスピリチュアリズムの手法を取り入れる。

スピリチュアル・カウンセラーとして
イギリスで学んでいた時に、ある男性ミデーィアム(霊媒)の名刺の肩書であった“スピリチュアル・カウンセラー” [16]という言葉を気に入る([5]、p206)。 “霊能者”という言葉には現世利益を与える他力本願的なイメージが強く、暗いイメージがあり、そのような拝み屋的な存在としての心霊相談と同一視されたくないという思いもあり、スピリチュアル・カウンセラーと名乗るようになったという[9]。

江原のカウンセリングスタイルは、一般的な日本の霊能者がするような相手の相談に答えて行くという形ではなく、自身が霊的世界とコンタクトを取り、その人に関わるさまざまな情報およびメッセージを一方的に伝えて行く、イギリスや欧米諸国で行なわれている「シッティング」という手法である[5]。依頼者自身にしか知り得ない事柄を語ることで依頼者に霊的世界を証明し、その感動を通じて霊的世界の真理を広めてゆくことを考えたという[5]。また、拝み屋的な演出を排し、かわいらしいサロン風のカウンセリングルームで平服でカウンセリングを行なった。

しかし、十数年カウンセリング活動を続ける中で、楽して成功を求めるようなスピリチュアリズムの真理に反した物質的価値観による相談や非常識なクレームをつける人が多く[14]、1年間に千件に及ぶカウンセリングの中でも、やってよかったと思えたのは10パーセントにも満たなかったという[9]。そんな中で、応急処置的なカウンセリングばかりに時間を割くより、霊的な真理という「人生の地図」を普及させることの方がはるかに「人の助け」、「霊界の助け」になると考え、個人カウンセリングを休止し、執筆活動や講演活動に重点を移した[5]。

寺坂を通じて知り合った佐藤愛子の助力でマスメディアに姿を現す[17]。

1992年(27歳)、ファッション雑誌『CanCam』(1992年2月号)の連載で取り上げられたことで、「スピリチュアリズム研究所」に予約が殺到する[8]。

1993年(28歳)5月、歌手のイルカの知人の紹介で知り合った女性と結婚し[8]、千代田区の「日枝神社」で挙式[8]。

1994年(29歳)、長男が誕生([5],p92)。

自ら学んだスピリチュアリズムを本で伝えたかったが、無名ゆえに引き受けてくれる出版社がなかったため、名前を知ってもらうためと[5]、マスメディアに登場する霊能者はキワモノがあまりにも多く、その話が心霊現象に偏っているため、「人はなぜ生まれ、いかに生きるか」を語る霊能者も必要だと考えマスメディアに出ることにしたという[6]。

テレビ出演の際はスタジオにろうそくやヤナギの木を置いたり、血の滴るようなテロップやおどろおどろしい「再現ビデオ」などを見せる心霊番組特有の局側の演出を不要だと再三訴え、やめてもらうようにしたという[5]。

当初のテレビ出演時は、守護霊を自身の身体に憑依させ、その守護霊の口調でアドバイスを伝えていたが[18]、後にアドバイスのみを伝えるようになっている。

初期の自著は当初2冊共ほとんど売れず、そのうち1冊は間もなく絶版となってしまった。ある人からの「世間の人はいきなり理解するのは難しい世界だから、もっと身近な具体例を挙げるべき」とのアドバイスを受けて書いた3冊目の自著『幸運を引き寄せるスピリチュアル・ブック』が70万部を超えるベストセラーとなった。2001年(36歳)、カウンセラーの中森じゅあん(「日本算命学協会」 代表)から紹介を受けて三笠書房より出版された。[5]。その後、江原の存在が世間一般に広まり、江原啓之への世間一般の関心が高まるにつれて、当初は精神世界に関心を持つ人にのみ認知された最初の著書『人はなぜ生まれいかに生きるのか』(ハート出版)も非常に高い評価を受けるようになり、沢山の読者を獲得するに至る。

2003年(38歳)、テレビ東京の深夜バラエティ番組『えぐら開運堂』に毎週レギュラー出演し、2年間に渡り女性視聴者に対して人生相談を行う。

同年6月より東京を皮切りに2004年5月まで『江原啓之スピリチュアル・トーク』を全国で開催[3]。

2005年(40歳)4月からは美輪明宏と共にスピリチュアルな視点から人生を説くテレビ番組『オーラの泉』に出演し、話題を呼ぶ。『オーラの泉』において、霊視して部屋の中の様子を言い当ててゲストを驚かせ(当然節度を守った範囲でだが)、番組を盛り上げるデモンストレーションは有名。

2007年(42歳)現在、著書の累計出版部数は900万部を超えており[3]、ベストセラー作家としても世に知られている。

江原に批判的な側は江原のファン・信奉者を揶揄的な意味合いを込めて「エハラー」と呼ぶこともある([14]、p315)。

スピリチュアリストとして
今後はルドルフ・シュタイナーのように、スピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させ、学校や教育などいろんな方面に応用できるようにしたいという([14]、p95・[10]、p210)。

また、将来はホスピスを作ることが自分の夢だとしている([14]、p23)。

2009年度(44歳)から、吉備国際大学短期大学部にて客員教授としてスピリチュアリズム授業を行っている。[19]

2011年(46歳)3月、スピリチュアリズム研究所を発展させ、一般財団法人日本スピリチュアリズム協会を設立する。

歌手としての活動
30代半ばで[5] 武蔵野音楽大学パルナソスエミネンス(特修科)に入学し、声楽を専攻する。菊池英美、吉池道子、ヴィットーリオ・テッラノーヴァらに師事し、同科を修了した[3]。

もともと、サラリーマンだけはなるまいと考えており、芸術で生きて行くことを考えていたという[5]。スピリチュアルカウンセラーを始めたときの「10年計画」にも歌を歌うことが入っていたという。歌詞にこめられた「言霊」とメロディーにこめられた「音霊(おとたま)」によって、豊かな感性を呼び戻してほしいとしており、スピリチュアリズムや霊能者に対する偏見を払拭したい思いもあるという[14]。

2003年からは自身の「公演」の中で歌を披露している[5]。現在も定期的に声楽のレッスンに通っている([14]、p92)。

2000年、武蔵野音楽大学特修科修了演奏会では、ヴェルディ、ロッシーニを中心としたプログラムで優秀な成績を修めた[3]。以後2001年には、「日本歌曲の夕べ」を開催[3]。

2002年、「La strada-イタリアへの道」を東京都渋谷区の音楽ホール「ムジカーザ」で開催[3]。

2004年5月には出版300万部突破を記念して、「江原啓之バリトンリサイタル」を銀座の王子ホールにて行い、イタリア歌曲、オペラ、日本の歌曲を歌った。

また、2004年12月には、デビューアルバム『スピリチュアル ヴォイス』、2006年3月にはセカンドアルバム『スピリチュアル エナジー』をリリース。

2005年度より美輪明宏の提言により「スピリチュアル・アーティスト」としての活動を開始、2005年1月から3月まで全国各地で『江原啓之スピリチュアル・ヴォイス』公演を行い、5月には東京・渋谷公会堂で特別追加公演も開催した。ヴェルディ、ロッシーニ等のベルカントオペラを得意とし、その他様々なコンサート・リサイタル等に出演している。

2007年9月から10月にかけて、四大都市で三枝成彰プロデュースの20周年記念チャリティー[20]コンサートを行う。初めてオーケストラをバックにし、ソプラノ歌手佐藤美枝子と共演した。財津和夫、イルカ、尾崎亜美らが出演し、デュエットも披露[21]。

2008年5月、関西二期会第68回オペラ公演『セヴィリアの理髪師』に特別出演、フィオレルロ役を演じた。2009年5月には関西二期会第70回オペラ公演『ラ・ボエーム』にて、ベノアおよびアルチンドロ役を演じた。

また、作詞家としてもイルカの『まるい地球は誰のもの』の作詞をイルカと共作であるが手掛けている。

1998年から声楽を指導してきた武蔵野音大の菊池英美教授は「当初は技術的に素人のレベルだったが、確実に成長して今ではヘタなプロよりも感動的に歌う。2010年12月の『第九』公演でも佐藤美枝子を相手に負けていなかった。一番の特徴は声が柔らかく人間的な温かみがあること」と評価している[22]。

江原本人は、スピリチュアルは生活のための「適職」で、歌は心を豊かにする「天職」と言っている[22]。

12月19日生まれの有名人「山谷初男」



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山谷 初男(やまや はつお、1933年12月19日 - )は、秋田県仙北郡角館町(現仙北市)出身で舞プロモーションに所属する日本の俳優である。本名は山谷 八男。旧芸名は山谷 初夫。秋田県立角館北高等学校(現:秋田県立角館高等学校)卒業。

来歴・人物編集

1953年に劇団東芸で『ホタルの歌』三吉役で初舞台を踏み、1964年に『ケチまるだし』森本健二役で映画デビュー。以後数々のドラマ・映画に脇役として出演している。特に、若い頃は、時代劇で凄みのある悪役を演じたり、日活ロマンポルノなどにも出演していた。

生家はJR角館駅前の「やまや旅館」(「食堂やまや」も経営)。秋田県出身俳優で、秋田弁を自在に使いこなせるため、東北弁の役柄が多く、人柄の良い中年や老人の役で素朴な味わいを出している。

1994年4月角館町に小劇場「はっぽん館」を建設。演劇、芸能全般、交流の館として地域に開放している。因みにはっぽんとは、新宿ゴールデン街で飲んでいた崔洋一らから呼ばれていた愛称だと、昭和は輝いていたで語られた。

編み物が得意という一面があり、自分で着るベストなどを編んでいることを関根勤に賞賛されたことがある。

出演作品編集

映画
ケチまるだし(1964年、不破三雄監督 / 松竹) - 森本健二
胎児が密猟する時(1966年、若松孝二監督 / 若松プロ) - 丸木戸定男
裏切りの季節(1966年、大和屋竺監督 / 若松プロ)
避妊革命(1967年、足立正生監督 / 若松プロ) - 京谷三郎
日本暴行暗黒史 異常者の血(1967年、若松孝二監督 / 若松プロ)
性の放浪(1967年、若松孝二監督 / 若松プロ) - 種田昌三
荒野のダッチワイフ(1967年、大和屋竺監督 / 国映)
変質者(1967年、山本晋也監督 / 若松プロ)
性犯罪(1967年、若松孝二監督 / 若松プロ) - ポン引き
肉体の欲求(1968年、若松孝二監督 / 若松プロ)
性地帯 セックスゾーン(1968年、足立正生監督 / 若松プロ) - 丸木戸定男
金瓶梅(1968年、若松孝二監督 / 松竹) - 武大
性遊戯(1969年、足立正生監督 / 若松プロ) - 孝二
狂走情死考(1969年、若松孝二監督 / 若松プロ) - 長老
無頼漢(1970年、篠田正浩監督 / 東宝、にんじんくらぶ) - 葦市
修羅(1971年、松本俊夫監督 / 松本プロ、日本ATG) - 長八
八月の濡れた砂(1971年、藤田敏八監督 / 日活、ダイニチ映配) - 五郎
いのちぼうにふろう(1971年、小林正樹監督 /俳優座映画放送、東宝) - 文太
あゝ声なき友(1972年、今井正監督 / 松竹) - 漁民
子連れ狼 死に風に向う乳母車(1972年、三隅研次監督 / 東宝)
女地獄・森は濡れた(1973年、神代辰巳監督 /日活) - 竜之助
日本妖怪伝 サトリ(1973年、東陽一監督 / 青林舎)
番格ロック(1973年、内藤誠監督 /東映 ) - 今野保護司
四畳半襖の裏張り(1973年、神代辰巳監督 / 日活) - ぴん助
砂の器(1974年、野村芳太郎監督 / 松竹) - 亀田署員
エスパイ(1974年、福田純監督 / 東宝) - ボール
青い山脈(1975年、河崎義祐監督 / 東宝) - 田中先生
若い人(1977年、河崎義祐監督 / 東宝) - 秋本先生
八甲田山(1977年、森谷司郎監督 /東宝) - 沢中吉平
八つ墓村(1977年、野村芳太郎監督 / 松竹) - 馬喰吉蔵
俺は田舎のプレスリー(1978年、満友敬司監督 / 松竹) - 駐在
鬼畜(1978年、野村芳太郎監督 / 松竹) - 印刷屋
赫い髪の女 (1979年、神代辰巳監督 / にっかつ) - 光造の姉の男
俺たちの交響楽(1979年、朝間義隆監督 / 松竹) - 工場の班長
俺達に墓はない(1979年、沢田幸弘監督 / 東映) - 中井
十九歳の地図(1979年、柳町光男監督 / プロダクション群狼) - 店主
夜叉ヶ池(1979年、篠田正浩監督 / 松竹) - 与十
わるいやつら(1980年、野村芳太郎監督 / 松竹) - 藤島春次
ツィゴイネルワイゼン(1980年、鈴木清順監督 / シネマ・プラセット) - 巡査
思えば遠くへ来たもんだ(1980年、朝間義隆監督 / 松竹) - 檜山大八郎
四季・奈津子(1980年、東陽一監督 / 東映洋画) - 北京料理店のチーフ
五番町夕霧楼(1980年、山根成之監督 / 松竹) - 鳳閣寺・大原
遥かなる走路(1980年、佐藤純弥監督 / 松竹) - 佐藤亀次郎
海峡(1982年、森谷司郎監督 / 東宝) - 石谷音太郎
男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983年、山田洋次監督 / 松竹) - 漁船の船長
居酒屋兆治(1983年、降旗康男監督 / 東宝) - 有田
天城越え(1983年、三村晴彦監督 / 松竹) - 山田警部補
北の螢(1984年、五社英雄監督 / 東映) - 丸徳
俺ら東京さ行ぐだ(1985年、栗山富夫監督 / 松竹) - 力メラマンA
火宅の人(1986年、深作欣二監督 / 東映) - 葉子の養父
紳士同盟(1986年、那須博之監督 / 東映) - 樹里野耕平
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、河合義隆監督 / 東宝) - 庄兵衛
泣きぼくろ(1991年、工藤栄一監督 / 松竹富士) - 梅津春夫
きらきらひかる(1992年、松岡錠司監督 / ヘラルド)
寝盗られ宗介(1992年、若松孝二監督 / 松竹富士) - 留造
怖がる人々(1994年、和田誠監督 / 松竹) - 甚平
キッズ・リターン(1996年、北野武監督 / ユーロスペース) - ジムの会長
カンゾー先生(1998年、今村昌平監督 / 東映) - 袴田の爺さん
のど自慢(1999年、井筒和幸監督 / シネカノン) - 名曲堂の店主
秘密(1999年、滝田洋二郎監督 / 東宝) - 三郎
さよなら、クロ(2003年、松岡錠司監督 / シネカノン) - 溝口校長
カミュなんて知らない(2006年、柳町光男監督 / プロダクション群狼)
どろろ(2007年、塩田明彦監督 / 東宝) - 地獄堂の住職
舞妓Haaaan!!!(2007年、水田伸生監督 / 東宝) - カメラ老人
さまよう刃(2009年、益子昌一監督 / 東映) - 木島隆明
新堀川の上で(2012年、山口智監督 / ニューシネマワークショップ)
じんじん(2013年、山田大樹監督 / 「じんじん」全国配給委員会) - 小山善次郎
少年H(2013年、降旗康男監督 / 東宝) - うどん屋の主人

12月18日生まれの有名人「植草一秀」



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植草 一秀(うえくさ かずひで、1960年12月18日 - )は、日本の経済評論家、経済学者である。専門は、日本経済論、金融論、経済政策論。スリーネーションズリサーチ株式会社代表取締役社長。1998年日本経済新聞社アナリストランキング・エコノミスト部門第一位獲得。「現代日本経済政策論」で第23回石橋湛山賞[1][2][3]。

人物編集

東京都江戸川区生まれ。東京都立両国高等学校を経て、東京大学経済学部卒業。野村総合研究所エコノミストや早稲田大学大学院教授などを歴任[4]。好きな経済学者としてジョン・メイナード・ケインズとミルトン・フリードマンを挙げている[5]。小泉内閣による「聖域なき構造改革」などの諸政策に対しては批判を行う一方[6]、政府の無駄を排除した小さな政府は「良い小さな政府」として肯定している[7]。地球温暖化については、自身のブログで懐疑的な立場を表明している[8]。2005年以降、刑事事件で二度の有罪判決を受けている[9]。

略歴
1979年4月 - 東京大学文科2類に入学
1983年3月 - 東京大学経済学部経済学科を卒業
1983年4月 - 野村総合研究所に入社し経済調査部を担当
1985年7月 - 大蔵省財政金融研究所研究官
1991年6月 - 京都大学経済研究所助教授
1993年10月 - スタンフォード大学フーバー研究所(Hoover Institute)客員フェロー
1996年7月 - 野村総合研究所主任エコノミスト
1999年4月 - 野村総合研究所上席エコノミスト
2002年4月 - 野村総合研究所主席エコノミスト
2003年4月 - 早稲田大学大学院(専門職大学院)公共経営研究科教授。大阪経済大学客員教授
2005年4月1日 - スリーネーションズリサーチ株式会社を設立、代表取締役社長に就任
2006年4月 - 名古屋商科大学客員教授 (同年9月まで)
複数の刑事事件とその影響編集

条例違反事件(一)
現行犯逮捕・起訴(被疑者として)
2004年(平成16年)4月8日午後3時頃、早稲田大学大学院教授の職にあった植草は、品川駅のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして、鉄道警察隊員に東京都迷惑防止条例違反(粗暴行為の禁止)の容疑で現行犯逮捕された[10]。植草は逮捕直後に容疑事実を認め[11]、謝罪したものの[12]、その後「手鏡は持っていたが、のぞいていない」と否認に転じた[13]。本人のブログによると、捜査段階では一貫して品川駅エスカレーターの防犯カメラ映像の記録を確認することを求めたが、その映像は既に廃棄されていたという[5]。
同年4月28日、東京地方検察庁は同容疑で植草を起訴[14] 。植草は同年5月10日、保釈保証金300万円を納付して即日保釈された[15] 。
事件の影響
事件を受けてテレビ各局は、植草をそれまでの出演番組から降板させた[13]。また、徳島県も2004年(平成16年)4月13日、植草をそれまでの「カモンとくしま」アドバイザリー・スタッフから解任した[16]。早稲田大学理事会も同年5月7日、植草の教授職解任を議決した。この事件がメディアで大きく取り上げられたことによって、経済コメンテーターとしてテレビ番組にたびたび出演していた植草の評判は落ちた[17]。
裁判(被告人として)
2004年(平成16年)6月17日、初公判が東京地裁で開かれた。植草は「起訴事実は真実ではない。この法廷の正義に誓って無罪、潔白です」と全面的に争う姿勢を示した。一方、検察側の冒頭陳述によると、植草の自家用車の中から女子高生の制服のような服装をした女性が写ったインスタント写真やデジタルカメラ画像が約500枚見つかり、また植草の携帯電話からも同様の画像が見つかったという[18]。同年8月30日、植草は霞ヶ関で記者会見し、「手鏡はテレビ出演時に身だしなみを確認するため持っていただけ。天地神明に誓って潔白だ」と改めて身の潔白を主張[19]。一旦は容疑を認めたことについては、そうすれば情状酌量が得られるという警察からの強い提案があったからだ、と語った[20]。2005年(平成17年)2月21日、検察側は植草に懲役4ヶ月、手鏡1枚没収を求刑、弁護側は改めて無罪を主張し、裁判は結審した[21]。
有罪確定(罰金の支払い、社会復帰へ)
同年3月23日、東京地裁(大熊一之裁判長)は、「現行犯逮捕した警察官の証言は信用でき、証拠は十分だ。犯行は手慣れているとの印象さえある。犯行に至るまでの間も、不審な行動を繰り返しており、偶発的な犯行とは言い難い」とし、罰金50万円、手鏡1枚没収の判決を言い渡した[22]。これに対し植草は「天地神明に誓って無実」と冤罪を主張したが、同年4月6日の控訴期限日に刑が確定した[23]。控訴しなかったのは裁判制度が正しく機能していないことに気づいたからである、と植草は語った[24]。
条例違反事件(二)
現行犯逮捕・起訴(被疑者として)
2006年(平成18年)9月13日午後10時頃、京急本線の品川駅-京急蒲田駅間の下り快特電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の現行犯で警視庁により逮捕された。女子生徒が声を上げ、周りの乗客が植草を取り押さえて警察に引き渡した[25]。逮捕直後から植草は「酒に酔っていて覚えていない」と容疑を否認していた[26]。同年10月4日、東京地検は植草を逮捕容疑で起訴したが、植草は「人違いか(被害者の)勘違いではないか」と容疑を否認した[27]。
事件の影響
2006年(平成18年)9月26日、名古屋商科大学は理事会を開催し常勤職員の懲罰基準に照らし、植草の免職(解雇)処分を決議した(理由は、逮捕・勾留により後期授業をすることが不可能なため。発表は翌27日)。植草を雇っていた第一興商や極東証券は、前回の事件のときとは異なり、彼を擁護することはしなかった[28]。
裁判(被告人として)
2006年(平成18年)12月6日、東京地裁で初公判が開かれた。植草は「天に誓ってやっていない」と無罪を主張。起訴状によると事件当時、被害女性から「子供が見てるのに恥ずかしくないんですか?」と言われうつむいていると、他の男性乗客2人に取り押さえられ駅事務室に連行。当初は「私は女性が不快に思うことをやりました」と容疑を認めたにもかかわらず、警察の取調べに際し一転無罪を主張したとされる[29]。一方で、植草は「これが土石流のように報道され、家族も被害を受けてしまう。家族を守るためには私が死ぬしかない」と思い、駅事務室でネクタイを首に締めて家族のために自殺も図ろうとしたことも明らかになった。弁護側は「被告人は当時紹興酒を20〜30杯近く飲んでいる酒酔い状態」であり痴漢などをできる状態にはなく、また「痴漢騒ぎかと思って、絶対に関わりたくないなと思っていたら自分が犯人にされた」と主張している[29]。
同年12月20日、第2回目公判が開かれ、検察側証人として目撃者が出廷し、被害女性もビデオで証人尋問に応じた。検察側証人の目撃者は「痴漢をしたのは植草被告人に間違いありません」と述べた。また検察は、事件当時の被害女性の着衣を鑑定している。その後の公判で植草の無実を証言する証人も現れたが、この証人は植草が車内で取り押さえられたのは目撃したが、それ以前は寝ていたため、事件の決定的瞬間を目撃したわけではなかった[30][31]。
2007年(平成19年)1月25日、第3回目公判が開かれ、被害女性の着衣を鑑定していた科捜研の女性研究員が検察側証人として出廷。「被害女性のスカートの構成繊維と、植草被告人の左手人さし指、右手薬指、右手親指から採取した繊維片が類似」と証言した。
同年7月18日、検察側は「犯行は確信的で執拗(しつよう)だ。常習性が顕著で長期間、矯正をするため実刑にするのが相当だ」とし、懲役6月を求刑した[32]。
度重なる保釈却下
東京地裁は起訴翌日の10月5日、植草の保釈申請に対し、保釈保証金600万円で植草被告人の保釈を許可する決定をした。しかしながら東京地検はこれを不服として準抗告し、翌6日、地裁は地検の準抗告を認め、保釈を却下した。同16日、最高裁第1小法廷は保釈許可を取り消した地裁の決定を支持し、植草側の特別抗告を棄却した。2007年(平成19年)1月19日に、東京地裁は再び保釈許可を出し、植草側は保釈金600万円を納入した。しかし、同日東京地検が準抗告したため、保釈の執行は停止されていた。同22日、地裁が地検の準抗告を退けたため、植草は即日保釈された。
実刑判決、控訴へ
2007年10月16日、東京地裁(神坂尚裁判長)は、「不合理な弁解をして反省の姿勢が全く認められない」と植草の姿勢を強く非難した上で、「規範意識に相当問題があり再犯のおそれも否定できない。もはや社会内での更生は期待できない」と懲役4月の実刑判決を言い渡した[33]。植草側は東京高裁に即日控訴した。
2008年(平成20年)3月18日、東京高裁(田中康郎裁判長)で控訴審が始まった。植草はあらためて無罪を主張。手指から採取された繊維は駅員ともみあった際に付着したものであると主張し、駅員着用の制服構成生地を入手して、その生地構成繊維の鑑定をある大学教授に委嘱し、手指付着物との比較を行った。その結果、手指付着物から確認された4本の「青色獣毛繊維」は駅員が着用していた制服構成生地の構成繊維と「極めて類似」しているとの鑑定結果を得たが、裁判ではこの鑑定結果は証拠として採用されず、鑑定を行った大学教授を証人申請したが却下された[34]。
控訴棄却、上告へ
同年4月16日、東京高裁(同)は「被害者や目撃者の証言は信頼性が高い」として一審の実刑判決を支持し、控訴を棄却した[35]。植草側は同日上告した[36]。
上告棄却、実刑確定、収監
2009年(平成21年)6月25日、最高裁第3小法廷(近藤崇晴裁判長)は、一審及び二審の実刑判決を支持して植草の上告を棄却する決定を下した[37]。これにより植草の懲役4月の実刑判決が確定し[38]、8月3日に収監され同年10月4日に、満期出所した。
出所後
出所後は文筆活動、講演活動を再開した。
報道被害に対する損害賠償請求
名誉毀損で週刊誌4誌及びテレビ局を提訴
刑事裁判においては敗訴したが、自身に向けられた人権被害(報道被害)については民事裁判を起こし、一部においては勝訴している。
2007年(平成19年)4月19日、植草は小学館、講談社、徳間書店及び毎日新聞社を相手取り、計5500万円の損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に提起した。それぞれ『女性セブン』、『フライデー』、『アサヒ芸能』、『サンデー毎日』に掲載された痴漢事件の記事によって名誉を毀損されたとの理由による[39]。さらに、2007年(平成19年)9月10日、朝日放送(大阪市)の報道により名誉を傷付けられたとし、同社に1,100万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。同局は情報番組「ムーブ!」(2006年9月21日、生放送)の中で、上述の『女性セブン』の記事をそのまま紹介していた。植草側は「当日に発売された記事を独自の取材をすることなくうのみにして放送した」と同局を強く批判した[40]。
小学館との和解
2008年(平成20年)4月4日、東京地裁で『女性セブン』を発行する小学館との和解が成立。小学館側の和解金100万円の支払いや謝罪広告の掲載などが条件。記事では植草が痴漢で10回摘発されたと報じたが、実際には3回だと認定されたため。
徳間書店との裁判
2008年(平成20年)5月21日、東京地裁(村田渉裁判長)は『アサヒ芸能』が掲載した植草に関する記事について、「記事の内容は真実ではなく、真実と信じる相当の理由もない。逮捕後でも起訴前の否認段階では原告が無実と信じる者もいたので、記事による名誉棄損は軽視できない」とし、出版元の徳間書店に190万円の支払を命じた[41]。
講談社との裁判
2008年(平成20年)7月28日、東京地裁(石井忠雄裁判長)は、植草のことを「7〜8回近く同様の行為で厳重注意を受けている」と報じた『フライデー』に対し、「記者は警視庁関係者らに取材しているが、客観的な裏付けがなく、真実と信じる相当の理由はない」とし、発行する講談社に110万円の支払を命じた。この判決に対しフライデー編集部は、「今後の捜査情報にかかわる報道を困難にするもので承服できない」とのコメントを発表した[42]。
毎日新聞社に敗訴
2008年(平成20年)9月8日、東京地裁(大段亨裁判長)は、植草のことを「セクハラ癖は業界では有名」と報じた『サンデー毎日』に対し、「セクハラ癖があるのは真実と認められるが、『業界では有名』という部分は真実の立証がない」とし、発行する毎日新聞社に33万円の支払いを命じた[43]。しかし、2009年(平成21年)2月18日、控訴審で東京高裁は「記事は真実と認められる」と毎日新聞社の逆転勝訴判決を言い渡し[44]、さらに2009年(平成21年)6月23日、最高裁第3小法廷は植草の上告を棄却し、毎日新聞社の勝訴が確定した。

12月17日生まれの有名人「夏目雅子」



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夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年12月17日 - 1985年9月11日)は、日本の女優である。本名、西山 雅子(にしやま まさこ)。旧姓、小達(おだて)。其田事務所などに所属していた。


1957年12月17日、東京都港区旧高樹町の日赤病院にて、六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる。父親は貿易商[1]。3歳上には兄、10歳下に弟がいた。趣味は毛糸の編物、絵(デッサン)、琴、古い食器収集、俳句(東京俳句倶楽部所属、俳号は海童)、生け花(草月流)。

六本木の亀甲屋、高輪、神奈川県横浜市中区山手と居を移したが、ここはモービル石油の日本支社長の旧宅で敷地は250坪もある豪邸だった。千葉県館山にも別荘を持つなど、後にお嬢さんと呼ばれるに相応しい家庭環境である。

小学3年生のときにテレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したのが初め。この時に子役になりたいと思ったが母親に猛反対されかなわず[1]、後に17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を映画館で見て衝撃をうけ、ソフィア・ローレンに憧れ、本格的に女優を目指すようになった。

東京女学館小学校、中学校、高等学校卒業[2]。学生時代のあだ名は「ダテピン」。あけっぴろげでテストで悪い点数をとったときに限って「見て、見て」と答案を見せたがるからとのこと[3]。

1976年、東京女学館短期大学にそのまま進学してフランス語を専攻するが、入学直後に、父の友人のツテでタオルメーカー内野株式会社(現UCHINO)のコマーシャルに出演。これはデビュー前で最初のテレビ挑戦だったが、厳しい学校であったので、結局、短大は中退することになる。

同年、日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか』のオーディションで486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった[4]。周囲から“お嬢さん”と見られることは後々まで彼女のコンプレックスであった。

1977年から8年間、山口銀行の広告に登場。

1977年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する[5]。ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった[6]。
その後、TBSの『すぐやる一家青春記』で二回目の連ドラ出演し、東映『トラック野郎』にも6代目マドンナに抜擢された。

1978年、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。この時、「頭の形が良く、美しくて神々しい」と話題になった。ドラマは好評で、翌年放送される『西遊記II』にも出演。これらのドラマによって夏目雅子の人気が高まったことにより、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、本格的に女優を目指したいと本人が直訴して、P&M事務所[7]から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した[8]。以後、仕事は女優業中心となる。

1979年、父が癌に倒れ、摘出手術。夏目雅子は「気絶してしまうからやめなさい」という医師の指示を聞き入れず、父の手術の一部始終をその目で見た[8]。なお父は末期癌で手術のかいなく翌年に47歳で他界した。

1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)で初主演。同様に夏目雅子の女優としての将来性を見抜いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった[8]。これらドラマでの迫真の演技により女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。
さらにこの年は映画『二百三高地』にも出演。

1981年、『野々村病院物語』に出演。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』にもお市の方役で出演。この年にバセドウ病の手術を行った。[9]

1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人がヌードになった。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。

1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』に淀君役で出演。『小説吉田学校』で吉田茂の三女麻生和子(元内閣総理大臣麻生太郎の母)役で出演。

1984年、不倫していた作家伊集院静と結婚[10]。神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻。結婚式もこの寿司店で内輪だけで行われた。後日、自宅で週刊誌用に行われた記者会見では、新婚旅行はどこに行きますかと問われて、「韓国[11]です。」と答えている。

1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中10円玉大の口内炎が出来、さらに激しい頭痛等極度の体調不良を訴える。それでも泣きながら「這ってでも舞台に戻る!」と頑なに出演続行を望む夏目本人を何とか説得して、共演の西岡徳馬の勧めにより翌2月15日慶應義塾大学病院に緊急入院した。急性骨髄性白血病[12]と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。当初から、娘の芸能活動にずっと反対だった母スエは、彼女が入院して初めて娘の出演する作品をみてベッドの彼女に話しかけた。その時彼女はとても喜んだという。

1985年9月11日午前10時16分、逝去。約7ヶ月という長い闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体になり27歳で死去。

戒名は芳蓮院妙優日雅大姉。菩提寺は、山口県防府市防府駅近くの大楽寺、多磨霊園の小達家の墓にも分骨されている。なお彼女自身の遺作は『北の螢』であった。[13]

没後10年にあたる1995年、キヤノンのコピー機の宣伝に夏目雅子が起用され、限定百組で写真集をプレゼントするという企画があったが、全国から23万人もの応募があった[8]。後に彼女を題材にしたテレビドラマも数多く作られた。

12月16日生まれの有名人「アーサーCクラーク」



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サー・アーサー・チャールズ・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke、1917年12月16日 - 2008年3月19日)は、イギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。


1950年代から1970年代にはロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフと並んでビッグ・スリーと称されるSF界の大御所として活躍した[2]。他の2人がエンターテイメント、SF叙事詩を志向したのに対して、クラークは豊富な科学的知識に裏打ちされた近未来を舞台にしたリアルなハードSF作品群と仏教思想に共鳴した「人類の宇宙的進化」を壮大に描く作品群とに特色がある。代表作は『幼年期の終わり』、『2001年宇宙の旅』。作品のほとんどが邦訳されている。短編では「太陽系最後の日」や「星」などが有名。SF以外の小説はイギリス空軍時代の体験を基にした1963年の Glide Path(日本語未訳)の一作のみ。

1941年から1946年までイギリス空軍にてレーダー技師を務めた。1945年には人工衛星による通信システムを提案した[3][4]。1946年から1947年まで英国惑星間協会の会長を務め、1951年から1953年にも再び会長を務めた[5]。

1956年、スリランカ(当時セイロン)に移住したが、これはスキューバ・ダイビング好きが高じたのが主な理由であり[6]、死去するまでほとんどの期間をそこで過ごした。『スリランカから世界を眺めて』というスリランカでの暮らしに触れたエッセイ集もある。晩年まで小説を執筆した。1998年エリザベス女王よりナイトの称号を授与され[7][8]、2005年にはスリランカの文民向けの最高の勲章 Sri Lankabhimanya を授与された[9]。


1917年12月16日に、サマセット州マインヘッドにて生まれる[2]。少年時代は天体観測を趣味とし、アスタウンディングなどのパルプ誌をはじめとしたSF小説に熱中していた[10]。1934年に英国惑星間協会へ入会し、活発に活動する(1946年には会長になった)。1936年にグラマースクールを卒業した後は公務員(教育委員会の年金部門の監査役)として働いていた[11]。

第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、レーダーの開発に取り組み、教官も務める。レーダーによる早期警戒システム構築に関わり、このシステムがバトル・オブ・ブリテンでの勝利に寄与した。戦時中に特に力を入れたのは着陸誘導管制 (GCA) 用レーダーの開発であり、半自伝的小説 Glide Path に描かれている。戦争中にGCAが広く実用化されることはなかったが、その後の開発によって1948年から1949年のベルリン封鎖では大いに活用された。軍での階級は当初伍長だったが、1943年5月27日には空軍少尉(技術部門)となっている[12]。さらに1943年11月27日には中尉に昇格している[13]。復員時には大尉だった。戦後、ロンドン大学のキングス・カレッジに入学し、物理学と数学を専攻する。一時、大蔵省に勤めるがすぐに退職。

静止衛星の概念そのものはクラークの発明ではないが、人工衛星による電気通信のリレーというアイデアはクラークのものである。1945年にそのアイデアを論文にし、英国惑星間協会の主要メンバーに見せた。その論文を改稿したものを同年10月に科学雑誌“Wireless World”へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる[14][15]。1946年から1947年にかけて英国惑星間協会の会長を務め[16]、さらに1951年から1953年にかけても同職を務めた[17]。クラークは宇宙開発に関する科学解説書もいくつか書いており、『宇宙の探検』(1951) と The Promise of Space (1968) が特に有名である。赤道上空高度36,000kmの静止軌道を衛星通信に利用するというアイデアを提唱したことから、国際天文学連合はその軌道を公式に「クラーク軌道」と名付けた[18]。

1953年、フロリダに旅行して子持ちの22歳のアメリカ人女性 Marilyn Mayfield と出会い、電撃的に結婚[19]。6カ月後には別居したが、離婚が正式に成立したのは1964年のことである(映画2001年宇宙の旅の製作時期のアメリカ滞在中)[20]。クラークは「この結婚は最初から間違いだった」と述べている[20]。その後クラークが結婚することはなかったが、スリランカ人男性 Leslie Ekanayake とは親密な関係となり、『楽園の泉』の献辞には彼について「生涯ただ1人の親友」と書いていた[21]。クラークはコロンボにある墓地で、約30年前に亡くなった Ekanayake と同じ墓に埋葬された。スタンリー・キューブリックの伝記を書いた John Baxter は、クラークの同性愛指向について、彼がスリランカに移住した理由の1つとしてスリランカの法律が同性愛に寛大だったからだとしている[22]。あるジャーナリストがクラークに同性愛者なのかと尋ねたときは否定していた[23]。しかし、マイケル・ムアコックは次のように書いている。

誰もが彼がゲイだと知っていた。1950年代にはボーイフレンドを伴った彼と飲みに行ったこともある。彼の同棲相手やその家族にも何度も会ったことがある。彼らは一様に彼の親切に感謝していた。やや自己陶酔的で絶対禁酒主義者だったが、全く完璧な紳士だった。[24]

ムアコックの主張を裏付ける文献はないが、PLAYBOY誌1986年7月号のインタビュー[25]でクラークは両性愛の経験があるかと尋ねられ「もちろん」と応えている[26]。

クラークは原稿や個人的メモの膨大なコレクション "Clarkives" を維持していた。現在は兄弟のフレッド・クラークが保管している。クラークはかつて、死後30年経過するまで日記を公開しないと述べている。なぜ日記を封印したのかと聞かれ「まあ、あらゆる種類の恥ずべきことがそこに書かれているかもしれない」と応えている[27]。

作家としての経歴
クラークは1937年から1945年までファンジンにいくつか小説を発表していたが、1946年、アスタウンディング4月号に掲載された短編「抜け穴」で商業誌デビューする。実際に最初に売れたのは翌5月号に掲載された「太陽系最後の日」である。この作品は評価が高く、日本では『S-Fマガジン』創刊号に翻訳が掲載され、支持を得た。作家活動が本格化してきた1949年に Science Abstracts 誌の編集助手として働くようになったが、1951年以降は専業作家となった。また、イギリスのSFコミック Dan Dare シリーズの原作も手がけており、最初の長編3作は子供向けを意図して書いていた。

クラークは1940年代から1950年代にかけてC・S・ルイスと文通しており、一度オックスフォードのパブで会い、SFと宇宙旅行について議論したことがある。ルイスの死後、クラークは別世界物語三部作を本物の文学といえる数少ないSF作品だと述べ、最大限の賛辞を贈った。

1948年、BBCのコンクール向けに「前哨」を書いた。選外となったが、この作品がその後のクラークの経歴に変化をもたらした。それは『2001年宇宙の旅』の元になっただけでなく、クラーク作品により神秘的および宇宙的要素が加わるきっかけとなった。その後のクラークの作品では、技術的には現在よりも進歩しているが未だに偏見にとらわれた人類がさらに優れた異星生命体に出会うという設定が特徴的に見られるようになった。『都市と星』(およびその元になった『銀河帝国の崩壊』)、『幼年期の終り』、2001年シリーズといった作品では、優れた異星種族との出会いが概念的突破口を生み出し、人類がさらに次の段階へと進化することになる。クラーク公認の伝記において Neil McAleer は「いまだに多くの読者や批評家が(『幼年期の終り』を)アーサー・C・クラークの最高傑作としている」と書いている[20]。

クラークは1956年から亡くなる2008年までスリランカに住んだ。移住当初はまだ「セイロン」と呼ばれており、まず南のUnawatunaに住み、その後コロンボに引っ越した[23]。クラークはイギリスとスリランカ両国の市民権を持っていた[28]。大のスキューバ・ダイビング好きで、Underwater Explorers Club の会員でもあった。作家活動の傍ら、クラークはビジネスパートナーの Mike Wilson と共にダイビング関連のベンチャーを何度か起業している。1961年、Wilsonは Great Basses Reef で難破船を発見し、そこから銀貨を回収した。翌年その難破船にダイビングして本格的に宝探しする計画だったが、クラークが麻痺を訴えて計画が中止され、ポリオと診断された。翌年、クラークは海岸や船上で銀貨回収を観察した。その難破船は最終的にムガル帝国のアウラングゼーブのものと判明し、ルピー銀貨の溶融した袋や大砲などが見つかり、クラークは詳細に記録した文書を元にしてノンフィクション The Treasure of the Great Reef を出版した[20][29]。スリランカに住みその歴史を学んだことが、軌道エレベータを描いた小説『楽園の泉』の背景となった。軌道エレベータはロケットを時代遅れにし、静止衛星よりもこちらの方が重大な科学的貢献になるとクラークは信じていた[30]。

1958年ごろ、クラークは様々な雑誌に科学的エッセイを連載し多くの予言を残している。これらは1962年の『未来のプロフィル』にまとめられている。2100年までの年表[31]には様々な発明やアイデアが盛り込まれており、例えば2005年に "global library" という記述がある。同書には「クラークの第一法則」が書かれ、後の版で「クラークの三法則」に改められている[20]。

その後
1970年代初め、クラークは3作品の出版契約を結んでおり、当時のSF作家の新記録だった。そのうちの1作目『宇宙のランデブー』は1973年に出版され、主な賞を総なめにし、シリーズ化されることになり、2001年シリーズと並んで後期のクラークの経歴の基盤となった。1970年、「国際SFシンポジウム」(小松左京主宰)にジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディス、ユーリ・カガルリツキーらと共にゲストとして来日、各地を遊歴。親睦会にてクラークはスリランカ風フラダンスを披露。

12月15日生まれの有名人「高橋克典」



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高橋 克典(たかはし かつのり、1964年12月15日 - )は、日本の歌手、俳優。神奈川県横浜市出身。所属事務所はケイダッシュ。身長175.8 cm、体重68 kg(只野仁の時は61 kg)。趣味はツーリング。


両親ともに音楽家で、3歳からピアノの英才教育を受ける。

青山学院初等部・青山学院中等部・高等部卒業、青山学院大学経営学部中退[1]。

1993年『抱きしめたい』で歌手デビュー。のちに俳優業もはじめ、『サラリーマン金太郎』や『特命係長 只野仁』などのヒットを得る。その後、『竜二Forever』(細野辰興監督作品)で、伝説の俳優・金子正次役に挑むなど、野心的な作品にも出演し、評価を得ている。

尾崎豊は、同じ高校の1学年後輩に当たる。本人は、テレビ番組などで度々「音楽サークルの部室で、“先輩、いい曲が出来たから聴いてよ”と言われ、彼が演奏したのが凄く格好良くて〜」というコメントをしている。梅宮辰夫は母の従兄弟(母方祖母の甥)で、梅宮アンナと梅宮万紗子とは再従姉妹(母方祖母の大姪)にあたる。梅宮辰夫とは『特命係長 只野仁』で共演している(第31話では梅宮アンナとも共演)。梅宮万紗子とは、『金曜日の恋人たちへ』『サラリーマン金太郎2』で共演している。梅宮アンナとはバラエティ番組等で共演しており、「かっちゃん」と呼ばれている。

2004年10月にモデルの中西ハンナと結婚。母校の青山学院の礼拝堂で、挙式をした。

2013年1月7日放送の『ファミリーヒストリー』(NHK)で父・高橋勝司が取り上げられた。

中学・高校時代にはラグビー部に所属しており、2003 ラグビー・ワールドカップ放送(テレビ東京)では、キャスターをつとめた。

『サラリーマン金太郎』と並ぶもう一つの代表作『特命係長 只野仁』では、格闘アクションと肉体を披露する。その肉体を維持するために、撮影時期の前になると食事はタンパク質と野菜以外ほとんど摂らず、ジムに通い詰めるストイックな生活を送っているという。また、この作品をきっかけに肉体を維持するようになったといい、現在も撮影とは関係なしに食事に気をつけたりジムで体を鍛えているという。また、『ガチバカ!』をきっかけにボクシングジムなどにも通っている。

2008年10月17日、BS朝日の『愛のワンニャン大作戦』でバラエティ番組初司会を務める。翌27日14時39分、体重3,960 gの男児が誕生した。

2010年4月3日と翌週4月10日(いずれも土曜日)に放送されたNHKの古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』で時代劇初出演を果たした。同年11月2日、ベストレザーニスト2010に選ばれる。また、2010年皮革親善大使にも就任している。


テレビドラマ
ピーマン白書(1980年10月4日 - 11月22日、フジテレビ系) - 本格的に俳優になる以前に出演
さすらい刑事旅情編 第18話「上越新幹線とき・雪に消えた花嫁」(1989年3月1日、テレビ朝日 / 東映)
教師夏休み物語 (1992年7月1日 - 9月23日、日本テレビ系)
ポケベルが鳴らなくて(1993年7月3日 - 9月25日、日本テレビ系) - 田所恭平 役
ひとの不幸は蜜の味(1994年1月11日 - 3月22日、TBS系) - 菊池浩司 役
上を向いて歩こう!(1994年4月11日 - 6月27日、フジテレビ系) - 椿雄司 役
グッドモーニング(1994年7月14日 - 9月22日、日本テレビ系、木曜劇場) - 倉田一志 役
FOR YOU(1995年1月9日 - 3月20日、フジテレビ系) - 三矢徹 役
ひと夏のラブレター(1995年7月6日 - 9月21日、TBS系) - 田辺黎 役
リング〜事故か!変死か!4つの命を奪う少女の怨念(1995年8月11日、フジテレビ系) - 主演・浅川和行 役
ベストフレンド(1995年10月16日 - 12月11日、日本テレビ系) - 塩見航平 役
ピュア(1996年1月8日 - 3月18日、フジテレビ系) - 神崎涼 役
ひとり暮らし(1996年10月11日 - 12月13日、TBS系) - 新谷高広 役
君が人生の時(1997年1月17日 - 3月21日、TBS系、金曜ドラマ)
沙粧妙子-帰還の挨拶-(1997年3月25日、フジテレビ系) - 竹本哲夫 役
イヴ(1997年10月16日 - 12月18日、フジテレビ系、木曜劇場) - 柳俊輔 役
幻想ミッドナイト「第1話 夢の島クルーズ」(1997年10月4日、テレビ朝日系) - 柄吉正幸 役
翔ぶ男(1998年1月7日 - 2月4日、NHK) - 竜頭亮 役
ランデヴー(1998年7月3日~9月11日、TBS系、金曜ドラマ) - 岩田猛 役
あきまへんで!(1998年10月9日~12月18日、TBS系、金曜ドラマ) - 王博文 役
サラリーマン金太郎シリーズ(1999年 - 2004年、TBS系) - 主演・矢島金太郎 役
サラリーマン金太郎(1999年1月10日 - 3月21日)
サラリーマン金太郎スペシャル(1999年10月3日)
サラリーマン金太郎2(2000年4月9日 - 7月2日)
サラリーマン金太郎3(2002年1月6日 - 3月17日)
サラリーマン金太郎4(2004年1月15日 - 3月18日)
金曜日の恋人たちへ(2000年1月14日 - 3月17日、TBS系) - 田辺春樹役
ブラック・ジャック カルテII 天才女医のウェディングドレス(2000年8月26日、TBS系) - ※特別出演
午前三時のルースター(2000年11月25日、テレビ朝日系、サントリーミステリー劇場) - 主演・長瀬達彦 役
17年目のパパへ(2001年1月4日、TBS系) - 国原恭介 役※特別出演
FACE〜見知らぬ恋人〜(2001年1月10日 - 3月7日、日本テレビ系) - 主演・水野拓巳 / 高川亮 役
傷だらけのラブソング(2001年10月9日 - 12月8日、関西テレビ系) - 主演・吉村浩輔 役
年下の男(2003年1月9日~3月20日、TBS系、カネボウ木曜劇場) - 伊崎駿 役
ムコ殿2003「第2話」(2003年4月24日、フジテレビ系) - 吉野 役※ゲスト出演
特命係長 只野仁シリーズ(2003年~2012年、テレビ朝日系) - 主演・只野仁 役
特命係長 只野仁 1stシーズン(2003年7月4日 - 9月19日)
特命係長 只野仁リターンズ〜女弁護士の秘密を暴け!〜 スペシャル第1弾(2004年12月22日)
特命係長 只野仁 2ndシーズン(2005年1月14日 - 3月18日)
特命係長 只野仁スペシャル〜狙われたセレブな女たち〜 スペシャル第2弾(2005年8月7日)
特命係長 只野仁スペシャル’06〜高級レストランとおふくろの味〜 スペシャル第3弾(2006年9月23日)
特命係長 只野仁 3rdシーズン(2007年1月12日 - 3月)
特命係長 只野仁スペシャル '08 大手銀行派遣女子行員が仕掛けた罠 スペシャル第4弾(2008年2月2日)
特命係長 只野仁スペシャル '09 スペシャル第5弾(2009年1月3日)
特命係長 只野仁 4thシーズン(2009年1月8日 - 3月)
特命係長 只野仁ファイナル(2012年1月6日・7日)
バツ彼(2004年7月1日~9月16日、TBS系) - 主演・安達恭介 役 
ハラハラ刑事〜危険な二人の犯罪捜査〜(2004年9月18日、テレビ朝日系、土曜ワイド劇場) - 主演・原島俊一郎(刑事) 役
ハラハラ刑事〜危険な二人の犯罪捜査〜2 狙われた美人妻と不良娘!連続殺人に秘められた悲劇の十年愛!!(2005年11月19日)
女系家族(2005年7月7日 - 9月15日、TBS系) - 梅村芳三郎 役
ガチバカ!(2006年1月19日 - 3月23日、TBS系) - 主演・権藤鉄太 役
逆転弁護(2006年12月9日、テレビ朝日系、土曜ワイド劇場) - 主演・如月隼人 役
マグロ(2007年1月4・5日、テレビ朝日系) - 川村吾郎 役
オトコの子育て(2007年10月26日~12月14日、ABC系) - 主演・矢野篤 役
ビートたけし×松本清張 点と線(2007年11月24・25日、テレビ朝日系) - 三原紀一 役
課長島耕作(2008年6月25日、日本テレビ系) - 主演・島耕作 役
課長島耕作2・香港の誘惑(2008年10月1日)
あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機(2008年12月24日、TBS系) - 吉原記者 役
警官の血(2009年2月7・8日、テレビ朝日系) - 永田輝夫 役
官僚たちの夏(2009年7月5日 - 9月20日、TBS系、日曜劇場) - 片山泰介 役 (モデルは山下英明)
隠蔽指令(2009年10月18日 - 11月15日、WOWOW) - 主演・天野善彦 役
大仏開眼(2010年4月3・10日、NHK) - 藤原仲麻呂 役
同窓会〜ラブ・アゲイン症候群(2010年4月22日 - 6月17日、テレビ朝日系) - 主演・杉山浩介(刑事) 役
広域警察(2010年5月8日、テレビ朝日系、土曜ワイド劇場) - 主演・東圭太(刑事) 役
広域警察2 時効廃止が運命を変えた!(2011年5月21日)
広域警察3 奪われた身代金! 東京~神戸~広島、誘拐犯を追え!(2012年11月17日)
広域警察4 〜東京〜札幌〜登別温泉、殺人犯は何処へ消えたのか(2013年10月19日)
15歳の志願兵(2010年8月15日、NHK) - 藤山順一 役
戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち (2011年1月2日、テレビ東京系、新春ワイド時代劇) - 主演・黒田官兵衛 役
悪党〜重犯罪捜査班(2011年1月 - 3月、ABC系) - 主演・富樫正義役
チーム・バチスタ3 アリアドネの弾丸(2011年7月 - 9月、関西テレビ系) - 斑鳩芳正 役
家で死ぬということ(2012年2月25日、NHK名古屋放送局) - 主演・中村純一 役
刑事魂(2012年3月31日、テレビ朝日系、ドラマスペシャル) - 主演・三島勇造 役
世にも奇妙な物語 2012年 春の特別編「家族」(2012年4月21日、フジテレビ系) - 主演・小野寺裕史 役
黄昏流星群〜星降るホテル〜(2012年6月26日、関西テレビ系、恋するオトナのドラマスペシャル) - 関本潤 役
匿名探偵(2012年10月 - 12月、テレビ朝日系) - 主演・探偵 役
匿名探偵 2ndシーズン(2014年7月 - 9月、テレビ朝日系) - 主演・探偵 役
夜行観覧車(2013年1月 - 3月、TBS系) - 結城哲也 役
SUMMER NUDE(2013年7月~9月、フジテレビ系) - 下嶋賢二 役
事件救命医〜IMATの奇跡〜(2013年10月6日、テレビ朝日系、ドラマスペシャル) - 荒井健三 役
事件救命医〜IMATの奇跡〜2(2014年6月15日)
月曜ゴールデン「信濃のコロンボ〜死者の木霊〜」(2013年10月7日、TBS) - 岡部和雄 役
信濃のコロンボ事件ファイル2 戸隠伝説殺人事件(2014年11月24日)
恋愛ドラマをもう一度(2013年11月23日・12月7日、LaLa TV) - 主演・矢作啓介 役
医龍4〜Team Medical Dragon〜(2014年1月9日~3月20日) - 岡村征 役
刑事(2014年3月26日、テレビ東京系、ドラマスペシャル) - 主演・秋庭実 役
珈琲屋の人々(2014年4月 - 5月、NHK BSプレミアム) - 主演・宗田行介 役
大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!(2015年1月2日、テレビ東京系、新春ワイド時代劇) - 主演・十文字小弥太 役
映画
日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章(1981年9月19日公開、にっかつ) - 高校生 役
六本木バナナ・ボーイズ(1989年8月12日公開、東映)※映画デビュー作
バースデイプレゼント(1995年10月28日公開、東宝)※ゲスト出演
サラリーマン金太郎(1999年11月13日公開、東宝、※日本アカデミー賞 新人賞受賞)- 主演・矢島金太郎 役
GO-CON! JAPANESE LOVE CULTURE(2000年公開、つんくタウンFILMS)
竜二Forever(2002年2月公開、アミューズピクチャーズ) - 主演・金子正次 役
新・仁義なき戦い/謀殺(2003年公開、東映) - 主演・矢萩 役
偶然にも最悪な少年(2003年公開、東映) - 運び屋 役
ゴーストシャウト(2004年12月18日公開、東京テアトル)※ゲスト出演
一億の猫[2](2006年公開、【監督:天野ひろゆき】)※友情出演
特命係長 只野仁 最後の劇場版(2008年12月6日公開、松竹) - 主演・只野仁 役
誘拐ラプソディー(2010年4月3日公開、角川映画) - 主演・伊達秀吉 役
私の叔父さん(2012年3月3日公開、私の叔父さん制作委員会) - 主演・田原構治 役
アウトレイジ ビヨンド(2012年10月6日公開、ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野)- 花菱会・城 役
舞台
1999年5月〜6月:『セツアンの善人』(新国立劇場)
2012年8月:『十三人の刺客』(赤坂ACTシアター、新歌舞伎座)- 島田新左衛門 役
ゲーム
龍が如く 維新!(2014年2月22日、セガ) - 武市半平太 役[3]
ドキュメンタリー
高橋克典・小泉今日子の魂の百年物語武士道をゆく(2001年10月8日、日本テレビ系) - ナビゲーター
ネイチァリングスペシャル ユーラシア疾走1万キロ~巨大ナマズと格闘!高橋克典の感動大陸紀行(2003年1月5日、テレビ朝日系)
地球大紀行スペシャル
太平洋最後の楽園へ 高橋克典ちいさな島の大冒険 (2005年1月29日、中部日本放送) - 旅人
CBCテレビ開局50周年記念番組 高橋克典 ゾウと旅する 幸福感動!タイ5000キロ(2007年1月27日、中部日本放送) - 旅人[4]
特命!高橋克典の実感マニアック旅行inフランス(2006年2月12日、テレビ朝日系)
空から見た地球。(2008年5月31日~、テレビ朝日系)
仕事ハッケン伝 / 単発・レギュラー(2010年8月24日、2011年5月~7月、2012年4月~9月、2013年4月~、NHK総合)- ナレーション
極上のクルーズ紀行(2011年4月6日 - 、BS-TBS) - ナビゲーター
ファミリーヒストリー(2013年1月7日、NHK総合)
ザ・プレミアム 驚き!ニッポンの底力 「巨大建築物語」(2014年4月26日、NHK BSプレミアム) - 司会
バラエティ
世界の子供がSOS!THE★仕事人バンク マチャアキJAPAN(テレビ朝日系)
ひるおび!(2009年3月31日~9月、TBS系) 火曜レギュラー
スマートラウンジ(2011年4月~2012年3月30日、BS朝日)下平さやかアナと共に案内人
金曜スーパープライム・レシピの女王(2011年10月28日、日本テレビ系)総合司会
芸能人格付けチェック(ABC、2011年1月1日・2012年1月1日)
おじゃマップ(フジテレビ、2013年6月26日)ゲスト
SMAP×SMAP(フジテレビ、2013年7月22日)ビストロSMAPゲスト
櫻井有吉アブナイ夜会(TBS、2014年10月16日)ゲスト
ラジオ
ファンファン高橋克典ロックンロールトリビューン(1993年10月~1994年9月 毎週木曜日 22:00~24:00(JST) ハマラジ(現:FM横浜))
Music Pulse on Tokyo Bay(1994年10月~1995年3月 毎週水曜日 25:00~26:00 bayfm)
高橋克典ロッキン・ストリート(1995年10月~1997年3月 毎週金曜日 19:30~20:00 TOKYO-FM)
高橋克典HONDAサウンドサーキット(1998年4月~1999年3月 毎週金曜日 16:00~17:00 TOKYO-FM)
アサヒビールプレゼンツ シルキータイム(1999年4月~1999年12月 毎週金曜日 16:00~17:00 TOKYO-FM)
LOVE TALKIN'(1995年4月~2010年3月 毎週土曜日 19:00~20:00 bayfm)
トヨタ勝又グループ presents GROOVIN' ON THE ROAD(2013年4月~ 毎週土曜日 12:00~12:57 bayfm)
CM
キリンビール“ビール工場 できたて出荷”(1995年)
フィリップモリス“フィリップモリス スーパーライト”(1995年)
コカ・コーラ“ジョージア Zotto”(1995年)
明治製菓“アーモンドチョコレート” “クッキー&アーモンド” “ツイニー” “クリフ”(1995年)
山之内製薬“マーロックスチュアブル”(1996年)
ミツカン“追いがつおつゆ”(1996年)
大和證券グループ(1999年)
ヤクルト“ジョア”(1999年)
財団法人エネルギーセンター1999年※広告出演
サントリー“マグナムドライ”(2000年)
キッコーマン“焼肉のたれ 赤と黒”(2000年)
トヨタ自動車“プロボックス”“サクシード”(2002年)

12月12日生まれの有名人「西村雅彦」



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西村 雅彦(にしむら まさひこ、1960年12月12日 - )は、日本の俳優、大正大学表現文化学部特任客員教授。富山県富山市出身。血液型はA型。ドリス所属。


富山県立富山商業高等学校卒業後、1979年に東洋大学社会学部に入学するも半年で中退。帰郷して富山市の富山美術工芸専門学校で写真を学ぶ[1]。地元のアマチュア劇団に入ったことがきっかけで俳優を志すようになり、ふたたび上京。劇団文化座を経て、三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズに入団。三谷脚本の『古畑任三郎』シリーズ(フジテレビ)における今泉慎太郎役が当たり役となり、知名度を高める。以後、テレビドラマを中心に活躍。身長は178.5cm。

劇団時代からの盟友であった三谷幸喜の作品には、『古畑任三郎』・『振り返れば奴がいる』・『王様のレストラン』・『ラヂオの時間』・『笑の大学』など舞台、テレビ、映画とジャンルを問わず多数出演している。

1997年に『ラヂオの時間』により日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞。また、『ラヂオの時間』・『マルタイの女』により、キネマ旬報賞助演男優賞、ブルーリボン賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞、日刊スポーツ映画大賞助演男優賞受賞。

2007年の7月 - 9月に放送された連続ドラマには、深夜枠も合わせて4本も出演した。

2011年12月からは、『笑の大学』以来14年ぶりに、三谷幸喜脚本・演出による近藤芳正との二人芝居『90ミニッツ』に挑戦した。


『古畑任三郎』が大ヒットした影響で、テレビではドジでコミカルな役を演じることが多かったが、本来はシリアスな演技を得意とする役者であり、『古畑』を除く三谷作品では大半がシリアスな役や敵役である。現在ではむしろ、渋みのある演技派として定着してきている[2][3]。
舞台『笑の大学』における演技は、まるで「この芝居を十年も演じている」かのような余裕が感じられ、藤山寛美にも似た「色気」があると小林信彦に評された[4]。戯曲を執筆した三谷幸喜は、小林が西村を褒めていたので「すごく嬉しかった」という[5]。
過去にはCDを発売したことがあり、『古畑任三郎』の今泉慎太郎役や『王様のレストラン』の水原範朝役として歌う曲、さらに一発ネタとしか思えないようなキング・クリムゾンのカヴァーが2曲収められている。
三谷幸喜や小林隆は、西村の素顔を「繊細」と語っている[6][7]。
趣味は写真撮影、ボウリング、裏道散策。


テレビドラマ
やっぱり猫が好き殺人事件(1990年、フジテレビ系列)
女ねずみ小僧(1990年、フジテレビ系列)
振り返れば奴がいる(1993年、フジテレビ系列)
チャンス!(1993年、フジテレビ系列) - 吉野矢太郎 役
じゃじゃ馬ならし(1993年7月 - 9月、フジテレビ系列)
MAESTRO(1993年10月 - 1994年3月、フジテレビ系列) - 主演・マエストロ 役※テレビ初主演
夏子の酒(1994年、フジテレビ系列)
古畑任三郎シリーズ(フジテレビ系列) - 今泉慎太郎 役
警部補・古畑任三郎(1994年、第1シリーズ)
古畑任三郎(1996年、第2シリーズ)
今泉慎太郎(1996年)
古畑任三郎(1999年、第3シリーズ)
今泉慎太郎 大空の怪事件(2004年)
古畑任三郎 ファイナル(2006年)
グッドモーニング(1994年、フジテレビ系列) - 神谷利彦 役
金曜エンタテイメント(フジテレビ系列)
鍵師2(1994年) ‐ 野平勉
ざけんなヨ!!7「めざめろマザコン亭主」(1994年) - 大里満彦 役
悪いこと(1998年) - 案内人
花瀬ちなつの殺人スクープ 〜京都・大阪・神戸を結ぶ謎〜(2000年) - 倉橋尚輝 役
ドラマスペシャル TEAM(2000年) - 丹波肇 役
実録離婚必勝ドラマ 離婚カウンセラー・轟木祥子 1(2004年)
蓮丈那智フィールドファイル 1 『凶笑面』(2005年) - 神崎教務課長 役
捜査検事・千草泰輔の事件ファイル 赤の組曲(2005年) - 千草泰輔 役
ヘルプ!(1995年、フジテレビ系列)
世にも奇妙な物語シリーズ(フジテレビ系列)  
1995年冬の特別編「そのボタンを押すな」(1995年)
1996年冬の特別編「先生の『あんなこと』」(1996年) - 加藤喜一 役
1997年春の特別編「私に似た人」(1997年) - 日向雄二 役
1998年春の特別編「くしゃみ」(1998年)
2003年春の特別編「超税金対策殺人事件」(2003年) - 樋口円 役
2007年秋の特別編 「48%の恋」(2007年) - 試験官天使 役
2009年秋の特別編 「理想のスキヤキ」(2009年10月5日) - 正一 役
王様のレストランシリーズ(フジテレビ系列) - 水原範朝 役
王様のレストラン(1995年4月 - 7月)
王様のレストラン それはまた別の話スペシャル(1995年)
輝け隣太郎(1995年10月 - 12月、TBS系列) - 山梨浩平 役
まだ恋は始まらない(1995年10月 - 12月、フジテレビ系列) - ナレーション
竜馬におまかせ!(1996年4月 - 6月、日本テレビ系列) - 清河八郎 役
秀吉(1996年、NHK大河ドラマ) - 徳川家康 役
コーチ(1996年7月 - 9月、フジテレビ系列)
総理と呼ばないで(1997年4月 - 6月、フジテレビ系列)
オトナの男(1997年7月 - 9月、TBS系列) - 野ノ宮優作 役
スズキさんの休息と遍歴(1997年、NHK)
サラリーマン刑事シリーズ(フジテレビ系列 金曜エンタテイメント内) - 主演・武富春彦 役
サラリーマン刑事(1998年)
サラリーマン刑事2(1999年)
サラリーマン刑事3(2000年)
サラリーマン刑事4(2004年)
ニュースの女 第1話(1998年、フジテレビ系列) - 工藤海渡 役
蒲生邸事件(1998年、BS2) - 平田次郎 役
今夜、宇宙の片隅で(1998年7月 - 9月、フジテレビ系列) - 小菅耕介 役
あきまへんで!(1998年10月 - 12月、TBS系列)
24時間だけの嘘(1999年、TBS系列)
TEAM(1999年、フジテレビ系列) - 丹波肇 役
TEAMスペシャル(2000.11.3)丹波肇役
TEAMスペシャル(2001.10.5)丹波肇役
TEAMスペシャル(2002.9.20)丹波肇役
TEAMスペシャル(2003.9.26)丹波肇役                                              
おいね・父の名はシーボルト(2000年、BS2)
やまとなでしこシリーズ(フジテレビ系列) - 佐久間為久 役
やまとなでしこ(2000年)
恋とはどんなものかしら やまとなでしこ・ディレクターズカット(2001年、フジテレビ系列 金曜エンタテイメント内)
奇跡の大逆転! 第2話「史上最悪の客」(2000年、TBS系列)
big大作戦(2000年、フジテレビ系列)
午前三時のルースター(2000年、テレビ朝日系列)
優雅な悪事1(2000年、テレビ東京)
嫁はミツボシ。(2001年、TBS系列)
R-17(2001年、テレビ朝日系列) - 矢沢聖司 役
42歳の修学旅行(2001年、NHK)
レッツ・ゴー!永田町(2001年10月 - 12月、日本テレビ系列)
恋ノチカラ(2002年1月 - 3月、フジテレビ系列) - 吉武宣夫 役
アパートメント(2002年、BS-i) - 茂倉丈 役
明智小五郎対怪人二十面相(2002年、TBS系列) - 相川技師 役
サイコドクター(2002年10月 - 12月、日本テレビ系列)
塩カルビ(2002年、テレビ神奈川)
またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜(2003年、NHK) - 勝海舟 役
いつもふたりで(2003年1月 - 3月、フジテレビ系列)
女と男と物語 第1話「鏡の中の愛人」(2003年、テレビ朝日系列)
ぼくの魔法使い(2003年4月 - 7月、日本テレビ系列)
高原へいらっしゃい(2003年、TBS系列) - 若月誠 役
ライオン先生(2003年、読売テレビ制作、日本テレビ系列)
彼女が死んじゃった。(2004年、日本テレビ系列)
ワンダフルライフ(2004年、フジテレビ系列)
南くんの恋人(2004年、テレビ朝日系列)
相棒 Season 3 第1話、第2話、最終話(2004年、テレビ朝日系列) - 鹿手袋啓介 役
水曜プレミア 家裁の人(2004年、TBS系列) - 裁判所長・照葉 役
温泉へ行こうスペシャル 世界で一番長い24時間(2004年、TBS系列) - 青木 役
弟(2004年、テレビ朝日系列)
輝く湖にて(2004年、NHK)
徳川綱吉 イヌと呼ばれた男(2004年、フジテレビ系列) - 堀田正俊 役
エンジン 第2話(2005年、フジテレビ系列)
救命病棟24時・第3シリーズ 最終話(2005年、フジテレビ系列) -
火曜サスペンス劇場→ドラマ・コンプレックス(日本テレビ系列)
特別企画 「歌舞伎役者 中村歌留多」(2005年) - 中村侘助 役
ウーマンズ・アイランド〜彼女たちの選択〜(2006年)
たくさんの愛をありがとう(2006年)
プロポーズ 世界で一番幸せな言葉 episode1 「火消しの恋」(2005年、日本テレビ系列)
黒革の手帖スペシャル〜白い闇(2005年、テレビ朝日系列)
零のかなたへ〜THE WINDS OF GOD〜(2005年、テレビ朝日系列)
熟年離婚(2005年10月 - 12月、テレビ朝日系列) - 小林善三 役
菊次郎とさき 第2シリーズ(2005年8月、テレビ朝日系列) - 泥棒 役
TRICKスペシャル(2005年、テレビ朝日系列) - 大紫邦夫 役
おかしなふたり(2006年、フジテレビ系列) - ナレーション
Ns'あおい(2006年、フジテレビ系列)
パソコンテレビGyaO 歌で逢いましょう(2006年、USEN)
報道特別ドラマスペシャル 生と死を分けた理由…“アース・クエイク”平成18年春・東京大震災(2006年、日本テレビ系列)
おいしいプロポーズ(2006年、TBS系列)
のだめカンタービレ(2006年、フジテレビ系列) - 谷岡肇 役
名探偵コナン10周年ドラマスペシャル「工藤新一への挑戦状〜さよならまでの序章(プロローグ)〜」(2006年、日本テレビ系列) - 目暮十三 役
華麗なる一族(2007年、TBS) - 銭高常務 役
今週、妻が浮気します(2007年、フジテレビ系列) - 至宝勝 役
柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い(2007年、NHK) - 徳川頼宣 役
受験の神様(2007年、日本テレビ系列) - 天木茂雄 役
去年ルノアールで(2007年、テレビ東京) - 店員A 役
スシ王子! 第3話 - (2007年、テレビ朝日) - 一柳鱒太郎 役
勉強していたい!(2007年、NHK) - 九鬼勝 役
美ら海からの年賀状(2007年、フジテレビ) - 島袋紀夫 役※特別出演
佐々木夫妻の仁義なき戦い(2008年、TBS) - 蝶野清 役
土曜プレミアム 愛馬物語(2008年5月、フジテレビ) - 獣医 役
おせん 第3話(2008年、日本テレビ) - タコ引きの竜 役
月曜ゴールデン(TBS系列)
駅弁刑事・神保徳之助シリーズ(2007年 -) - 澤本紀彦 役
女教師探偵・西園寺リカの殺人ノート(2008年5月19日) - 津田校長 役
警視庁機動捜査隊216シリーズ - 土居健作 役
長い夜(2010年7月19日)
危険な女たち(2011年10月31日)
命の値段(2012年12月24日)
孤独の叫び(2014年9月8日)
信濃のコロンボ~死者の木霊~(2013年10月7日) - 大森修司 役
CHANGE(2008年、フジテレビ) - 百坂哲也 役
ロト6で3億2千万円当てた男(2008年、テレビ朝日)
the波乗りレストラン(2008年11月1日 - 11月9日、日本テレビ) - 長塚日出夫 役
忠臣蔵 音無しの剣(2008年12月、テレビ朝日) - 柳沢吉保 役
超人ウタダ(2009年、WOWOW) - 樺島恭平 役
水曜ミステリー9 松本清張生誕100年特別企画 黒の奔流(2009年3月4日、テレビ東京) - 屋代刑事 役
裁判員制度ドラマ 家族 〜あなたに死刑が宣告できますか?〜(2009年5月、TBS)
裁判員制度ドラマ 二重裁判(2009年6月、TBS)
カイドク〜都市伝説の暗号ミステリー〜(2009年6月30日、関西テレビ放送) - 桐生大樹 役
官僚たちの夏(2009年、TBS)- 丸尾要 役※モデルは松尾金蔵
任侠ヘルパー 第1話(2009年、フジテレビ) - 男 役※声の出演
隠蔽指令(2009年、WOWOW)- 羽根田修造 役
科捜研の女スペシャル(2010年、テレビ朝日)
いじわるばあさん2(2010年、フジテレビ) - 伊地割茂 役
女刑事みずきスペシャル(2010年6月、テレビ朝日) - 白根弘刑事 役
電撃婚 Perfume of love(2010年8月、BeeTV)
崖っぷちのエリー〜この世でいちばん大事な「カネ」の話〜 第6話(2010年8月20日、テレビ朝日・ABC共同制作) - 大貫憲太郎 役
ミナミの帝王(2010年9月、関西テレビ放送)
獣医ドリトル(2010年10月、TBS) - 六田一郎 役
検事・鬼島平八郎(2010年、テレビ朝日・ABC共同制作) - 武藤伸司 役
大切なことはすべて君が教えてくれた(2011年1月-3月、フジテレビ) - 中西佳史 役
いじわるばあさん3(2011年1月28日、フジテレビ) - 伊地割茂 役
Dr.伊良部一郎 第1話(2011年1月、テレビ朝日) - 狩野誠司 役
告発〜国選弁護人 第7、8話(2011年2月24日・3月3日、テレビ朝日) - 柳田淳朗 役
土曜ワイド劇場(テレビ朝日)
拘置所の女医シリーズ - 小山誠二 役
塀の中の女たち 裏の顔(2011年3月5日)
殺人犯の嘘を診断する女!(2013年8月17日)
愛と死の境界線―隣人との悲しき争い―(2011年3月26日)- 牧橋哲夫 役
医療捜査官 財前一二三(2011年5月13日、フジテレビ)- 五十嵐鞘次郎 役
医療捜査官 財前一二三2(2011年12月16日、フジテレビ)
医療捜査官 財前一二三5(2014年6月6日、フジテレビ)
高校生レストラン(2011年6月、日本テレビ) - 星野重雄 役
IS(アイエス)〜男でも女でもない性〜(2011年7月-9月、テレビ東京)
松本清張ドラマスペシャル 砂の器第1・2夜(2011年9月10日・11日、テレビ朝日)- 田島警部 役
P&Gパンテーンドラマスペシャル『フォルティッシモ―また逢う日のために―』(2011年9月24日、BSフジ)
ボクら星屑のダンス(2011年10月6日、テレビ東京) - 江藤俊也 役
境遇(2011年12月3日、ABC) - 宮下浩平 役
開局55周年記念ドラマスペシャル『最も遠い銀河』(2013年2月2日・3日、テレビ朝日) - 島田卓郎 役
遺留捜査 第3シリーズ(2013年4月-6月、テレビ朝日) - 森田宗介 役
遺留捜査スペシャル(2013年11月)
遺留捜査スペシャル2(2014年8月)
遺留捜査スペシャル3(2014年10月)
めんたいぴりり(2013年8月、テレビ西日本) - 岡村吾郎 役
銭女(2014年4月、フジテレビ)
お家さん(2014年5月9日、読売テレビ) - 西田仲右衛門 役
ビター・ブラッド〜最悪で最強の親子刑事〜 第6、10話(2014年5月20日、6月17日フジテレビ) - 小暮竜也 役
TEAM -警視庁特別犯罪捜査本部- 第7話(2014年5月28日、テレビ朝日) - 仲正利樹 役
27時間テレビ内ドラマ『俺たちに明日はある』(2014年7月26日、フジテレビ)
アウトバーン マル暴の女刑事・八神瑛子(2014年8月9日、フジテレビ) - 沢木哲男 役
ビンタ!〜弁護士事務員ミノワが愛で解決します〜(2014年10月-、読売テレビ) - 工藤洋平 役
映画
白鳥麗子でございます!(1995年)
7月7日、晴れ(1996年) - 滝本 役
友子の場合(1996年) - 田村道弘 役
八つ墓村(1996年) - 仙波清十郎 役
瀬戸内ムーンライト・セレナーデ(1997年) - 写真屋の助手 役
マルタイの女(1997年) - 立花刑事 役
ラヂオの時間(1997年) - 牛島龍彦 役
お受験(1999年) - 橘要塾長 役
黒い家(1999年) - 菰田重徳 役 ※第23回日本アカデミー賞優秀助演男優賞
ゴジラ2000 ミレニアム(1999年) - 戦車隊隊長 役
GTO(1999年) - 杉山英輔 役
川の流れのように(2000年) - 松田新平 役
田園のユーウツ(2001年)
天使の牙B.T.A.(2003年) - 中西警視 役
巌流島 -GANRYUJIMA-(2003年) - 佐々木小次郎 役
NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE(2004年) - 捜査本部長 役
交渉人 真下正義(2005年) - 前主十路 役
不良少年(ヤンキー)の夢(2005年)
裁判員制度〜もしもあなたがえらばれたら〜(2005年) - 小林靖雄 役
TAKI183(2006年) - 蒲原 役
花田少年史 幽霊と秘密のトンネル(2006年)
明日への遺言(2008年) - 町田秀実 役
カンフーくん(2008年) - 黒文部大臣 役
相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン(2008年) - 鹿手袋啓介 役
私は貝になりたい(2008年) - 根本 役
252 生存者あり(2008年) - 小暮秋雄 役
禅 ZEN(2009年) - 浙翁 役
20世紀少年 第2章 最後の希望(2009年) - 七龍の店主 役
沈まぬ太陽(2009年) - 八馬忠次 役
Dear Heart-震えて眠れ-(2009年) - 河野刑事 役
のだめカンタービレ 最終楽章 前編/後編(2009年/2010年)- 谷岡肇 役
猿ロック THE MOVIE(2010年) - 金井 役
完全なる飼育 メイド、for you(2010年) - 望月 役
劇場版 怪談レストラン(2010年) - 闇のギャルソン 役
恋愛戯曲 〜私と恋におちてください。〜(2010年) - 蒲生利夫 役
桜田門外ノ変(2010年) - 野村常之介 役
武士の家計簿(2010年) - 西永与三八 役
ジーン・ワルツ(2011年) - 屋敷教授 役
スイッチを押すとき(2011年) - 佃所長 役
RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ(2011年) - 冴木俊也 役
ウタヒメ 彼女たちのスモーク・オン・ザ・ウォーター(2012年) - 井口幸輔 役
ラーメン侍(2012年) - 山村千吉 役
宇宙兄弟(2012年) - 間寺(六太の上司) 役
のぼうの城(2012年) - 成田氏長 役
東京家族(2013年) - 平山幸一 役
草原の椅子(2013年) - 富樫重蔵 役
超高速!参勤交代(2014年) - 相馬兼嗣 役
クローバー(2014年) - 松下課長 役
家族はつらいよ(2016年公開予定) - 平田幸之助 役
舞台
天国から北へ3キロ(1989年)
彦馬がゆく(1990年)
再演(1993年)
1979(1994年・ナイロン100℃)
笑の大学(1996年)
再演(1998年)
ラ・テラス(2001年)
カルテ(2002年)
エデンの南(2002年)
Wブッキング(2003年)
音楽劇 兵士の物語(2003年)
GOOD(2004年)
大騒動の小さな家(2004年)
ドレッサー(2005年)
初仕事納め(2006年)- 企画・出演
歌の翼にキミを乗せ―ロクサーヌに捧げるハイネの詩―(2007年)
コースター(2007年)- 企画・出演
どんまいマインド(2008年)- 企画・出演
ナンシー(2010年)- 企画・出演
90ミニッツ(2011年)
地球の王様(2012年) - 出演・企画
ベートーヴェンと三人の女たち(2013年) - 語り
ブラザーブラザー(2013年) - 出演・企画
めんたいぴりり(2015年) - 岡村吾郎 役
劇場アニメ
もののけ姫(1997年) - 甲六 役
ギブリーズ episode2(2002年) - 野中くん 役
風立ちぬ(2013年) - 黒川 役

12月11日生まれの有名人「保坂尚希」



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保阪 尚希(ほさか なおき、本名:同じ、旧芸名:保阪尚希→保阪尚輝→保坂尚輝、1967年12月11日 - )は、日本の俳優、タレント、健康料理研究家、通販コンサルタント。静岡県静岡市出身。明治大学付属中野高等学校定時制卒業。 現在の所属事務所は有限会社サンクチュアリ。 営業窓口:株式会社オーギュメント


7歳の時に両親を自殺で亡くしている[1]。
その後は、祖父母と妹と生活するが、家計を助けるために中学生からイタリアンレストランの厨房ででバイトをしていたという。そのため、料理の腕前はプロはだしであり、実際に毎朝子ども達のお弁当も作っていたと発言している。[要出典]
下積み時代は劇男零心会の大道具係としても活動(劇男一世風靡には所属したことはない)。[要出典]
1996年、女優の高岡早紀と結婚。二児をもうけるが、2004年6月に離婚。離婚届提出後も子供のために、暫くの間同居を継続させていることを明らかにし、話題を集めた。同居を続けた理由のひとつとして、前述のように、自身が幼少時代に経験した寂しい記憶を挙げている。両親の自殺により、突然自分の前から親が消えてしまったことが非常に辛い記憶になっている。何の予兆もなく、いきなり目の前から居なくなることをしたくなかった。同じような辛い経験を子供にはさせたくなかったから、と本人は語る。家にいる時間を徐々に短くしていき、半年後、保阪は家を出て正式に同居を解消した(子供達の親権は保阪が得ている)。現在、子供達は高岡と高岡の母と一緒に生活している。保阪はこの頃からバラエティ番組にも頻繁に出演し、活躍するようになった。
2007年3月22日、記者会見を開き、同年4月12日に熊本県合志市の六水院で得度を受け、両親の33回忌供養のために仏門に入る旨を明らかにした。剃髪は行わず、芸能活動も継続、法名は尚陽。翌年、両親の供養が終わった後に法名を返納、僧侶としての活動を終える。
タバコ、酒は嗜まない。

チェッカーズ・イン・涙のリクエスト(1986年、フジテレビ「月曜ドラマランド」)
ボクの初体験(1986年、フジテレビ「月曜ドラマランド」)
このこ誰の子?(1986年、フジテレビ系、大映テレビ) - 朝比奈拓也役
恋に恋して恋きぶん(1987年、TBS) - 杉本高志役
大河ドラマ(NHK)
武田信玄(1988年) - 長野業成役
信長 KING OF ZIPANGU(1992年) - 織田信行役
葵 徳川三代(2000年) - 大野治長役
少女コマンドーIZUMI
はいすくーる落書(1989年、TBS) - 黒木明 役
荒木又右衛門 決闘・鍵屋の辻(1990年、NHK) - 渡辺数馬 役
世にも奇妙な物語「遅すぎた恋人」(1990年、フジテレビ)
八百八町夢日記 第1シリーズ 第28話「片思い恋の絵草紙」(1990年、日本テレビ) - ゲン役
スクール・ウォーズ2(1990年、TBS) - 新田明役
世にも奇妙な物語「シガレット・ボム!」(1991年、フジテレビ)
あの日の僕をさがして(1992年、TBS) - 森田健一役
あの日に帰りたい(1993年、フジテレビ) - 永井準二役
憎しみに微笑んで(1993年、TBS) - 牧野幸治役
家なき子(1994年、日本テレビ) - 片島智之役
毎度ゴメンなさぁい(1994年、TBS) - 高田一也役
夢見る頃を過ぎても(1994年、TBS) - 野崎多聞役
たたかうお嫁さま(1995年、日本テレビ) - 岡村俊平役
輝く季節の中で(1995年、フジテレビ) - 澤田俊介役
外科医柊又三郎(1995年、テレビ朝日)-斉門純一役
世にも奇妙な物語冬の特別編「追っかけ」(1996年、フジテレビ)
ひと夏のプロポーズ(1996年、TBS) - 川嶋隆役
俺たちに気をつけろ。(1996年、日本テレビ) - 大友巧役
ガラスの靴(1997年、日本テレビ) - 江崎透役
踊る大捜査線(1997年、フジテレビ) - 安西昭次役
フェイス(1997年、フジテレビ) - 谷合裕介役
研修医なな子(1997年、テレビ朝日)- 緒方俊介役
凄絶!嫁姑戦争 羅刹の家(1998年、テレビ朝日)- 小椋貴史役
サラリーマン金太郎シリーズ(TBS)- 鷹司誠士役
サラリーマン金太郎(1999年)
サラリーマン金太郎2(2000年)
サラリーマン金太郎3(2002年)
サラリーマン金太郎4(2004年)
世にも奇妙な物語秋の特別編「和服の少女」(1999年、フジテレビ)
カネボウヒューマンスペシャル「大地の産声が聞こえる~15才 いちご薄書〜」(2000年、日本テレビ)
多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還(2000年、WOWOW) - 雨宮一彦役
カバチタレ!(2001年、フジテレビ) - 茸本健司役
ルージュ(2001年、NHK) - 黒川慎吾役
陰陽師☆安倍晴明〜王都妖奇譚〜(2002年、フジテレビ) - 藤原将之役
松本清張没後10年記念・張込み(2002年、テレビ朝日) - 桐生署署長役
怪談百物語「怪談源氏物語」(2002年、フジテレビ)
土曜ワイド劇場 おとり捜査官・北見志穂8(2004年、テレビ朝日) - 久保田直人役
相棒 season3 第9話(2005年、テレビ朝日)
きららの仕事(2005年、TBS) - 坂巻慶太役
水曜ミステリー9「信濃のコロンボ事件ファイル・乗せなかった乗客」(2005年、テレビ東京)
金田一少年の事件簿 -吸血鬼伝説殺人事件-(2005年、日本テレビ)- 流山森太郎役
ブラックウィドー~未亡人(2005年、日本テレビ)
天下騒乱〜徳川三代の陰謀(2006年、テレビ東京) - 池田忠雄役
夜王〜YAOH〜(2006年、TBS) - 赤城達也役
水曜ミステリー9「捜査検事・近松茂道6・拳銃魔」(2006年、テレビ東京)- 木戸達彦役
土曜ワイド劇場 家政婦は見た!美貌の女社長、8000億の秘密…秋子に似たソックリ女の謎!(2007年、テレビ朝日)
愛の迷宮(2007年、東海テレビ) - 鮎川光男役
新・科捜研の女 第4シリーズ 第9話「マリコ殉職!?葬られた弾道鑑定!!マリコ、科学者の誇りをかけた最後の鑑定!!」(テレビ朝日、2008年) - 鳴海亮役
土曜ワイド劇場 刑事殺し2(2008年、テレビ朝日)
コンカツ・リカツ(2008年、NHK)斉藤誠役
水曜シアター9「鉄道警察官・清村公三郎・SLニセコ号 殺意の汽笛」(2010年、テレビ東京) - 残間恭介役
おみやさん 第7シリーズ 第7話(2010年、テレビ朝日)
経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断(2010年、テレビ東京)
月曜ゴールデン 警視庁南平班〜七人の刑事〜2(2010年、TBS) - 神崎研一郎役
匿名探偵 第1話(2012年、テレビ朝日) - 奥田良郎役
月曜ゴールデン「家庭教師が解く! 〜殺人方程式の推理ドリル〜」(2013年、TBS) - 須藤浩市役
水曜ミステリー9「刑事・ガサ姫〜特命・家宅捜索班〜3」(2014年、テレビ東京)- 越水輝夫役
水曜シアター9「不倫調査員・片山由美14・京都・花の殺人乱舞」(2014年、テレビ東京) - 窪田正道役
映画
名門!多古西応援団(1987年) - 永井一章 役
この胸のときめきを(1988年) - 早川喜一 役
電影少女 -VIDEO GIRL AI-(1991年) - 新舞貴志 役
必殺!5 黄金の血(1991年) - 千吉 役
パ★テ★オ(1992年) - 木田信一、吉田茂 役 ※日本アカデミー賞新人俳優賞
ジューンブライド 6月19日の花嫁(1998年) - 杉崎典夫 役
サラリーマン金太郎(1999年) - 鷹司誠士 役
ムルデカ17805(2001年) - 宮田中尉 役
旅の途中で FARDA(2002年) - 木田 役
銃声 LAST DROP OF BLOOD(2003年) - 久間修司 役
極道の妻たち 情炎(2005年) - 河本一兆 役
蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜(2007年) - イェスゲイ・バートル 役
マリッジリング(2007年) - 桑村紀夫 役
お似合いカップル~愛情左右(2009年、中国映画) - 太郎 役
オンナゴコロ(2009年) - マナブ 役
クールガールズ(2009年)
BOX 袴田事件 命とは(2010年) - 高見判事 役
ゲーム
華ヤカ哉、我ガ一族 黄昏ポウラスタ(2013年) - 館野成信 役 ※声の出演[2]
ナレーション
ロングステイ 夫婦で悠々海外生活(旅チャンネル)
バラエティ
パパアミーゴ!(1998年-1999年、フジテレビ)
Campus Link(2006年、TOKYO MXテレビ)
君の瞳に両想い (ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!絶対に笑ってはいけないスパイ24時のDVDに収録)(2010年、日本テレビ)
CM
鈴丹
花王『弱酸性メリット』
サンヨー食品『サッポロ一番』
タイガー魔法瓶『炊飯ジャー』
タイガー魔法瓶『電気魔法瓶』

12月10日生まれの有名人「石田靖」



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石田 靖(いしだ やすし、1965年12月10日 - )は、日本のお笑いタレントである。

兵庫県伊丹市出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京所属。身長179cm、体重70kg。

「なんばグランド花月」の吉本新喜劇の座長経験者であり、現在は「ルミネtheよしもと」喜劇・石田班及び地方公演の座長を務める。


兵庫県立伊丹高等学校、京都産業大学経営学部卒業。

大学時代は、アマチュアレスリング部に所属。

2008年に、伊丹市から伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けている。

2009年11月23日、交際中の16歳年下の一般女性との婚姻届を提出。翌日、神戸市中央区のクラウンプラザホテルで、挙式、結婚披露宴を開催した。

2012年5月13日に長男、2013年9月3日に長女が誕生した。[1]


京都産業大学在籍中の1987年、オーディションで吉本興業に入る。「オ組」でデビュー。

アントニオ猪木に憧れ、夢はプロレスラーになることだったが、母親に反対されたので諦め、芸能界入りを決めた。

同年11月にスタートした圭・修司会の夕方の帯番組「素敵!KEI-SHU5」(関西テレビ)のレギュラーに抜擢される。翌年10月に「KEI-SHU5」の出演メンバー強化目的によるダウンタウン司会の帯番組「4時ですよーだ」のレギュラー出演者との掛け持ち制移行の見返りとして、130Rとともに「4時ですよーだ」のレギュラーへ移る。「4時ですよーだ」末期では、ダウンタウンが東京での仕事が増え、出演時間が少なくなったための穴埋めとして今田耕司、東野幸治と共に司会を務めることとなる。このときのトリオ名は「3ばか大将」と呼ばれた(しかし、ダウンタウンの司会降板以後視聴率的に振るわなくなったことから、後にダウンタウンが司会に復帰した)。


1989年、「4時ですよーだ」の終了とともに今田らと「やめよッカナ?」キャンペーンを展開していた吉本新喜劇に入団。持ちギャグはなく、当初は2枚目役を演じていた。石田を知る同級生達からは、「なんで普段みたいに面白いことやらへんの?」と問われていたという。その後、持ちギャグを作ってみるようアドバイスを受けた事もあって、持ちギャグをいくつか作って舞台上で披露したが、そのいずれもがスベリ芸で面白くない物ばかりであったために、不評を買った。この事から、持ちギャグ(持ちギャグの研究・開発及び使用)を禁止された。その代わりに、プロレス技以外で数少ないネタ的なものとして、他の共演者のギャグをパクることが多い。

やがて、NGKの舞台で、島田珠代や山田花子を筆頭に先輩後輩問わず数々の芸人を相手に、石田本人が本来やりたかった芸という暴力的な仕切りツッコミでのしあがり、1995年にはニューリーダーに、1999年には座長に就任。現在でも舞台上では、プロレス技まがいの暴力的な仕切りツッコミだけで十分ウケをとっている。

大学時代に習得したプロレス技は主に花子や浅香あき恵相手に遺憾なく発揮される。ハイヒールリンゴを骨折させるなど、プロレス技は非常に強力。持ち技としてはジャイアントスイング、ドロップキック、踵落としなどがある。特に踵落としは池乃めだかや高橋靖子の頭を超えるほど踵が上がり、かなりの柔軟性を持つ。さらに、新喜劇の舞台上で持ち技を決めたときは武藤敬司のポーズをとり、自己陶酔する。舞台で花子から水着をはぎ取り、裸にしたことがある。こうした数々の暴挙に対する批判に対して、石田はブログで「(同じくプロレス経験者の花子に対しては)あくまでネタなんで…ネタやったら何やってもええんか!とお怒りの方もおられますが信頼関係があってやってることなんで…是非、見て笑ってください」と理解を求めている。

2001年、東京新宿にルミネtheよしもとがオープン。ルミネでも東京の芸人を中心とした新喜劇が上演されることになり、本場NGKから数名の芸人が送りこまれ、石田もその一人としてルミネ新喜劇の座長に就任。その後はNGKメンバーとしての新喜劇出演はスペシャルや全国ツアーのみになり、ルミネでの活動をメインにし、生活の本拠地も東京に移した。

その後2004年春から3年ぶりにNGK新喜劇に座長として復帰したものの、引き続き東京ベースの活動であり、他の座長に比べテレビ出演や地方ロケに出かけることが多く、「素人をうまくイジれる数少ない芸人」として番組関係者からの需要が高まっていたことからテレビ出演が増え、新喜劇への出演回数は座長・端役を問わず特にNGKで激減し(数ヶ月に1週、しかも途中休演がある)、NGK座長退任はスタッフから特に知らされることなく自然解消の形であった[2]。以降NGKでの舞台へは重鎮ポジションとしての出演となったが、2012年からは座員ではなくなった。自身が座長の舞台では水玉れっぷう隊と共演することが多い。

1995年のニューリーダー就任の頃からテレビの仕事が増え、他の座長に比べて新喜劇出演は減ることとなる。この間「探偵!ナイトスクープ」の探偵となり、知名度を上げる。

1991年には島田紳助が監督した映画『風、スローダウン』に主役で出演を果たしているが、この作品の共演者に結婚を申し込むも相手の両親に反対され叶わなかった。その後、石田は2008年から16歳年下の一般人女性と交際を開始し、2009年11月に入籍。11月下旬には兵庫県内にて挙式・披露宴が催された。

キューバ音楽をテーマにした映画「ミュージック★クバーナ」に出演。東京ツアーに来た主人公率いるバンドをステージ上で紹介する前説的な役どころ。「タモリ倶楽部」(2006年8月20日放送分)で紹介され、タモリやガダルカナル・タカ等に「なんで石田が??」とツッコまれていた。このほか、釣りバカ日誌シリーズ第18作にも出演。

12月9日生まれの有名人「瀬島龍三」



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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。

陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。号は「立峰」。義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である[注釈 1]。


1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家に三男として生まれた。旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業し、昭和天皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により陸軍大学校に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。

その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に瀬島は対ソ示威演習である関東軍特種演習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。

1941年7月に大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。

戦後、日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmというところで停止した。大本営は「この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と。[1]

同年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦以降、陸軍の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当したものを含めて、主なものは南方作戦におけるマレー作戦(E作戦)・フィリピン作戦(M作戦)や、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦などであった。また、1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。

1945年1月、島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死、その後任に瀬島が選ばれた[2]。2月25日、海軍の連合艦隊参謀兼務となり、最終階級は陸軍中佐となった。6月末まで、同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備のため日本各地を調査している。特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣書記長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという[3]。

1945年7月1日、関東軍参謀に任命され、満州へ赴任。同年8月15日の日本の降伏後、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥との停戦交渉に赴く。このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、参謀としての責任感から同地に残る決断をし[要出典]、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。

その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留されることとなる。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこのときのことを諧謔として「佐官が左官になった」と述懐している[注釈 2]。

後年瀬島はシベリア抑留について、「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」と述べている。また、日独伊三国同盟の締結についても、「断じて実施すべきではなかった」と述懐している[4]。なお、瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。

東京裁判証人として一時出廷
この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件[注釈 3]として極東国際軍事裁判で天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)、松村知勝陸軍少将(総参謀副長)と供述内容について事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年以前の関東軍の攻勢作戦計画に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている[5]。

裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされることもあった[6]。

1947年末から1950年4月までの間どこの収容所にいたかを語っておらず、モンゴルのウランバートルにあった、第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、志位正二らとともに収容されていたとみられる。

1954年のラストボロフ事件において、ソビエト連邦代表部二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが、亡命先のアメリカにおいて、瀬島らを第7006俘虜所において特殊工作員として訓練されたと証言し[7]、また、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 とも証言[8]するなど、瀬島をソ連の工作員だったとする証言が出ている[注釈 4](下記「ソ連工作員疑惑」参照)。

1956年、シベリア抑留から帰還後[注釈 5]、設立直後の自衛隊よりの再三の誘いを受けた[注釈 6]がシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、瀬島自身は1958年に商社の伊藤忠商事に入社する。入社3年目の1961年には業務部長に抜擢され、翌1962年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。

帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、繊維を扱う一商社に過ぎなかった伊藤忠商事を総合商社に発展させるなど辣腕をふるったとされるが、瀬島自身は晩年、フジテレビの番組『新・平成日本のよふけ』の中で「瀬島機関」の存在そのものを否定、「マスコミの作り話」と語っていた。

1981年に相談役、1987年に特別顧問に就く。この間、中曽根康弘の中曽根政権(1982年~1987年)のブレーンとして、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪化していた1980年代初頭の時期に、中曽根康弘首相の訪韓や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。真相の程は明らかではないが、上記のような人脈があったためソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする説が複数の書籍で唱えられている。韓国のドラマ第五共和国には瀬島をモデルとした人物が登場する。1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。

晩年は、フジテレビの番組『新・平成日本のよふけ』に出演し、自らの人生や日本のこれからについて滔々と語った。この中で太平洋戦争について、個々の局面においては判断ミスがあったことを認め、戦火の拡大、日本国民及び周辺諸国への被害の拡大、敗戦についての責任の一端は自分にあるとの発言をしたが、開戦については不可避であったとの認識を示した。

2007年6月21日、妻の清子が老衰で90歳にて死去。それから3ヶ月足らず後の9月4日、妻を追うように老衰のため東京都調布市の自宅において95歳にて死去[要出典]。死後、従三位が贈られた。同年10月17日には、築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。

12月8日生まれの有名人「稲垣吾郎」



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稲垣 吾郎(いながき ごろう、1973年12月8日 - )は、日本の歌手、俳優、タレントであり、男性アイドルグループSMAPのメンバーである。

東京都出身。ジャニーズ事務所所属。


1988年 SMAPの前身スケートボーイズの12名の中から選ばれ、SMAPが結成された。
1989年 NHKの連続テレビ小説『青春家族』で、主人公の弟 阿川大地役でドラマデビュー。翌 1990年、『さらば愛しのやくざ』で映画デビューも果たす。
1992年 『二十歳の約束』でドラマ初主演を果たす。SMAP初の月9ドラマの主演となる。
1993年 映画関連として初のソロシングルCD『If You Give Your Heart』リリース。SMAP初のソロデビュー。
1996年 舞台『夜曲』で、舞台初主演。翌年 1997年は『広島に原爆を落とす日』でも主役のディープ山崎を演じ、翌年の再演では広島公演も行われた。
1998年 ドラマ『ソムリエ』でソムリエ役を演じたことから、フランス・ボルドーワインの産地からワイン騎士号が授与される。
2001年8月24日 東京都渋谷区内で、稲垣は駐車禁止の路上に止めていた乗用車に戻ってきたところを取り締まり中の女性警察官3人に見つかった。免許証提示を求められたところ車を発進させ、制止しようとした女性警官1人の膝に接触した疑いとして、公務執行妨害と道路交通法違反(駐車禁止)で警視庁渋谷警察署に現行犯逮捕された[1]。東京地検は26日午前、稲垣の身柄について傷害罪も含め裁判所に勾留を請求したが認められず、稲垣を同日午後に釈放した[2]。その後、事件の経緯に悪質さは見られず、稲垣本人に逃亡の意思はなかったという地検の判断により公務執行妨害と傷害については起訴を見送り、同年9月21日に起訴猶予(不起訴)処分となる[3]。その後、2002年1月14日まで約5か月間にわたり芸能活動を自粛した。
2004年1月 ドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』(草彅剛主演)の主題歌「Wonderful Life」を&G(アンジー)名義でソロシングルCDリリース。オリコン初登場1位を獲得。
2006年 アニメ映画『ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵』に声優として出演。
同年、日本で開催されたFINAシンクロワールドカップの公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。これは自身初の単独公式サポーターである。2007年も世界競泳2007の公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。
2010年 映画『十三人の刺客』で第23回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞助演男優賞、第65回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞した。

『二十歳の約束』で18歳にして月9ドラマの主演に抜擢される(このとき稲垣は18歳10か月で、歴代の月9主演俳優の中では18歳9か月で主演した中山美穂に次ぐの若さである)。SMAPで初めて月9主演を果たした。
映画『十三人の刺客』で松平斉韶を演じたが[4]、監督の三池崇史は稲垣の「悪役」起用について、SMAPの中でも特殊な存在で屈折した魅力がぴったりだと思ったと語っている[5]。

12月5日生まれの有名人「島田秀平」



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島田 秀平(しまだ しゅうへい、1977年12月5日 - )は、日本のタレント、お笑い芸人、占い師。

長野県長野市出身。ホリプロコム所属。身長184cm、体重72kg。血液型はO型。


1996年、幼稚園からの幼なじみ赤岡典明と、お笑いコンビ「号泣」を結成。コンビ時代は漫才中心で、ツッコミを担当。主に言葉遊びネタ(回文など)を使って活躍していた。

2007年頃から、島田単独での仕事が増えていた矢先、赤岡の転職希望などの事情から翌2008年6月2日付をもち「号泣」解散、赤岡が芸能活動を完全引退した。

解散後、進退について迷っていた島田だったが、事務所の先輩の和田アキ子やスピードワゴンの小沢一敬の説得もあり、活動を続けていくことになった[1]。


解散後は、島田得意の手相関係や怪談、都市伝説、パワースポットをネタにするなど、幅広く活動をしている。

2010年のサッカーワールドカップでは、主な国の選手の手相を占うことで、決勝進出国と優勝国を的中させた[2]。


2003年頃仕事で知り合った菅野鈴子(原宿の母)から「あんた、見えるね(手相を見る力がある)」と言われ、手ほどきを受けた。その後、何度も教えを請い、2007年夏頃『代々木の甥』の名前をもらった。自分で命名したオリジナル手相というのが100種類ほどあり、「エロ線」「KY線」「あげまん線」など、ユニークな名前を付けている[3][4]。また、「手相は統計学ですから」とも述べている[5]。

手相を見る仕事が増えて以降、芸能人から真剣な相談をされることが多いため、恋愛関係も含めて芸能人同士の人間関係にかなり詳しいと噂されている。ただし、物凄く口が堅いので、1度もそれを人にばらしたことはない[6]。本人曰く「絶対に言えないですけど、写真週刊誌で6カ月スクープを飾れるほど」[7]。

小さい頃から怖い話や噂話が好きで、芸人になってからも、楽屋や打ち上げで色々な人から聞いた話をずっと書き溜めていた[8]。そうして集めた都市伝説や怪談ネタを多数持っており、毎月第3金曜日にタムケン(放送作家)、すぎ。(インスタントジョンソン)、長浜之人(キャン×キャン)と一緒に、「未確認噂話『首都神話』」というトークイベントを都内で開催している。漫画やアニメなどのサブカルチャーにも明るい[9]。


先祖に真田幸村に仕えた島田太郎兵衛がおり、秀平は9代目[10]である。

長身である一方、細身の体型を気にして重ね着をしている。スノーボードやバスケットボールを得意とするなど、スポーツマンの一面もある。中学校時代に3年間バスケ部に所属し、長野県大会2位の実績を持つ。

『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』[11]に「元コンビ芸人」として初出演。解散ライブ後の相方・赤岡からの第一声が「お前さ、あの部分もっと突っ込めば・・・あっ。もういいんだっけ。」と言われ泣きそうになった。解散後、ピンでの活動のプレッシャーと恐怖心で円形脱毛症になった事を明かした。「コンビ時代を思い出すと泣きそうになる」といい、相方がいない寂しさから犬を飼いたいと思っていることも明かした。

2010年11月16日公開の『転職サイトのインタビュー』では、先輩とのエピソードとして以下を明かした。

相方・赤岡が「他の仕事をしたい」と長野に帰り、本人も辞めるしかないと思い始めていた。世話になった和田アキ子に挨拶に行った際、「あと1年、芸人ともうひとつ別の何かのふたつを頑張ってみろ」と言われ、あとひとつを考えた。その3 - 4年前に仕事で出会った原宿の母・菅野鈴子に才能を見いだされ趣味で手相を習っていたため、それが思い浮んだ。また、同時期に実家から島田が高校生の時に亡くなった父親が残したノートが見つかった。当時子供が生まれた姉・離婚しそうになっていたもうひとりの姉・そして秀平宛のものだった。それぞれの現状を見ているかのような父の言葉が残されており、秀平宛のノートには「男にとって仕事とは」というような内容が記されていた。同時に、子供の頃から書きためていた怖い話や都市伝説のノートが見つかり、自分はスピリチュアルなことが好きだということを再確認。和田アキ子に言われた“もうひとつ”を、これに定めた。

手相やパワースポット、怪談話で売れだした頃、“占い師”として番組には呼ばれるが、「この先は“芸人”として呼んでほしい、番組をそれぞれ一回りした為これからが勝負だ」と悩み始めた。そんなおり、テレビ局のトイレで、お笑い芸人になる前から憧れだったダウンタウン・松本人志とばったり会った。「失礼します」と隣に並ぶと、松本から「最近、頑張ってんな」と声をかけられた。思わず、前述の悩みを口に出すと「知らんよ、そんなん」とだけ言い、松本は出て行ってしまった。「そりゃあそうだよなぁ。憧れの人に俺は何を言ってるんだろう」と後悔していると、松本が戻って来て「でも、どっちも人を喜ばすことやからええんちゃう」と言ってくれた。

『おもろゲ動画SHOW』[12]内の“ブラマヨ吉田プロデュース芸能人名言動画”の中で、さまぁ〜ずとのエピソードが紹介された。「号泣」以来初めてピンで舞台に立ったホリプロお笑いライブ200回記念の出番前、舞台袖でガチガチに緊張していた島田に、三村マサカズが「緊張してんの?」と声をかけてきて、「お小遣いをやるから頑張れ」としわくちゃの千円札をくれた。その後の打ち上げで「その千円は、今度舞台袖で緊張している後輩がいたら、お前から渡してやってくれ。これは頑張っているお前への俺からの声援(千円)だよ」と言われた。また、さまぁ〜ずには「俺はお前のお笑い以外ででも売れるという執念を見た」「お前はお笑い芸人だよ」と言われ励まされたとも語っている。

ラジオ番組『バナナマンのバナナムーン』[13]に出演した際、本気の悩みを相談するという主旨だったため、上記の悩みを相談。設楽統から「号泣の頃にはテレビに呼ばれなかったのは、テレビ的なツッコミが下手だから」「(イジられたとき)無理してキツくいかずへりくだってニコニコ言い、負け戦を自らしていったほうが番組的にもこれからの島田のためにもいい」と具体的なアドバイスを受けた。

AKB48での推しメンは宮澤佐江らしい。

巨根である事が有名で、さまぁ〜ずの三村曰く「焼き芋サイズ」との事。その発言を受けて、島田は「コンドームを装着したら、ゴムが破裂した」と巨根エピソードを披露(内村さまぁ〜ずの98回配信分に出演時)。

TV番組『新堂本兄弟』[14]収録中にT.M.Revolution西川貴教の手相を見た際、初対面である西川貴教に対して「“女難の相”というより、西川さんの方に問題がある」「西川さんには人として最低な線が目白押し」「あなたクソ野郎です!」と暴言を連発し番組スタッフを凍りつかせた。

2011年12月15日『レディス4』番組内で、「今年から慶大の通信教育課程に在籍しており、心理学を専攻中」の旨を語った。なお『レディス4』司会の一人板垣龍佑も慶大卒で、島田は「板垣の後輩になった」と談話している。

食べ物に関して、好き嫌いはほとんどないが、唯一食べられないものは枝豆である。理由は実家でとれた枝豆に虫が入っていたのを気付かずに食べ、トラウマとなってしまったため[15]。

12月4日生まれの有名人「ギャル曽根」



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ギャル曽根(ギャルそね、1985年12月4日 - )は、日本のタレント、フードファイター、歌手、グルメコメンテーター。本名:名城菜津子(旧姓:曽根)[1]。京都府舞鶴市出身。また、ギャルルのリーダー(2代目)でもある。

ギャルソネと表記されることもある。ワタナベエンターテインメント所属。キャッチコピーは「大食いクイーン」。


舞鶴市立明倫小学校、舞鶴市立城南中学校、京都府立西舞鶴高等学校卒業。調理師免許所持。
身長162cm、体重45kg。
兵庫県姫路市の魚町にあるキャバクラ「club EARTH」でホステスの仕事をしていたが、2005年から大食いのテレビ番組に出演するようになり、2006年の『元祖!大食い王決定戦 新爆食女王誕生戦』、2007年の『元祖!大食い王決定戦 新爆食女王限界死闘編』(テレビ東京)などで優勝。
それをきっかけに上京し本格的に活動を始める。『ラジかるッ』、『大笑点』(日本テレビ)では、同じく大食いのジャイアント白田(白田信幸)と大食い対決している。
当初は素人としての番組出演だったが、2006年に大手芸能事務所のワタナベエンターテインメントと契約してタレント活動を始めた。2007年4月に、辻希美(妊娠脱退により安倍麻美が参加)、時東ぁみと共に藤田志穂のプロデュースによるパラパラギャルユニット「ギャルル」結成を発表。曽根は「そねね」として登場した。初代リーダー辻の脱退により、2代目リーダーとなる。
2007年度『日本新語・流行語大賞』にて「大食い」がトップテンに入賞し、その受賞者となる[2]。
2011年7月24日、『もしもツアーズ』などを手がける9歳年上のディレクター、名城ラリータと結婚[3][4]。同年8月6日放送の『もしもツアーズ』にギャル曽根がゲスト出演し共演を果たした。2012年11月5日に男児を出産した。


家族は母と姉と弟。大食いは家族や母から受け継がれたものであり、母の料理は普段から量が多く家族も皆沢山食べていたこともあって、幼い頃から大食いであった[5][6]。父は地元企業の社長で豪邸に住む等裕福な生活だったが、小学校3年の時に事業の失敗で借金を作った事が原因で家を出た、豪邸を手放す等裕福から一転し質素な生活を余儀なくされた[6]。しかし、母はそれでもめげずに大食い料理を作っており[6]、高校生時代3年間付き合っていた彼氏を度々自宅に招き、家族と食事を共にした際、母は「男の子は沢山食べるでしょう!」と、ハンバーグ合計7枚などの大量の食事でもてなした事もあった[5]。
京都出身であるが、関西弁は話さない。素人時代は話していたが、プロタレント転向に伴って事務所の方針で話さないようになった[7]。
数時間以上の遅刻癖が激しい。
実家は養蚕業であった。実父は女性と一緒に家を後にしたという。(開運!なんでも鑑定団出演時の発言)
中学校時代、姉と共に陸上部に所属し、複数の市民マラソン(特に米俵や食品が賞品の大会)に出場しては姉妹揃って1位・2位を取っていた。そのため地元の市民マラソン常連者の間では、市民マラソン荒らしの異名を取っていた[6]。このほかにも小学生時代には弟と一緒に柔道を、中学生時代には水泳も習ったことがあるという。
憧れの芸能人は浜崎あゆみで、中村有志が命名した芸名の通り、ギャル系メイクが特徴。大食い対決の途中でメイクを直したことがある。
他の大食い選手が必死の形相で手当たり次第に食物を口に詰め込むことが多いのに対し、好きなものばかりをよく噛みながらマイペースで美味しそうに口に運ぶ、大食いとしては異色な(食事としては健全な)行動が目を引き、人気を博す(なお、大食い対決・大会以外の食事も同様のスタイルである)。
同じ女性フードファイターでは三宅智子と仲が良く、後年出演した大食い番組でも「最近では唯一の仲良し」と発言している[8]。
マヨネーズを常に携帯しているという「マヨラー」でもあることからギャルマヨとも呼ばれている。3日で1本消費するといい、いつも箱買いしている[9]。
大食いタレントとしては珍しく食べ物の好き嫌いが多いのが特徴。好物は、大トロ・特上カルビ・ウニ・卵料理・ピンクレモネード・爽健美茶・アクエリアスなど。不得手は、蕎麦・数の子・レバー ・豆腐[10]・こんにゃく・メロン・ココナッツ・ポップコーン・辛口料理[11]など。なお、エビフライのように大食い競技を経て不得手から好物になった食材もある[12]。
女子中高生にアンケートをとっている@peps!ランキンでは一度すっぴんを見てみたいと思う女性芸能人No.1(ピーネスト調べ)にランキングされている[13]。
姫路在住時代・東京生活関係
姫路市にある日本調理製菓専門学校の調理科を卒業し調理師免許を取得。
姫路市にあるギャルファクトというスナックで働いていたことからこの名前がついた。
2007年夏までは兵庫県姫路市に住んでいたが、 東京が主な仕事場であり、仕事が忙しいため姫路にはあまり帰らず、実家や東京に住む友人宅(着替えの衣類も置いてもらっていた)やインターネットカフェにいたりそこで寝泊りすることが多かった。そこで同年夏に東京に引っ越してきた[14]。
姫路在住時代は、普段の食費を節約しつつも大食いしたいため、もやしを大量に買い込んで消費していた[14][15]。
東京に引っ越し後、普段は財布を持ち歩く事はなく、チャレンジメニュー実施店で夕食を摂って賞金を稼いでいたり、また別の店の食事永久無料のカードを持っており利用している[6]。また、以前より質の良いものを食べるようになった[14]。

2007年7月17日放送のラジかるッにて内臓(胃)のレントゲン写真が本人不在ながら公開されていた。通常時は一般人とさほど変わらない胃の大きさであるが(同年7月22日行列のできる法律相談所でも同様の本人談有)、大食い時はほぼ全面胃しか写っていない状態に見えるほどかなり大きく膨れ上がっていた(なお、他の内臓は背中方面に押し寄せられてしまうと西川史子が説明していた)。その時の外見は同番組の大食い対決コーナーで何度か映っている様にまるで妊婦の様になっている。2007年9月29日放送オールスター感謝祭では、「30分間食べたら、どれだけウエストが大きくなるか」と言う旨の企画があり、その際食前のウエストが約63cm(服を着た上から計測)だったのに対し、食後に計測した際には83cmと20cmも増えていた。
2007年8月28日、右臀部骨折が発覚。軽症のため自然治癒にまかせた。2008年9月9日放送の「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」(ABC)でもこのことを伝えた[16]。
大食い対決・大会関係
勝ち負けよりも「自分の食べたいように食べる」ことにこだわる。

2005年10月23日放送の『元祖!大食い王決定戦』における食パン大食い対決では、ジャムを大量に使い、食パン7斤=2.33kgを食べるのにジャム1kg以上を用いた(バター、ジャムなどは好きに付けて良いルールとなっていたが、その重量はカウントしないルールである)。この勝負では最後の一枠で勝ち残ったが、負けとなる最下位との差はわずか6gであった。
同番組での蕎麦対決では、競技の終盤で蕎麦に飽きてしまい、おかずの天ぷらのみを食べ、勝負に負けてしまった(食パンと同様、蕎麦のざるの枚数のみがカウントされ、天ぷらは競技の対象外だった)。
ただ、この姿勢は少しずつ変化しているようで徐々に勝敗への拘りを見せるようになり、2008年3月30日放送の『大食い爆食女王決定戦』では苦手のココナッツの風味が強いエビフライを思うように食べられず、また準決勝のステーキ対決でグラム単位の差で敗北し、それぞれ涙を流した。
時に、「胃袋は優れていても、顎の力は普通の女性と同じ」と称される事があり、硬い食べ物や揚げ物やステーキといった、噛み切る力や噛むスピードなど、顎の力がより問われる戦いでは、劣勢を強いられることも多い。
2008年2月21日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー番組『食わず嫌い王決定戦』に登場し(対戦相手は徳永英明)、勝敗を決める実食の時に徳永からサザエのつぼやきを指名されたが、結局食べ切れずに負けた(一方の徳永が苦手なものは地鶏の水炊きだった)。
2008年8月3日に日本テレビ系列で放送された「世界の果てまでイッテQ!」の企画で、ヨネスケとニュージーランドへ行って、日本のものよりもさらに大きなウナギを食べる事に挑戦した。現地で「珍獣ハンター」のイモトアヤコと合流し、現地の漁師の協力を得てイモトが獲った(というよりは、現地の漁師が御膳立てした様な物だった)体長1m20cm前後の3匹の大ウナギ(番組内では「だんご三兄弟」になぞらえて「ウナギ三兄弟」と呼んでいた)を地元の日本料理店に持ち込み、白焼きや天ぷら、蒲焼き、うな重などに調理された3匹を全て食べ尽くした。この光景には同行したヨネスケや漁師、そして調理を担当した板前も驚いていた(イモトは漁が終了した時点で撤収したため、その場にはいなかった)。

彼女の出身地は京都府舞鶴市であるが、彼女を幼少の頃から知る人たちが彼女を大食いクィーン「ギャル曽根」と知る過程には時間差が生じていた。彼女が一躍有名になったのは2006年の『元祖!大食い王決定戦 新爆食女王誕生戦』であるが、関西でこの番組を放送しているのはテレビ東京系列のテレビ大阪であり、京都府も受信可能地域に含まれるものの、大阪から直線距離にして約100km離れている舞鶴市は一部の場所のみが受信可能地域となっていたためである(テレビ東京系列の番組を舞鶴市で視聴することは、一部ならBSジャパンで可能となる)。

このような放送環境のため、暫くの間地元では彼女の活躍を目にする機会が少なく、大食いクイーン「ギャル曽根」としての認知度は低かった。その後、彼女が他局の番組にたびたび出演するようになり、テレビで目にする機会が増えたことから、地元の人間にも大食いクイーン「ギャル曽根」=曽根菜津子という一致事項が出来上がるようになった。

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