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2015年01月

1月30日生まれの有名人「アブドラ2世ヨルダン国王」



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アブドゥッラー2世
عبد الله الثاني‎
ヨルダン国王
The King of Jordan in 2013.jpg
アブドゥッラー2世(2013年、世界経済フォーラム総会にて)
在位 1999年2月7日 - 在位中
戴冠 1999年6月9日、於ラガダン宮殿
全名 عبد الله بن الحسين‎
アブドゥッラー・ビン・アル=フセイン
出生 1962年1月30日(52歳)
ヨルダンの旗 ヨルダン、アンマン
配偶者 ラーニア・アル=アブドゥッラー
子女
一覧参照
フセイン
イマン
サルマ
ハーシム
王家 ハーシム家
父親 フセイン1世
母親 ムナー・アル=フセイン
宗教 イスラム教スンナ派
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アブドゥッラー2世・ビン・アル=フセイン(アラビア語: عبد الله الثاني بن الحسين‎‎, ラテン文字転写: Abdullāh aṯ-Ṯānī bin al-Ḥusayn、1962年1月30日 - )は、ヨルダン国王(在位:1999年2月7日 - )。

経歴編集

イスラム教開祖ムハンマドの血筋を引くハーシム家の出身。1962年1月30日、国王フセイン1世と2番目の妻・ムナー・アル=フセイン王妃との間に長男として生まれる。

生後間もなく王太子に指名されるが、1965年に叔父のハッサンに王位継承権が移る。1966年、4歳のときにイギリスに留学し教育を受け、1981年にサンドハースト英陸軍士官学校卒業。1983年にはオックスフォード大学で国際政治学を聴講。1987年 - 1988年にはアメリカのジョージタウン大学大学院修士課程(国際関係論)。

1993年6月10日に半年間の交際を経てクウェート出身で両親がパレスチナ人のラーニアと結婚。2男2女をもうけている。

1999年1月、フセイン国王によりハッサン王太弟に代わって再び王太子に叙任。まもなく父の崩御に伴いヨルダン国王に即位(1999年2月7日)した。

ヨルダン陸軍に所属し、現在は最高司令官の地位にある。

父親と同じく異母弟のハムザを王太弟としていたが2004年に廃し、その後王太子は空位となっていたが、2009年に長男のフセイン王子(1994年生まれ)を王太子とした。

ヨルダンの50ディナール紙幣に描かれている。

1月29日生まれの有名人「エマヌエルスウェーデンボルグ」



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エマヌエル・スヴェーデンボリ
生誕 1688年1月29日
死没 1772年3月29日(満84歳没)
時代 18世紀
地域 スウェーデン
研究分野 キリスト教神秘主義
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エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)はスウェーデン王国出身の科学者・神学者・神秘主義思想家。スヱデンボルグとも。しかし多くはスウェーデンボルグと表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。

生涯編集

父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける。

1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。神秘主義者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。

スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからしばしばイギリスに滞在した。1771年の夏にロンドンに旅し、その地で翌1772年3月29日に没した。

1月28日生まれの有名人「二谷英明」



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二谷 英明
本名 二谷 英明
生年月日 1930年1月28日
没年月日 2012年1月7日(満81歳没)
出生地 日本京都府舞鶴市
国籍 日本
血液型 B型
職業 俳優
ジャンル 映画、テレビドラマ
活動期間 1956年 - 2012年
(放送界へのデビューは1954年)
活動内容 1954年:同志社大中退後、ラジオ佐世保(現・長崎放送)にアナウンサーとして入社
1956年:第3期日活ニューフェース
同年:映画『沖縄の民』でデビュー
1971年:日活を退社してフリー
1977年:『特捜最前線』
配偶者 佐世保時代に一般人と結婚
白川由美(1964年 - 2012年)※
※二谷の死による死別
著名な家族 長女(二谷友里恵)
主な作品
特捜最前線
表示
二谷 英明(にたに ひであき、1930年1月28日 - 2012年1月7日)は、日本の俳優。京都府舞鶴市出身。

来歴・人物編集

京都府立東舞鶴高等学校、同志社大学文学部英文学科中退後、アルバイト生活を経て1954年ラジオ佐世保(のちにラジオ長崎と合併し長崎放送と社名変更)に開局と同時に入社。3年間、司会や英語放送のアナウンサーを務めた。佐世保時代に前妻と結婚したが、その後離婚。

1956年小林旭らと第3期ニューフェイスとして日活に入社、同年『沖縄の民』で夜襲の少尉役としてデビュー。1957年主演デビューを飾る。1961年、日活スター映画のローテーションである「ダイヤモンドライン」入りし、以後「ダンプガイ」の愛称で石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎などとともに日活アクション路線の全盛期を築いたが、次第にヒーローのライバルや相棒、あるいは上司役といった、貫禄ある準主演者としての出演が多くなり、アクション映画のみならず、あらゆるジャンルの日活映画に欠かせない存在として高く評価されている。日活スターの中でも比較的、年長者であった事もあり、実際に日活撮影所でもエイメイさんと呼ばれ、多くの若い俳優達から頼られる存在で、人望も厚かった。

1968年には、旧西ドイツの連続テレビドラマ『パトロール隊出動』(邦題。原題は「Polizeifunk ruft」)の中の2話分に出演。その2話のサブタイトルは「Empfang in Japan」と「Flucht nach Kyoto」であり、詳細は不明だが日本が舞台のストーリーであると思われる。

1971年に日活を退社した後は、テレビに活躍の主軸を移していたが、1977年4月からテレビ朝日系列で放送開始された『特捜最前線』では主演の神代警視正(課長)役として出演。1979年に放送された北海道ロケ中にスキーで転倒して首を骨折する重傷を負ったが、4か月の闘病後に復帰した[1]。その後『特捜最前線』は1987年3月の終了まで全509回を数える人気番組となった(上記の事故による1979年1月から5月の一時降板のため、自身の出演回数は全492回)。

その一方で、二谷が主演していた『特捜最前線』の提供スポンサーであった日産自動車のセドリックの専属CMキャラクターを1972年から1987年までの15年間の長きにわたり務めており、二谷が専属CMキャラクターを務めるセドリックが『特捜最前線』の劇用車(特命車)としても活躍していたことで、「テレビ朝日=『特捜最前線』=二谷英明=セドリック=日産自動車」のイメージで一般大衆にも広く知られるようになり、Wタイアップ効果は絶大であった。

1990年代からは積極的にボランティア活動に参加、1993年には脚本家の小山内美江子らと教育を受けられない国々の子供たちのために学校建設活動を行う特定非営利活動法人「JHP・学校をつくる会」を設立した(設立当時の名称は、任意団体「カンボジアの子供に学校をつくる会」)。自ら何度もカンボジアに赴いて学校建設に尽力するなど、「JHP・学校をつくる会」の副会長理事として活躍していた。

2003年10月に脳梗塞で倒れ、高級老人ホームで療養し、芸能活動は休止状態にあった。JHP・学校をつくる会の副会長理事職に長らく就いていた。その他、日本映画俳優協会の理事長、日本俳優連合の専務理事を務めた。

妻は1964年に結婚した女優の白川由美。娘で元女優・トライグループ社長の二谷友里恵は郷ひろみの元妻。2009年頃より家庭教師のトライのCMに、かつて主演した刑事ドラマ『特捜最前線』の映像が使用されたCMが複数バージョン放映されており、往年の元気な姿がテレビで見られるようになっていた。

2012年1月7日、肺炎の為、慶應義塾大学病院にて死去[2]。81歳没。二谷の死去を受けて日活時代の仲間であった宍戸錠、松原智恵子、小林旭、吉永小百合などが故人への思いを込めたコメントを発表している[3][4][5]。

通夜は1月10日、葬儀・告別式は11日に東京都港区芝公園の増上寺で営まれた。通夜には長女の元夫だった郷ひろみ、日活時代の同僚である渡哲也、『特捜最前線』で共演した大滝秀治、藤岡弘、を始め、反町隆史・松嶋菜々子夫妻、秋野暢子などが弔問に訪れた[6]。葬儀・告別式では二谷を「東京のお父さん」と慕っていたシンガーソングライター・俳優の長渕剛がギターを持って参列、友人代表として弔辞を読みあげ、祭壇の前で「12色のクレパス」という楽曲を熱唱した。

戒名は「慈雲院學徳俊英居士(じうんいんがくとくしゅんえいこじ)」。前述の特定非営利活動法人「JHP・学校をつくる会」の副会長理事としての活動や、数多くの俳優仲間たちから慕われていたこともあり、「優しく慈しむ心で、雲のように包み込む包容力を持ち、学校を作るような徳を残す、優れたものを持っている人」との意味で付けられた。

1月27日生まれの有名人「モーツァルト」



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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
W・A・モーツァルト
基本情報
出生名 Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
別名 神童
出生 1756年1月27日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国・ザルツブルク
死没 1791年12月5日(35歳)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国・ウィーン
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1759年 - 1791年
ポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(ドイツ語: Wolfgang Amadeus Mozart、洗礼名:ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)、1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの[1]作曲家、演奏家。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを務めた。

生涯編集


少年時代のモーツァルト
幼年期
1756年1月27日、ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。

父・レオポルト・モーツァルトは元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、五歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった[2]。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。

父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された[3]。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、 シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)にプロポーズしたという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったと後に回想している[4]。

巡業と音楽教育
1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[5]。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[6]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K.87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった[7]。

マンハイム時代

アロイジア・ウェーバー
1777年 にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中、アウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、この時、二人は互いにひかれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った[8]。 マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった マンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[9]。

モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画をたてるが[10]、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年 2月にはパリ行きを命じる[11]。 3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった[12]。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった[13]。 また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。 7月3日、同行した母がパリで亡くなってしまう。

ウィーン時代
1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、 5月9日、コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。

翌1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。

1783年、この頃『ピアノソナタ第11番トルコ行進曲付き』を作曲したといわれる。(1778年説もある)

1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンはもし有力者が彼の才能を理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した[14]。

1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪れたとされるが記録は無い。 5月には父・レオポルトが亡くなる。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼が頻繁に行われる。

1787年8月10日にウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。

翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。

晩年

ヨーゼフ・ランゲ作 鍵盤に手を置くモーツァルト(首より下未完成[15])妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画」[16]
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする説もある。

1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K.588を初演する。 2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。

1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K.621を初演。

9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。

体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳10ヶ月の若さでウィーンで亡くなった。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に亡くなり、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった[17]。

亡くなる3年前の手紙に自分自身のことを語っている。 「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」

妻子
妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している[18]。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った[19]。成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいない。

年譜

モーツァルトのサイン
1756年 (0歳) 1月27日、ザルツブルクに生まれる。
1761年 (5歳) 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。
1762年 (6歳) 10月マリア・テレジア御前演奏。
1763年 - 1766年 (7 - 10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年 - 1769年 (11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『みてくれの馬鹿娘』K.51上演。
1769年 - 1771年 (13 - 15歳) 第1回イタリア旅行。
1770年 (14歳) 黄金拍車勲章授与。 12月26日 オペラ『ポントの王ミトリダーテ』K.87初演。
1771年 (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』K.111ミラノ上演。
1772年 - 1773年 (16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルーチョ・シッラ』K.135上演。
1773年 (17歳) 第3回ウィーン旅行。
1774年 - 1775年 (18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽の女庭師』K.196上演。
1777年 (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。
1778年 (22歳) パリへ移り。 7月、同行した母はパリで亡くなる。
1779年 (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
1780年 (24歳) オペラ『イドメネオ』K.366準備のためにミュンヘンに赴く。マリア・テレジア崩御。
1781年 (25歳) ザルツブルク大司教コロレドと衝突、解雇。ウィーン定住を決意。
1782年 (26歳)
7月、オペラ『後宮からの誘拐』K.384をウィーンで初演。
8月3日、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。
1783年 (27歳)
ザルツブルクに帰郷。大ミサ曲ハ短調 K.427を上演。
6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
1784年 (28歳)
第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
フリーメイソンリーの慈善ロッジ(ウィーン)に入会(書類上では12月5日)。
1785年 (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
1786年 (30歳) オペラ『フィガロの結婚』K.492初演。
1787年 (31歳) 父・レオポルト死去。オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527初演。
1788年 (32歳) いわゆる「3大交響曲」を作曲。
1789年 (33歳) ベルリン旅行。
1790年 (34歳) オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』K.588初演。
1791年 (35歳) オペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621、オペラ『魔笛』K.620初演。12月5日ウィーンにて死去。
死因
症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リウマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている[20]。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている[21]。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。

モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(ナポリ製のヒ素と鉛の合剤)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい。」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関するうわさが一気に広まった[22]。2002年にイギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポーク・カツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた。

また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされているが[23]、その2年前、1823年にライプツィヒのモシェレス(おそらくイグナーツ・モシェレス)というピアニストに「自分はモーツァルトの暗殺者ではない」と厳粛に明言している。

葬儀と墓
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある[24]。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である[25]。

没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである[26]。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行ったが[27]、検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。

1月26日生まれの有名人「所ジョージ」



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所ジョージ
基本情報
出生名 角田 隆之
別名 所さん 
出生 1955年1月26日(59歳)
出身地 日本の旗 日本・埼玉県所沢市
学歴 拓殖大学商学部除籍
ジャンル ロック
フォークソング
担当楽器 ギター
活動期間 1977年 -
レーベル キャニオン・レコード
EPICソニー/BOOGIE WOOGIEレーベル
VAP
avex
Jam Cracker Record
事務所 ティヴィクラブ
共同作業者 坂崎幸之助
公式サイト TOKORO WEB
所 ジョージ(ところ ジョージ、英語表記:Tokoro George、1955年(昭和30年)1月26日 - )は、日本のコメディアン、俳優、司会者、ラジオパーソナリティー、シンガーソングライター。本名、芳賀 隆之(はが たかゆき)旧姓、角田(かくた)。 既婚。

埼玉県所沢市出身。東京都世田谷区成城在住。ティヴィクラブ所属。身長172cm、体重63kg。

概要編集

小平市の錦城高等学校を経て1浪後、公募推薦で拓殖大学商学部に進学するも学費納入の手続きを忘れ、学費未納として除籍される。

「シンガーソングコメディアン」を自称し、ミュージシャン・コメディアンとして芸能界デビュー。その後、日本を代表するタレントとして複数の冠番組を持つ。その他、俳優・声優・司会者・ラジオパーソナリティ・ディスクジョッキー・作家・コピーライター・ゲームクリエイター・発明家、また、少年ビッグコミックにおける漫画家としての連載など、様々な活動を行っている。

本人は2013年春頃より親しい人たちに「還暦を過ぎても俺がテレビに出続けるのはどうかなぁ」と話すようになったとされる。60歳を境に引退の可能性があると言われている[1]。

1月23日生まれの有名人「西郷隆盛」



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西郷 隆盛
渾名 大西郷、南洲翁、西郷どん
生誕 1828年1月23日
日本の旗 薩摩国鹿児島城下加治屋町
(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町)
死没 1877年9月24日(満49歳没)
日本の旗 鹿児島県鹿児島府下山下町
(現在の鹿児島県鹿児島市城山町[1])
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1872年 - 1873年
最終階級 陸軍大将(元は階級としての元帥)
除隊後 教育者
墓所 南洲神社
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西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛、文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。維新の十傑の1人でもある。

略歴編集

薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

死後十数年を経て名誉を回復され、位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る。

1月22日生まれの有名人「星野仙一」



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星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、日本のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。岡山県倉敷市出身。選手時代のポジションは投手。2011年から2014年まで東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。

愛称は「仙ちゃん」「仙さん」。

経歴

プロ入りまで
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園を目指したが、予選を突破することはできなかった。最後の夏は1964年東中国大会決勝で、米子南高校に敗れた。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。

高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学[1]、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが[1]、倉敷商の矢吹監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという[1]。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし、田淵幸一・山本浩司(のちの山本浩二)・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。なお、大学の一年先輩にはのちに読売ジャイアンツへ進む高田繁がいた。

大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという[2]。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだこともあるという。

プロ選手時代
1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した後も非常に愛着のある番号だったという。

入団した年、星野はある巨人戦に先発登板したが打ち込まれて敗戦投手になった。星野は首脳陣に「明日も投げさせてください!かならずリベンジをします!」と訴えた。コーチ陣は当惑したが、監督の水原は「仙がここまで言っているんだ、投げさせてやれ!」といい、星野は次の日もまさかの先発をすることになった。その試合、星野はかなりいいピッチングをしたが、打線の援護なくまたしても敗戦投手になってしまった。面目を失ったと思い、ベンチ裏で落ち込んでうなだれる星野にむかって差し出す手があって顔をみあげると水原であった。「仙、よくやった。やられたら必ずやり返す。この気持ちを忘れたらプロとしてやっていけなくなる。今日のことは決して忘れるな。やられたらやり返す。これを忘れるな。今日はよくやった」と水原はいい、星野とかたい握手をかわした。「あのときの水原さんの手の感触は今でも忘れられない。自分は水原さんからプロの精神を学んだ」と星野は回顧している。

1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、チームも2勝4敗で日本一を逃した。

1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている。」と記している[3]。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。

ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった[4]。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという[4]。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。

巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。

珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)[5]。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた[5]。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)[5]。

星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している[6]。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している[7]。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。

1月21日生まれの有名人「高田純次」



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高田 純次
本名 高田純次
別名義 純ちゃん、純じい、Mr適当、TJ
純子ちゃん、ミスター無責任
生年月日 1947年1月21日(67歳)
出生地 日本の旗 日本 東京都調布市
身長 175 cm
血液型 O型
職業 タレント、俳優
活動期間 1977年 - 現在
配偶者 既婚
著名な家族 2女
表示
高田 純次(たかだ じゅんじ、1947年1月21日 - )は、日本の俳優、タレント。東京都調布市国領出身。身長175cm[1]。血液型はO型。愛称は「純ちゃん」、「純じい」、「Mr適当」、「TJ」、「純子ちゃん」、「ミスター無責任」。自身の所属事務所であるテイクワン・オフィスの代表取締役社長も務める。

人物紹介編集

経歴
幼少時、母親が32歳の若さで病没した後、東京ガス勤務の父親とその再婚相手のいる家庭で育つ[2]。

東京都立府中高等学校卒業後、一流企業勤務や弁護士などを志し、現役で明治大学・青山学院大学・法政大学・中央大学を受けるが全て不合格となる[3]。その後は東京芸術大学・武蔵野美術大学・中央大学の3校を受験する[4]が不合格となる。その後一浪し、東京藝術大学・武蔵野美術大学・多摩美術大学・日本大学藝術学部などの美大系や[5]や成城大学・青山学院大学・法政大学を受験する[4]がいずれも不合格となり、東京デザイナー学院グラフィックデザイン科へ進学した[6]。学生時代からポスターその他広告媒体をデザイン・制作するアルバイトに励む。

1971年、自由劇場の舞台を見て俳優を志願。同劇団に入団し研究生となる。1年で退団し、イッセー尾形とともに劇団「うでくらべ」を結成するが、半年ほどで解散。

その後結婚したが、劇団の収入では生活できないこともあり、26歳の時に宝石販売会社「トキモト」に入社した[2]

1977年に「劇団東京乾電池」に入団。サラリーマン生活を捨て、再び劇団の世界へ入ったものの、当初は売れず。妻子を養うために「警察に捕まるようなこと以外の職は、一通りやった」と本人は語っている[2]。

テレビデビューは32歳の時で、『笑点』にてコントを披露した[7]。その後、同劇団の綾田俊樹、ベンガルらと共に『笑ってる場合ですよ!』に出演し、番組内コーナー「日刊乾電池ニュース」で土用波三助と称して出演し一躍知名度を上げる。劇団を離れた後は、主にテレビ番組出演に活動の場を移す。

1985年1月、37歳でテレビドラマ『毎度おさわがせします』(TBS)に出演する。

1988年に出演した中外製薬「グロンサン」(現在はライオンから発売)のCMが話題になり、CMのキャッチコピー「5時から男」で新語・流行語大賞の「流行語部門・大衆賞」を受賞した。

1990年代には、『象印クイズヒントでピント』、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(「純次ダンス」が人気を博した。後述)、『マジカル頭脳パワー!!』など多くのクイズ番組に解答者として出演。『どうぶつ奇想天外!』においては、レギュラー解答者として1993年10月の放送開始から2008年秋までの長きに渡って出演していた。

また、1994年からは中京テレビにて東海地区グルメ情報番組PS(開始当初は『P.S.愛してる!』)の司会を務め、同番組は現在でも長寿番組として人気を博している。東海地区では、キリンビールやアサヒビールなどのCMを始め、中京テレビの多くの特番に出演するなど長年懇ろな間柄である。

2000年代に入り、還暦を過ぎた今でもその特異なキャラクターでバラエティ、ドラマなど数多くのテレビ番組で活躍し、コアな人気を博している。

芸能人として
本業は俳優だがコメディアンとしての側面が強い。各方面から「平成の無責任男」「芸能界一いい加減な男」「元祖テキトー男」などと称される。とりわけバラエティ番組では、“何も考えていないような”その芸風で共演するタレントたちを戸惑わせる。
俳優として映画・ドラマへの出演もしており、主人公の父親・夫役などで重要な役柄を演じることも多くなっている。それも非常にシリアスなストーリー・役柄が多く、バラエティ時とは全く正反対の顔を披露している。例えば、西村京太郎トラベルミステリーでの亀井刑事役やプレイステーションのゲーム『ユーラシアエクスプレス殺人事件』での終始真面目な列車車掌役(重要な役)を演じている。
下ネタが大好きで、OAでは大抵「ピー音」などでマスキングされている。かなり露骨なことを男女問わず共演者に言ったり、ナンパの際にもダンディな口調で暗にアタックする。また、自らも体を張って奇抜な格好をしたり、下着を脱ぐなどその年齢と芸歴をものともしない大胆な行動も得意とする。
広げた右手の親指をおでこの前に持っていき、左手は後ろに伸ばし、右の手のひらを「ヒラヒラ」させながら、ロデオの馬のように激しく足をバタバタさせてくるくる回る「純次ダンス」が得意技。他、前かがみになり両手を前に出して手指をヒラヒラさせ、ピコピコと後進する場面も多い。渡辺正行はこの行動に関して「あれは喜びを表現しております」と、解説している。
番組収録中に意味もなく脱ぐことでも有名だが、ほぼお蔵入りになる。
ひとしきりしゃべった後、他の出演者と全く絡まずにボーッとしていることがあり、この状態を「高田電池切れ」と言う。このために「充電」と称して、収録中であるにもかかわらずスタジオを退室してしまうことがある。
『踊る!さんま御殿!!』や『うたばん』で、電池切れになって本番中に寝ていたことがある。さらに、『快傑熟女!心配ご無用』では、パネラーのやりとりの最中に居眠りをしていたところを和田アキ子に突っ込まれている。
トーク・バラエティ番組の冒頭場面(いわゆるつかみ・フリの部分)で唐突に話し始め、番組進行を脱線させる。明石家さんまは「純ちゃんの話は足踏みトークなんですよ」と評している。しかし、さんま自身もこの類いのネタを高田に期待している部分もある。
一方で『金子柱憲・高田純次ゴルフの王道』の収録では終始真面目にゴルフをしており、エンディングのトークコーナーでも余計なことは言わない。共演者と全く絡まずに、ボーッとしていることもある。だが、番組で共演している金子柱憲プロに関しては、よく他の番組で悪口を言っている。
私生活
子供の頃は近所の人たちから神童と呼ばれていたと言われ[8]、中学時代までは成績はトップクラスであったという。
高校時代のあだ名は「国領のニワトリ」。
都立府中高校に在籍していたため1968年に起きた三億円事件の容疑者として名前が上がった事がある[9](当然、事件とは無関係)。
夫人との間に二女がおり、1983年には花王や、エバラ焼肉のたれのCMに一家揃って出演した。長女は「TAGE」(タージュ)のデザイナー、次女はアルバイトをしながら美術活動(銅版画作家)をしていると話している。また、孫もいる。
自動車好きとしても有名。現在はアストンマーチン・DB9を所有。またフォルクスワーゲン・トゥアレグW12に乗っているとも話している。そして「時速800kmで衝突した」と話す。
ダイヤモンド鑑定士の資格を持つ[10]。そのためダイヤモンドなどの宝石の価値、デザイン、原価・販売価格に関して「高田節」を交えつつ話し、バラエティ番組などではその技術力に対し一定の評価を得ることもある。
還暦を迎えてもなおダンディかつエレガントな印象を与える容姿から、外見だけは女性からの受けもよい。
芸能プロダクションの経営者でもある。一時所属タレントであった麻木久仁子によると、普段はテレビに出ているのと変わらないが、年に一回のギャラ交渉のときだけは一切冗談も言わず、目も笑っていないという。
『多摩川』が本人のパワースポットであり、少年期に遊んだ経験から、人生を見つめ直す今日を語るにあたり「多摩川べりへ行って…」などと述懐することが多い。
尊敬する人物は高田が出演していた『どうぶつ奇想天外!』の司会者みのもんた。理由は高田曰く「飲みに行くと必ず奢ってくれるから」。高田の交友関係で、みのの名前がよく出ることから、お互いに最高の友人と認め合っている。
横尾忠則を『神』と崇めて尊敬している。また近年では『キタムラ』のメンズバッグのロゴマークデザインを依頼されるなど、芸術面に関する造詣の深さを変わらず持ち続けている一面も見せている。
口癖は「〜ですよね」「いや意外と」「だって〜だから」「すっとこどっこい」「グフッ」「とんちんかん」「あらオシャレだねぇ」など。
高田と同世代から20代にかけての男性達に「高田さんみたいな生き方に憧れる」「高田さんみたいに歳をとれたら最高だ」と言われることが多い。「単に奇抜な格好をしたり適当なことを言っているだけの人」とは思われていない人柄、幅広い人々から愛される生き方をするタイプである。
1970年代に、当時高校生の小川菜摘をナンパしたことがある。
過去にたまたまナンパした相手が娘の同級生だったことがある[11]。
企業の宴会に呼ばれたとき、異常な盛り上がり方をしていた宴会を見て「俺、やることないから後は適当に…」と宴会の幹事に告げ、営業を適当に済ませたことがある。
愛飲のタバコはハイライト。

1月20日生まれの有名人「太田裕美」



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太田 裕美
基本情報
出生名 太田 弘美
出生 1955年1月20日(59歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都荒川区
学歴 上野学園高等学校
ジャンル J-POP
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ピアノ
ギター
活動期間 1973年 -
レーベル ソニー・ミュージック(1974年 - 2006年)
Boundee(2009年 - )
事務所 ボイスアンドリズム
共同作業者 なごみーず
公式サイト 「水彩画の日々」
太田 裕美(おおた ひろみ、1955年1月20日 - )は、日本のシンガーソングライター。 本名は福岡 弘美(ふくおか ひろみ、旧姓:太田)。東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち。血液型はA型。夫はプロデューサーの福岡智彦、2男あり。

来歴編集

東京都荒川区で生まれ、3歳のとき埼玉県春日部市に転居。幼少の頃から音楽が大好きだっという。8歳からピアノを習い始める。初めて作曲したのもこの頃。小学校時代はコーラス部に入っていた。

1967年4月、上野学園中学校音楽指導科声楽科入学。

1969年、中学3年のときに友人の代わりにスクールメイツのオーディションをうけ、合格する。受験理由は、大好きなザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったため。 これにより渡辺プロの東京音楽学院に入ることとなった。同期生には伊藤蘭・田中好子らがいた。

1972年(高校3年)の11月、NHKのテレビ番組『ステージ101』のレギュラーグループ「ヤング101」のオーディションを受け、ショパンの「子犬のワルツ」をひいて合格する。1973年1月から番組終了の1974年3月まで、ヤング101の一員として『ステージ101』に出演。ヤング101の途中から、芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更した。

1973年12月、オーディション番組に出て優勝。渡辺プロと新人養成契約を結び、西銀座のライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りで歌い始める。

1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。デビュー初期はフォーク調で、ピアノ弾き語りの曲が多かった。

1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が大ヒット、翌1976年のオリコンチャート4位を記録(1位は子門真人「およげ!たいやきくん」)。なお、NHK紅白歌合戦には初登場の1976年から1980年まで、5年連続で出場。

1982年に歌手活動を一時休業、8か月間アメリカ合衆国・ニューヨークに単身留学(「八番街西五十一丁目より」で第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞)。帰国後には『ニューヨークなんて怖くない』を執筆。また帰国後はディレクターがデビュー時からの白川隆三から、後に夫となる福岡智彦に替わり、テクノポップ調の曲を多くリリースするようになった。このニューウエーブ系路線は、大村雅朗、「4人目のYMO」といわれた松武秀樹、銀色夏生(山元みき子)、BaNaNa、板倉文、ホッピー神山、岡野ハジメ、杉林恭雄などがサポートしていた。

1984年1月20日(29歳の誕生日)、ディレクター兼プロデューサーの福岡智彦との交際を明らかにする。

1985年1月26日、福岡智彦と結婚。1980年代後半からは遊佐未森らへの楽曲提供も行うようになった。

1996年4月2日、ライブ活動を再開。1998年、ミニアルバム『魂のピリオド』をリリース。

弦楽四重奏グループ・クロノス・カルテットのアルバム『弦楽四重奏曲の諸相 II〜冬は厳しく』には、太田の朗読がフィーチャーされている。

2005年、かねてから親交のあったミュージシャンAYUOとの連名でアルバム『RED MOON』を制作、ニューヨークのレーベルTZADIKから1月20日、50歳の誕生日にアメリカで発表。

2004年から太田、伊勢正三(元かぐや姫)、大野真澄(元ガロ)の3人でユニット「なごみーず」を組み、『アコースティック・ナイト』コンサートを開催している。

1月19日生まれの有名人「松任谷由実」



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松任谷由実
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曖昧さ回避 「ユーミン、ゆーみん」はこの項目へ転送されています。同じ愛称を持つ
松任谷 由実
基本情報
出生名 荒井 由実(旧姓)
別名 ユーミン(Yuming)
呉田 軽穂
出生 1954年1月19日(60歳)
出身地 日本の旗 日本・東京都八王子市
学歴 多摩美術大学
ジャンル フォークソング
ニューミュージック
ポップ・ミュージック
J-POP
職業 シンガーソングライター
作曲家
作詞家
担当楽器 ボーカル
ピアノ
活動期間 1972年 -
レーベル EMI Records Japan・EXPRESS
(旧:EMIミュージック・ジャパン)
事務所 雲母社
共同作業者 かまやつひろし
村井邦彦
川添象郎
ティン・パン・アレー
松任谷正隆
小田和正
財津和夫
公式サイト 松任谷由実オフィシャルサイト
松任谷 由実(まつとうや ゆみ、本名:同じ、1954年1月19日 - )は、日本のミュージシャン。 旧姓名は荒井 由実(あらい ゆみ)。愛称はユーミン。他アーティストへの作品提供の際には、本名の他、呉田 軽穂(くれた かるほ)というペンネームを使用する場合もある[1]。夫はアレンジャー・松任谷正隆で、彼女の音楽プロデューサーを務める。 オリコンでは、女性最多となるアルバムミリオン「通算9作」、アルバム首位「通算22作目」の記録を持つ。 最近では、1970・1980・1990・2000・2010年代と5つの10年代連続でアルバム売上首位を獲得(歴代1位)。徳永英明、桑田佳祐、山下達郎(3人とも1980・1990・2000・2010年代)が保持していた記録をユーミンが塗り替えた。シングルを含めても前人未到の快挙(1970・1980・1990・2000年代)。

人物編集

立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。

雲母社取締役、苗場プリンスホテル名誉総支配人(期間限定)。1976年の結婚と同時にアーティスト名も松任谷 由実へ改姓。 女性から『恋愛の教祖』と呼ばれ、絶大な人気を誇る。 2012年に発売された日本の恋と、ユーミンと。がオリコン1位を記録し、CDアルバム売り上げ枚数は、女性アーティスト史上初3000万枚を突破し、今なお変わらぬ絶大な人気を博している。

黒柳徹子のものまねが得意で、黒柳が司会を務めたNHK総合テレビ『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』(2003年2月1日放送)に出演した際、本人の前でそれを披露した。ちなみに、テレビ朝日『徹子の部屋』には出演歴はないが、最終回への出演を希望している[2]。

1月16日生まれの有名人「ダンディ坂野」



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ダンディ坂野
本名 坂野 賢一
生年月日 1967年1月16日(47歳)
出身地 日本の旗 日本・石川県加賀市
血液型 AB型
身長 166cm
方言 共通語
最終学歴 石川県立大聖寺実業高等学校
グループ名 一発屋2008
芸風 漫談
事務所 サンミュージックプロダクション
活動時期 1996年 -
同期 品川庄司、バカリズム、ゆってぃ
現在の代表番組 大爆笑!!サンミュージックGETライブ
過去の代表番組 おはスタ
完売劇場
配偶者 既婚
公式サイト 公式ブログ
表示
ダンディ坂野(ダンディさかの、1967年1月16日 - )は、日本のお笑いタレントである。本名、坂野 賢一(さかの けんいち)。

石川県加賀市出身。サンミュージックプロダクション所属。血液型はAB型。

人物編集

1993年(26歳当時)に上京し、プロダクション人力舎のスクールJCAに2期生として入学。漫才コンビ「ラブリン」を結成し、ボケを担当するも、「才能が無い」という理由で留年。一期下の3期生とともに1年間学ぶ。その時の3期生にはアンタッチャブルらがいた。卒業後、同スクールの講師だったブッチャーブラザーズの付き人となる。

1996年、大川興業の舞台『すっとこどっこい』でデビュー。そして、テレビ埼玉の番組『パンドラ御殿』でテレビ初出演。同番組内コーナー『探偵物集(ものたかり)』で、松田優作に扮した寺田体育の日とギャグ対決を繰り広げた。でんでんの芸風を受け継いだ漫談メインのスタイルであるため、第二電電とかけた「第二でんでん」が彼のキャッチフレーズだった。

1999年には、2002年以降のお笑いブームの火付け役となったNHKの番組『爆笑オンエアバトル』の第1回目に出演し、合格している。番組初期の功労者であり出場回数も多いが、オンエア率(合格率)はおよそ3割と低く、当時の番組歴代最多のオフエア回数15回という不名誉な記録も持っていた(後にHi-Hiが16敗で更新)。ただし、オフエアとなったネタも極端にKBが低いわけではなく、オンエア率の高い400KB台でオフエアになった時もあった。2000年6月放送分で当時の自己最高KBである393KBを記録したが、6位でオフエアになったため、司会の森下和哉(NHKアナウンサー)に向かって「超ムカつく!」と嘆いた。ちなみに最高KBは453KBである。オンエア率の低さとは裏腹に、後に番組の枠を超えて人気を博し、彼のブレイクはピン芸人ブームの先駆けとなった。


ゲッツのポーズ
様々な色のタキシードを着用し(ネタ以外では黄色のタキシードが多い)、粋なジョークを飛ばすのが彼の芸風であるが、そのジョークのほぼ全てがテーマに沿った駄洒落を連発するだけのものである。ジョークを言った後に苦し紛れで言う決め台詞「Get's!!(ゲッツ)」は、一時期若者たちの間で流行した。「面白くないネタを披露して、滑って気まずくなった空気の中で使う」のがゲッツの本来の使い方であるが、人気絶頂期には滑るはずのネタがしばしばウケてしまい、彼を困惑させたという。

基本的にはネタ芸人であり、お人好しな性格でフリートークは得意ではない。そのため、2003年をピークにその後人気が下降。唯一のレギュラー番組だった『3つのとびら』が2006年3月に終了して以来、テレビへの出演回数はめっきり減っていった。しかし、月に数本の深夜番組や地方のローカル番組、およびライブを主な活動の場に持ち、また、テレビ朝日『雨上がり決死隊のトーク番組 アメトーーク』などの全国ネット番組に「一発屋芸人」として出演する機会も多くなってきており、完全にテレビから消えたわけではない。本人もそのキャラクターに徹しているようで、関西テレビ『たかじん胸いっぱい』に出演した際に「お笑いブームで残れないのは分かっていたし、ブレイクした時点で僕の中で何かが終わった気がした。これから頑張るより、一発屋芸人というキャラクターになろうと思った」と語っていた。

2004年8月22日に結婚し、2009年7月7日に長女が誕生した。

1月15日生まれの有名人「李登輝」



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李 登輝(り とうき、リー・テンフェ、1923年(大正12年)1月15日 - )は、中華民国の政治家・農業経済学者。元・中華民国総統(1988年 - 2000年)。コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。信仰する宗教はプロテスタント・長老派。日本統治時代に使用していた名は岩里 政男(いわさと まさお)。

蒋経国の死後、その後継者として中華民国の歴史上初めて直接選挙を経て総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「中華民国台湾」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の民主化を推進させた。

総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党台湾団結連盟を自ら中心となって結成し、台湾独立運動に影響を与え続けている。

1月14日生まれの有名人「石田純一」



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石田 純一
本名 石田 太郎(いしだ たろう)
別名義 石田 純
生年月日 1954年1月14日(60歳)
出生地 日本の旗 日本・東京都
身長 177 cm
血液型 A型
職業 俳優、タレント
ジャンル 映画、テレビドラマ、舞台
活動期間 1979年 -
活動内容 1979年:ドラマ『あめりか物語』でデビュー
配偶者 星川まり(最初の妻)
松原千明(2度目の妻)
東尾理子(2009年 - )
著名な家族 石田武(父)
石田桃子(姉)
いしだ壱成(星川との間の長男)
すみれ(松原との間の長女)
石田理汰郎(東尾との間の次男)
東尾修(義父)
事務所 スカイコーポレーション
公式サイト 石田純一オフィシャルサイト
表示
石田 純一(いしだ じゅんいち、1954年(昭和29年)1月14日 - )は、日本の俳優、タレントである。本名、石田 太郎(いしだ たろう)。スカイコーポレーション所属。

人物編集

生い立ち
東京都目黒区にNHKアナウンサー・石田武の長男として生まれた。東京都立青山高等学校を経て、早稲田大学商学部中退。

最初の妻となった女性は、作家で活動家・星川淳の妹であり、1970年代に知り合って学生結婚[1]。この最初の妻・星川まりとの間にできた息子、いしだ壱成は後に俳優・テレビタレントとなっている。

演出家となることを考えた石田は大学在学中、演劇を学ぶためにアメリカ合衆国に渡った。東洋哲学に傾倒しており、ヒッピー的な志向であったまりとは、このアメリカ滞在中に離婚をしている。石田は帰国後の1978年(昭和53年)には大学を中退、演劇集団 円の演劇研究所研究生となった。

俳優デビュー
演劇集団 円での下積み生活を経て[1]、1979年(昭和54年)に、NHKドラマ『あめりか物語』(日系三世のタイ人の店員役)でデビュー。当初は石田 純の芸名を使用していた(のちに芸名を石田 純一と改名)。

1984年(昭和59年)の昼ドラ「夢追い旅行」で準主役に抜擢され名が知られる。1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)に放送されたフジテレビクイズ番組『TVプレイバック』に向井亜紀と共にレギュラー解答者に抜擢され、そのルックスと萩本欽一、ザ・ドリフターズのメンバーにも臆することのない軽快な話術が受け、知名度は一躍全国区レベルとなった。

1987年(昭和62年)にはテレビ朝日の音楽番組『オリジナルコンサート』の司会を務めている。

1988年(昭和63年)の『抱きしめたい!』(フジテレビ)など、トレンディドラマと呼ばれる作品に多数出演し、バブル期を代表するトレンディ俳優として活躍した[1]。

女性関係
1988年(昭和63年)、女優・松原千明と再婚、1990年(平成2年)7月には女児をもうけた。この女児は後に松原すみれ(現在は「すみれ」名義)としてモデルデビューすることになる。

しかしながら1991年(平成3年)10月、それまで石田が公表していなかった、最初の妻との間に儲けた息子の存在が女性セブンにスクープされ、「隠し子」の存在が明らかになった。石田もその事実を認めた声明を出したため大きく報じられた。この息子は翌1992年(平成4年)、「石田純一の息子」いしだ壱成として芸能界デビューし、親子での共演などもみられることとなった。

人気俳優・タレントとなった石田は、ファッションモデル・長谷川理恵との8年余りに及ぶ交際でも知られた。1996年(平成8年)10月、不倫交際をマスコミから非難された石田は「文化や芸術といったものが不倫から生まれることもある」(前日に川島なお美から聴いた言葉をそのまま言ったものであり、石田のオリジナルではない[要出典])と反論、ゴルフ場で芸能レポーターの取材に答える石田の姿は、この「不倫は文化」というフレーズと共に繰り返し報じられた。結婚中の不倫と「不倫は文化」発言による「不倫バッシング」によって、40代は一転不遇の人生に転落することとなった[1]。

テレビドラマの出演もなくなった石田は妻や娘とも1999年(平成11年)に離別(離婚)して経済的にも困窮、それまで住んでいた高級マンションは引き払おうにも引越し代がないという始末であった[1]。メインキャスターとして月曜日から木曜日までレギュラー出演していた『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)も不倫騒動の後に降板、降板日には生放送で落涙している。この頃の状況について石田は後に、「時間を持て余すことが何よりも辛かった」と語っている[1]。

「不倫バッシング」以降は映画やドラマ出演からも遠ざかり、主にバラエティ番組への出演を中心の活動となっている。ただ完全に俳優業をやめた訳ではなく、不定期ながら俳優としての活動もしている。

2009年(平成21年)にプロゴルファーの東尾理子と交際宣言し、同年9月に出演したテレビ番組においては翌春に東尾理子と結婚することを発表[2]、実際には同年12月12日に3度目の結婚(入籍)。結婚から3年後の、2012年11月5日には、二人の間に男児・理汰郎[3]が誕生している[4]。尚、この結婚によって石田の義父となった東尾理子の実父で元プロ野球選手の東尾修は石田とはほぼ同年代で、石田よりも4歳(学年では3年)だけ年上である。

エピソード
芸能界きってのイタリア好き。ピッツァ・マルゲリータの発祥の店「Brandi」へ来店するためにナポリまで足を運んだことがある。
イタリア人の生まれ変わりと占い師に診断されたこともあり本人もそれを信じている。
素足に革靴を意識し始めたのは、以前ミラノで、スリッポンに素足のファッションが流行した事に遡る。
以前はそれほど素足にこだわっていなかったが、北海道を訪れた時に靴下を着用していたのを地元民に「プロ根性がない」とダメ出しされてしまい、それ以降はこだわったと語っている(ゴルフシューズや極寒の地などで靴下を履く必要が生じた際には、外見からは靴下の存在が分かりにくいカバーソックスを着用することもある)。
高校時代は野球部に所属し、エースで4番打者だった[5]。プロ野球は熱烈な阪神タイガースの大ファン。野球オタクとも言われている[5]。時折、東京ドームや横浜スタジアムで阪神戦を観戦していると語っている。2013年10月26日、文化放送の日本シリーズ中継に義父の東尾修と一緒に出演。この時に、試合の流れをメモしたり、楽天のアンドリュー・ジョーンズの所属していたアトランタ・ブレーブスについてレクチャーしたり、楽天の枡田慎太郎の打撃について指摘したりなど、リスナーを驚かせる一面も披露していた[5]。
2012年6月24日、台湾のタレント・羅志祥(SHOW/ショウ・ルオ)のCD発売イベントMAGIC&有我在に出席した際に「華流応援隊長」に任命された。羅志祥より任命状を授与され、台湾でも話題となった[6]。
週刊文春の「嫌いな夫婦ランキング」(2013年11月28日号)で1位になった[7]。

1月13日生まれの有名人「太川陽介」



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太川 陽介
たがわ ようすけ
基本情報
出生名 坪倉 育生
出生 1959年1月13日(55歳)
出身地 日本の旗 日本・京都府京丹後市
ジャンル 歌謡ポップス
活動期間 1976年 ‐
事務所 サンミュージックプロダクション
公式サイト 公式
太川 陽介(たがわ ようすけ、1959年1月13日 - )は、日本の俳優、タレント、元アイドル歌手である。本名、坪倉 育生(つぼくら いくお)。

京都府中郡大宮町(現:京丹後市)出身。東京都調布市在住。サンミュージックプロダクション所属。

身長171cm。妻は女優の藤吉久美子。

来歴・人物編集

1976年、「陽だまりの中で」でレコードデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「昇れ!太陽くん」。芸名は都倉俊一によるもので、「太陽という文字を入れてみました」とのことである。

翌1977年、3曲目の「Lui-Lui」が太川自身最大のヒット曲となり、同年暮れの第19回日本レコード大賞を初め、各音楽大賞の新人賞を総なめにした。歌詞の最後で「Lui-Lui!」と叫ぶポーズが、太川のトレードマークとなっている(当時を知る女性ファンから「ルイルイやって!」とリクエストを受けることも少なくない)。1978年よりNHK総合「レッツゴーヤング」の司会を務めるなど、昭和50年代を代表するアイドルであった。明るい曲調でヒットした「Lui-Lui」の次の曲が硬派路線の「Cry・Cry・Cry」だった。太川は「ルイルイの後はクライを三連発する曲となったけど、本当はB面の方が明るい曲でそちらを歌いたかった」と語ったことがある。

その後アイドル歌手から俳優・タレント業に転向。もともとアイドルとしては茶目っ気や庶民性を前面に出すタイプであったこともあり、ホームドラマやコメディに適した俳優としてNHKなどでは特に厚遇された。現在では主に舞台を中心に、ラジオパーソナリティ、旅番組などで幅広く活動している。

1995年、女優の藤吉久美子と結婚(太川は初婚だったが藤吉は再婚)。2001年には長男が誕生した。芸能界のおしどり夫婦として有名である。なれそめは、1994年にNHK大阪で藤山直美主演のドラマ新銀河『大阪で生まれた女やさかい』の撮影で共演したこと。撮影終了後に新大阪駅に向かうタクシーで相乗りし、そのまま新幹線で東京まで一緒に帰り、東京で食事をし、交際につながった。ちなみに前述のドラマでは、二人が一緒に出てくるシーンは一度しかなかった。また、それ以前はお互い顔と名前を知る程度で特に面識は無かったという[1]。

実家は丹後ちりめんの卸販売をしている株式会社つぼりゅう。香川県高松市に叔母がいる。

蛭子能収とともに『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』に出演しているが、太川のリーダーシップと計画性、さらにはチームメンバーに対する細やかな気遣いには定評がある。なかでも正反対の性格である蛭子とのやりとりが好評で、ベストコンビとも言われている。このことは業界でも高く評価されており、水道橋博士は「蛭子さんを扱えるのは太川さんだけ」「自分たちの中で太川さんの何が凄いかといったら、蛭子さんと3泊4日一緒に過ごせること。なおかつ番組として成立させられてしまうのだから本当に凄い」と、評価している。これは問題行動や問題発言をよく繰り返す蛭子にうまく対処できない人が多いからである(だからといって、それでも常に蛭子をコントロールできているというわけではなく、道中で蛭子の心無い一言に激怒して感情的になったりする[2]ことはよくある)。

前述の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」のほか「ぶらり途中下車の旅」の旅人としても長く活躍しており、旅番組のイメージが強い。また近年では旅番組にかぎらず太川が出演すると視聴率が跳ね上がることが多く、業界内では『太川は何かを持っている』という評価を持たれているとされる[3]。

1月9日生まれの有名人「ジミーペイジ」



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ジミー・ペイジ
出生名 James Patrick Page
出生 1944年1月9日(70歳)
出身地 イングランドミドルセックス州
ジャンル ロック
職業 ミュージシャン
作曲家
ギタリスト
音楽プロデューサー
担当楽器 ギター
テルミン
活動期間 1957年〜現在
レーベル EMI
エピック・レコード
共同作業者 ヤードバーズ
レッド・ツェッペリン
ハニードリッパーズ
ザ・ファーム
カヴァーデイル・ペイジ
ペイジ・プラント
公式サイト www.jimmypageonline.com
著名使用楽器
ギブソン・レスポール
ギブソン・EDS-1275
フェンダー・テレキャスター
ダンエレクトロ
ジェームス・パトリック・"ジミー"・ペイジ OBE(Jimmy Page, 本名James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は、イギリスのロックギタリスト、作曲家、プロデューサー。身長180cm。

当時の音楽ジャーナリズムからは「1970年代のパガニーニ」と称され、世界で最も成功したロックバンドの一つであるレッド・ツェッペリンのギタリスト兼リーダー、プロデューサーでもあった。イングランドロンドン出身。 ローリング・ストーン誌の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第9位[1]、2011年は第3位[2]。



活動及びキャリア編集

アート・スクール、セッションマン時代
1963年頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッション・ギタリストとして活躍、数々のレコードに参加する。当初は「クルセイダーズ」などにも参加し、パーマネントなバンドでの活動を志望していたが、体調不良から断念することになる。セッションマン時代は、主に師匠格のビッグ・ジム・サリヴァンと行動を共にしており、ビッグ・ジムに対して「リトル・ジム」の愛称で親しまれていた。

ペイジは後にアートスクールを退学、プロのセッション・ギタリスト1本に志向するようになる。以下にセッションマン時代の主な活動を記す。

1969年のジョー・コッカーのデビュー盤でのハイライト曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンズ」は同年のウッド・ストック・フェスティバルでのパフォーマンスが有名だが、元のビートルズ作品を3拍子のゴスペル調にアレンジし直したのはペイジであり、イントロでの印象的なディストーションの効いたダブル・チョーキングも含めて、コッカーのデビュー盤ではペイジが全編を弾いている。
ニコの1965年のシングル「I'm Not Sayin'」をプロデュース。
1966年にデビューしたフランスのミッシェル・ポルナレフのレコードにも参加。
ザ・フーの数曲(「アイ・キャント・エクスプレイン」「ボールド・ヘッデッド・ウーマン」など)に参加。
当時は演者側、セッションマン側、プロデューサー側それぞれに守秘義務があり、ペイジ自身も自分のどのプレイがどこで使用されているのか知らされないことも多かったと発言している。また、プロデューサー側も保険をかける意味でセッションマンを雇うときもあり、演奏したものが一切使用されなかったことも度々あったという。

ソロ・デビューは1965年。フォンタナ・レコードからシングル「シー・ジャスト・サティスファイズ/キープ・ムーヴィン」をリリース。また、この前後、エリック・クラプトンとのツインギターによる非公式セッションの様子を録音したブルースナンバーもリリースし、クラプトンの顰蹙を買っている。この件に関してペイジは、レコード会社が勝手にやったと主張している。

ヤードバーズ
クラプトン脱退後のヤードバーズへの参加を要請されるもののこれを辞去し、以前からの知り合いであるジェフ・ベックを推薦する。ところが、その後、ベースのポール・サミュエル・スミスが脱退したため、1966年6月にヤードバーズにベーシストとして加入。その後ベックが扁桃腺炎で療養に入ったため、ベックの代役でギターパートへ転向。ベック快気後は彼とのツインリード・ギターのスタイルがバンドの売りとなった。その後「トレイン・ケプト・ア・ローリン(ストロール・オン)」、「幻の10年」、「アイム・コンフューズド(後の『幻惑されて(原題Dazed and confused)』)」などの曲を残すが、後にジェフ・ベックが脱退、更にメンバーの音楽性の違いによる不仲からヤードバーズ自身も1968年に空中分解、解散状態となる。ペイジのヤードバーズ加入の直接の動機はとにかくスタジオから抜け出て、(セッションではない)ライブ演奏をしたかったからだという。

レッド・ツェッペリン結成
バンドの継続に意欲があり、また契約も残っていたペイジは、新メンバーを集めようと試みた。

当初ボーカリストには、スティーヴ・ウィンウッド、もしくはスティーヴ・マリオットを加入させようとしたのだが、共に既に他のマネジメントとの契約で上手く行かず(ただ、この2人のスカウトはこのレッド・ツェッペリンにではなく、それより以前に「キース・ムーン或いはジョン・エントウィッスル考案のレッド・ツェッペリン」に対してなされたものであると言う指摘もある)、次にテリー・リードを起用しようとしたものの加入は叶わず、リードの推薦で元バンド・オブ・ジョイのロバート・プラントをボーカリストに決定。ドラマーはプラントの強い勧めによりジョン・ボーナムが加入した。ベーシストにはセッション・ミュージシャンとして親交があり、技量も折り紙つきであったジョン・ポール・ジョーンズが決まった。レッド・ツェッペリンの誕生である。

グループ名の由来や、その他のツェッペリンの活動については、レッド・ツェッペリンの項参照。
1971、72年に来日公演を果たしており、71年の広島公演に際してメンバーは平和記念資料館を訪れ、ペイジは「二度と戦争は起こしてはいけない」と涙ながらに語っている。同公演(9月27日)は100%慈善公演で、メンバー4人は広島市役所を訪問し、当時の山田市長に被爆者援護資金として当時の金額で約700万円寄贈の目録を手渡している。[1] 席上ペイジは「原爆を落としたのは誰が悪いというのではなく、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実は申し訳ないと思います。そこで少しでも苦しんでいる人達のために自分達が力になれたらと思いました。」とのコメントを発し、 同市長からはツェッペリンのメンバー達に感謝状と、記念として名誉市民章のメダルが授与された。

レッド・ツェッペリンは1980年、ジョン・ボーナムの死去により活動を停止した。

レッド・ツェッペリン解散以降

2008年のジミー・ペイジ
ツェッペリン後のペイジのソロ活動は、映画『ロサンゼルス』(Death Wish 2)のサントラから始まる。

スモール・フェイセスのベーシストであったロニー・レインの呼びかけに応じる形で、1982年から1983年にかけて数回行われたA.R.M.S.(チャリティー)コンサートにおいて、レッド・ツェッペリン解散後、はじめてソロでステージに登場することとなった。同コンサートにはペイジと並んでエリック・クラプトンやジェフ・ベックも参加した。 公式映像に収められているペイジのステージはスティーヴ・ウィンウッドをボーカリストとして起用した前述のペイジのサントラから数曲と「天国への階段」を演奏する場面のみであったが、続けてヴォーカルをポール・ロジャース(元フリー、元バッド・カンパニー)にバトンタッチし、オリジナル曲である「ミッドナイト・ムーンライト」を演奏した。これがそのままザ・ファームの結成へとつながる伏線となる。 レッド・ツェッペリンの曲からは唯一演奏された「天国への階段」は、ボーカル抜きのインストルメンタル・ナンバーとしてであった。

1984年には、元レッド・ツェッペリンのメンバーであった、ロバート・プラントや、ジェフ・ベックらとハニー・ドリッパーズ名義でミニ・アルバムをリリース。その後この二名は、後述のとおり度々共演することとなる。

1985年にはロイ・ハーパーのアルバムに参加し、ツアーにも同行する。また同年「両者のソロアルバムを除く、『レッド・ツェッペリン』と、『フリー』『バッド・カンパニー』などの過去のキャリアの楽曲は演奏しない」という暗黙の了解の下、ザ・ファームを結成し2枚のアルバムとライブツアーを行って解散(アルバムが2枚発売されたのは、「ヒット曲が出るなど、評判がよかったから」とするペイジ側の発言、「当初から2枚ほどアルバムをリリースし、その後ライブも行う予定であった」とするロジャース側の発言とが食い違っている)。

1985年のライヴエイドでは、ツェッペリン解散後初めてロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズの3人が合流し、「レッド・ツェッペリン」名義で20分ほどのステージ・パフォーマンスを行う。曲目は「ロックン・ロール」「胸いっぱいの愛を」「天国への階段」であったが、当時の日本でのテレビ生中継では「胸いっぱいの愛を」だけが放送されなかった。しかし非難の電話が殺到したため翌日全曲放送された(ドラマーは、シック、パワー・ステーションのトニー・トンプソンと、当時プラントのソロアルバムでプロデュースや一部ドラムを担当したフィル・コリンズの2名であった)。

1986年にローリング・ストーンズのアルバム『ダーティ・ワーク』のオープニング曲「ワン・ヒット」のレコーディングに参加。ストリング・ベンダーを多用したリードギターを演奏している。

その後、1988年にはペイジがゲスト参加したロバート・プラントのアルバム『ナウ・アンド・ゼン』がリリースされた。同年にはプラントがゲスト参加したペイジのソロ・アルバム『アウトライダー』もリリースされて、ペイジはソロ・ツアーも行っている。また、1988年5月、ドラマーにジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムを迎えて「アトランティック・レコード40周年コンサート」にレッド・ツェッペリン名義で出演し、1990年にはジェイソン・ボーナム自身の結婚式(プライベートのライブ)でもの再結成が行われた[3]。更に、1995年のロックの殿堂入りスペシャルライブとしてエアロスミスのボーカリストであるスティーヴン・タイラーと、ギタリストのジョー・ペリー、そして、ニール・ヤングも加えての再結成ライブと、最低4回以上は、レッド・ツェッペリン名義の再結成ライブが行われている。

1993年には元ディープ・パープルのボーカルデイヴィッド・カヴァデールと、カヴァーデイル・ペイジを結成し、1枚のアルバムと日本ツアーだけで解散する(カヴァデールはツアーを続けることを望んだが、ペイジ側から次段落の理由によってキャンセルされた)。

一方、ソロ活動中心であったロバート・プラントは、そういったペイジの行動に煽られ、刺激を受ける形でペイジと合流し、ペイジ・プラントを結成。2枚のフルアルバムや数枚のシングルをリリースし、数回ツアーを行い、現在は中断状態。 ステージ演奏曲目は結成当初の思惑や発言とは異なり、「天国への階段」を除くレッド・ツェッペリン時代の曲目のオン・パレードとなってしまった(それまでにも、この二人はステージなどで共演していて、1990年に行われたロバートのソロバンドのステージへのペイジ参加の様子は、コンピレーション形式のオフィシャルのビデオ映像やCDとなって発売されていた)。

2000年以降には、ブラック・クロウズのステージに参加し、そのセッションではレッド・ツェッペリン時代の曲を中心に演奏し、ライブ・アルバムもリリースした。ツェッペリンとして1度もライブで演奏されたことがない「カスタード・パイ」などが収録されている。その他、チャリティーコンサートも盛んに行っている。

2008年8月24日に行われた北京オリンピックの閉会式に出席し、ボーカルを務めたレオナ・ルイスと共に「胸いっぱいの愛を」を演奏。同年に製作された記録映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』ではジ・エッジ、ジャック・ホワイトと対談やジャム・セッションを行った。また同映画では史上初めて[4]自宅内部の撮影が許可され、所蔵した機材やアルバム等が公開されている。

1月8日生まれの有名人「金正恩」



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金正恩
김정은
Kim Jong-un sketch.jpg
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
第3代最高指導者
任期 2011年12月17日 –
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
初代国防委員会第一委員長
任期 2012年4月13日 –
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
第3代朝鮮人民軍最高司令官
任期 2011年12月30日 –
朝鮮労働党
初代第一書記
任期 2012年4月11日 –
朝鮮労働党
第3代中央軍事委員会委員長
任期 2012年4月11日 –
出生 1984年1月8日(30歳)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国、平安北道昌城郡・元山市・平壌市の三説あり[1]
政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党
配偶者 李雪主
署名 Kim Jong-un Signature.png
金正恩
各種表記
ハングル: 김정은
漢字: 金正恩
発音: キム・ジョンウン
日本語読み: 漢: きん せいおん
呉: こん しょうおん
ローマ字: Kim Chŏng'ŭn
英語表記: Kim Jong-un
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金 正恩(キム・ジョンウン、김정은、1984年1月8日[2][3] - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者金正日の三男で後継者。父の死により最高指導者の地位を継承した[4]。現在、朝鮮労働党第一書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会第一委員長、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党中央政治局常務委員、朝鮮人民軍最高司令官を務める[5][6]。党内序列は第1位[7]。軍事称号(階級)は朝鮮民主主義人民共和国元帥[8]。

経歴編集

幼少期
金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日の三男として生まれた。母は北朝鮮帰国事業で北朝鮮に渡った大阪出身の元在日朝鮮人であり、金正日から日本風に「あゆみ」と呼ばれていた高英姫(横田めぐみとの説[9]もある)。金正日の長男の金正男は異母兄、次男の金正哲は同母兄となる。祖父は北朝鮮の初代最高指導者である金日成。母方の祖父は日本軍協力者の高ギョンテクである[10]。済州島に出自を持つ大阪出身の在日朝鮮人の母親を持ち、幼少期から日本人の専属料理人、藤本健二が作った寿司を好んで食べ、当人自身も東京タワーに興味を持つなど日本文化に囲まれた状況で育った[11]。

1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けた[1][12][13][14][15][16][17]。国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学んだ[1]。在籍していた学校については諸説あり、リーベフェルト市の公立学校で金正恩と知り合いであったと主張する人物の情報もある[18]。1998年9月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入[1]。スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンやレマン湖の別邸で行われることもあった[19]。2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国した。留学の経験から母国語以外に英語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語[20]など数ヶ国語を話せるとする報道もある[21][22]。日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ[23]、来日経験もある[24][25][26]。日本については国力差を認識する発言を残している[27]。

帰国後
2000年以降の動向はスイス時代と共に北朝鮮政府内の秘密事項として公にはされず、現在でも指導者就任から間もないこともあり部分的にしか報道されていない。明確なのは、父と同じく北朝鮮内における最高の教育機関である金日成総合大学に在学していたことと、軍の教育機関である金日成軍事総合大学(党内の養成機関である金正日政治軍事大学とは異なる)で訓練を受けていたことである[28]。金日成総合大学では情報工学を学び、金日成軍事総合大学では砲兵指揮を専攻したとされている[29]。

北朝鮮では最高指導者の地位が金日成から金正日に世襲されたため、日本・韓国などのメディアでは高齢である金正日が自身の子息を対象にした後継者選択を想定する傾向にあり、その中で日韓のメディアにおいては後継者候補として三男である金正恩の名前も挙げられることがあった。ただし当初は長男の金正男、あるいは軍部の支持を受けていた次男の金正哲の指名が予想される傾向があり、必ずしも最有力と見なされていた訳ではなかった。しかし2009年1月15日、「金正日が金正恩を後継者として指名した」と韓国の聯合ニュースが報道するなど[30][31]、次第に金正恩後継者説が濃厚になっていった。さらに同年2月15日の聯合ニュースの報道によれば、金正日の健康が悪化した際に義弟の張成沢が金正日に金正恩を後継者にするよう働きかけたという[32]。

2009年6月2日、韓国の東亜日報は、同年5月25日の核実験後に、金正恩が後継者に選ばれたことを在外公館に通知した事実が確認されたと報じた[33]。また金正恩が「国防委員長代行[34]」という職位に就いているという複数の証言もあったが[35]、これは現在に至るまで公式には確認されていない。2010年2月17日、韓国の自由北朝鮮放送が、北朝鮮当局が全国の「ジョンウン」を名乗る人物に対し改名を命令したと報道した [36]。

後継者指名
2010年9月27日、金正日は金正恩ら6人を10月10日付けで朝鮮人民軍の大将に昇進させる朝鮮人民軍最高司令官命令を発した[37]。そして9月28日に開催された朝鮮労働党代表者会において、金正恩は党中央委員に選出され、同日に開かれた党中央委員会総会で党中央軍事委員会副委員長に選出された[38]。これらの動きにより金正日の後継者としての地位が確定したとみなされている[39]。

同年10月5日、金正恩は金正日の朝鮮人民軍第851軍部隊合同訓練視察に同行した。金正日の現地視察に金正恩が同行したことが公式に報道されたのはこれが初めてである[1]。10月8日、金正日が新設された国立演劇劇場と芸術家の住宅に現地指導に赴いた際にも同行した[1]。10月9日、平壌で開催された朝鮮労働党創建65周年慶祝中央報告大会に金正日と共に出席し、マスゲームと芸術公演「アリラン」を鑑賞した[1]。そして翌日に挙行された朝鮮労働党創建65周年慶祝閲兵式に出席し、金正日と共に軍事パレードを観閲した[40]。10月25日には訪朝した中国高位軍事代表団と金正日の会談に同席している[1]。

2011年4月29日、韓国の国家情報院は「金正恩が国家安全保衛部部長に就任した」と発表した[1]。しかし、北朝鮮の報道からは公式に伝えられておらず、確認はとれていない。

金正恩の後継指名と権力世襲について、兄・正男は「金正日自身は(世襲は)社会主義に合わないとして反対をしていたが、北朝鮮体制の安定のために必要だった(ので指名したのではないかと理解している)」という見解を『東京新聞』とのインタビューで明かしている[41]。

権力の継承
2011年12月17日、金正日が死去。12月19日、北朝鮮の公式メディアである朝鮮中央放送によって金正日の訃報が宣告された。これによって1994年から17年間に亘って続いた金正日体制は終焉を迎えた。そして金正恩はこの訃報において「卓越した領導者」と呼称され、金正日の政治的後継者である事が内外に示された[42]。以降、金正日の朝鮮人民軍最高司令官就任記念日にあたる12月24日には朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』は金正恩を「最高司令官」「将軍」と呼称し、翌日には朝鮮中央通信が「革命武力の最高指導者」と呼称[43]、また「不世出の先軍統帥者」とも呼称[44]するなど、軍事指導者であることも示された。

12月20日、錦繍山記念宮殿に安置された金正日の遺体がメディアに公開され、金正恩が涙を流しながら父の遺体の前に立つ場面が報道された[45]。12月28日、平壌市内で行われた父の国葬において、金正恩は軍・党・政府の高官を率いて金正日の霊柩車に付き従い、軍・党・政府から指導者としての支持を得ていることが強調された[46]。

12月29日、金正日中央追悼大会が挙行され、党内序列2位にして対外的な元首の役割を果たしている最高人民会議常任委員長の金永南が追悼の辞で「権力の継承問題は完全に解決した」とし、金正恩を「党・軍・人民の最高指導者」と呼称して金正恩の権力継承を公式に宣言した[47]。

12月30日、朝鮮労働党中央委員会政治局会議において、亡父の後任として朝鮮人民軍最高司令官に推戴され、同職に就任した[48][49]。

金正日の死によって空席となった朝鮮労働党の最高職である総書記と国家の最高職である国防委員長を継承すると見られていたが、金正恩は両職とも「金正日が永久に就くべき地位」であるとして就任せず、事実上廃止した。2012年4月11日に開催された第4回党代表者会において、金正恩は総書記に代わる党の最高職として新たに設置された第一書記に推戴され[50]、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長にも就任した[5]。そして、4月13日の第12期最高人民会議第5回会議において、「国防委員長」に代わって新設された「国防委員会第一委員長」に就任し[6]、金正恩は正式に党・国家・軍の三権を握る最高指導者となったのである。同年7月17日、党中央委員会などの決定により、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された[8]。

指導者として
金正恩は、最高指導者に就任して以降、軍を積極的に視察している。将校や兵と親しく話したり、抱き合ったりするなど、父の金正日の時代では有り得なかったほど積極的に軍と接近しようとしている。軍の忠誠心を得ることが狙いと指摘されている[51]。

一方、『朝鮮日報』の報道によれば、金正恩が朝鮮人民軍最高司令官に就任後、粛清された者は2桁に登るとされる。また、その中には金正恩が「髪の毛1本も残すな」と指示した結果、公開処刑の手段として、迫撃砲が用いられた事例もあったという[52]。

また、2010年11月の延坪島砲撃事件を金正恩が指揮していたことが、朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』によって明らかとなった。『労働新聞』は「金正恩領導者の非凡な知略と戦術で敵の挑発は挫折し、延坪島は火の海になった」と伝えている[51]。

権力継承後の2012年1月28日、金正恩は朝鮮労働党幹部を前に、国家による統制経済の行きづまりによる深刻な経済危機から脱却するため、資本主義的手法を取り入れた経済論議を容認する姿勢を示した[53]。

同年4月15日、平壌で金日成の生誕100周年を記念する軍事パレードが行われ、金正恩が観閲を行った。閲兵式上、金正恩は演説を行い、金正日の政策である先軍政治(軍事優先の政治)の継承と「核抑止力」の保持を強調した。演説の中で「人民生活の向上」を政治の目標とする姿勢を示したが、一方で「民族の尊厳と国の自主権がさらに貴重だ」として核ミサイルの開発を機軸とする「先軍」路線を国民生活より優先する方針を明確にした。なお、金正恩の肉声が北朝鮮内外に伝えられたのはこの演説が最初である[54][55]。父親の金正日は国民を前にほとんど演説を行わなかったが、権力継承後「遺訓統治」と称して金正日の統治スタイルに従ってきた金正恩は、演説に関しては父の例を継承しなかったことになる。金正恩の演説は祖父・金日成を意識したもので、演説の放映を視聴した人々からは「金日成と似ている」との声が上がった[56]。

4月19日、『労働新聞』は初めて金正恩の公式談話を掲載した。内容は先軍路線の継承と食糧問題の解決を訴えるものであった[57][58]。

北朝鮮の国民は、金正恩に対して、金日成、金正日よりも信頼を置いていないという。元韓国統一省次官の金錫友(キム・ソクウ)は「金主席に対する敬意と尊敬を100とすれば、金総書記は70、金第一書記は30程度」という脱北者の話を紹介している[59]。

各国の人権問題を話し合う国連総会第3委員会では「金正恩第1書記の体制でも市民への抑圧のひどさに変わりはない」と指摘し[60]、2012年12月20日の同委員会で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を採択した。同様の決議は8年連続だが、初めて無投票の全会一致(コンセンサス方式)で採択した。同委員会は「指導者が交代したにもかかわらず、人権状況が悪化した」と指摘している[61][62]。

2012年から2013年にかけて、人民武力部長、同部第一副部長、朝鮮人民軍総参謀長、人民保安部長、国家安全保衛部第一副部長等の軍上層部の解任を繰り返した。2013年8月には、妻の李雪主が過去に所属していた「銀河水管弦楽団」等の音楽家9名をポルノ映像制作容疑で公開処刑した[63]。そして、同年12月には事実上のナンバー2であった張成沢とその側近たちを処刑した[64]。張成沢処刑時点で、金正日の国葬時に霊柩車を囲んだ金正恩を除く7名の権力中枢人物のうち、張成沢、李英浩、金永春、金正覚、禹東則の5名を粛清するか更迭したことになる[65]。

泥酔状態で張成沢の処刑を命じるなど、衝動的で現実を無視した指示が多いとされ、留学先のスイスを真似て街に緑を増やすため住民の貴重な食料供給地である自宅の庭の畑に芝生を敷くように指示したり、食糧不足を解消するため米の代わりに肉を食べるように訓示したと報じられている[66]。2014年2月朝鮮中央通信の報道で、2014年3月に行われる最高人民会議の代議員選挙に向け、「第111号白頭山選挙区」で候補者として登録されたと報じた[67]。2014年3月朝鮮中央通信の報道で、北朝鮮の中央選挙委員会は10日、前日に実施された最高人民会議の代議員選挙で、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が選出されたと明らかにした。賛成率は100%という[68]。

2014年7月以降は足を引きずって歩く映像が流れた際には足負傷説や肥満・内臓疾患による歩行困難説が海外メディアに報じられている。また同年9月3日から長期間に渡って公の場に姿を見せていないために動静が分からなくなっていた。最高指導者となってから毎回参加していた最高人民会議出席(9月25日)や錦繍山太陽宮殿参拝(10月10日)でも出席・参拝が確認されてなかった。同日夜に朝鮮中央テレビが足を引きずって現地指導する同年7月の映像を流した際に、金正恩について「不自由な体なのに人民のための指導の道を炎のように歩み続ける我が元帥」と表現し、歩行困難を認める言及をしている。10月14日に北朝鮮メディアは日時は不明ながら杖を使いながら視察する記事が報道された。

なお、オランダのライデンで開かれた学術会議で、北朝鮮の元高官でもあった脱北者が証言したところによると、朝鮮労働党組織指導部こそが権力の中心であり、金正恩は父の金正日ほどには権力を掌握できておらず、象徴的な指導者に留まっているとされる。このため、権力の座を巡る闘争が起きており、張成沢の粛清も、組織指導部が中心となって行われたとされる[69]。また、金正恩が失脚した可能性があるという専門家の見方も同時期に報道された[70]。

健康問題の他に権力闘争に敗れて権力の構図から外されたという説も浮上している[71]。また、妹の金汝貞が最高指導者を代行しているとの情報も出ている[72]。

1月7日生まれの有名人「はしだのりひこ」



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はしだ のりひこ
基本情報
出生名 端田 宣彦
出生 1945年1月7日(69歳)
出身地 日本の旗 日本 京都府京都市
学歴 同志社大学神学部卒業
ジャンル フォークソング
職業 シンガーソングライター
担当楽器 歌
ギター
活動期間 1964年 -
共同作業者 ドゥーディ・ランブラーズ
ザ・フォーク・クルセダーズ
はしだのりひことシューベルツ
はしだのりひことマーガレッツ
はしだのりひことクライマックス
はしだのりひことエンドレス
はしだ のりひこ(本名:端田宣彦、1945年1月7日 - )は日本のシンガーソングライター、フォークシンガー。京都府京都市生まれ。同志社高等学校、同志社大学神学部卒業。身長163cm。

活動編集

1964年にドゥーディ・ランブラーズの一員としてデビューした後、加藤和彦に請われて1968年にザ・フォーク・クルセダーズの一員として参加する。フォーク・クルセダーズが1968年10月に解散した後、「はしだのりひことシューベルツ」や「はしだのりひことクライマックス」「はしだのりひことエンドレス」のリーダーを務め、ソロに転向。

ドゥーディ・ランブラーズ
同志社大学の学生であった藤原洪太、田平義昭、端田宣彦らによって1964年に結成された。1967年6月にクラウンレコードから「真っ赤なリボンとおさげのあの娘/戦いは一度でいい」を発表。「戦いは一度でいい」は歌詞が全編英語で作られている。

ザ・フォーク・クルセダーズ
「何のために」(作詞・北山修 作曲・端田宣彦)は、レコード未発表のはしだのオリジナル曲に、北山が新たな歌詞をつけたもの。
フォーク・クルセダーズの代表曲「帰って来たヨッパライ」ははしだのフォークル加入以前に制作された曲であるため参加していないがステージでは彼の持ち歌となっていた。
はしだのりひことシューベルツ
「シューベルツ」とはシューベルトと“Shoe Belts”(靴のひも)をひっかけたもの。メンバーは、はしだのりひこ、越智友嗣、杉田二郎、井上博。

「風」(1969年)が最大のヒット作品。この名前ではかなりの作品数を発表した。 続く「さすらい人の子守唄」で『夜のヒットスタジオ』に出演した時は、バックのイメージ映像が映されないという放送事故が起きた。

ベースの井上博の死去により解散。

はしだのりひことマーガレッツ
少女たちを従えたマーガレッツを結成し、中津川フォークジャンボリーで演奏。テレビにも出演したが、レコードの発表には至っていない。

はしだのりひことクライマックス
メンバーは、はしだのりひこ、藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟。

1971年に「花嫁」(作詞・北山修 作曲・端田宣彦 坂庭省悟 編曲・青木望)/B面「この道」(作詞・北山修 作曲・端田宣彦 編曲・青木望)が大ヒットし、この年の第22回NHK紅白歌合戦にも出演。他に2枚目のシングル「ふたりだけの旅」(作詞・北山修 作曲・端田宣彦 編曲・青木望)/B面「青空をつかまえよう」(作詞・北山修 作曲・中島陽二 編曲・青木望)がスマッシュ・ヒット。3枚目「この胸に」(作詞・安井かずみ 作曲・端田宣彦 中島陽二 編曲・青木望)/B面「忘れられないの」(作詞・北山修 作曲・中島陽二 編曲・青木望)、4枚目「沈黙」(作詞・端田省洋 作曲・端田宣彦 編曲・青木望)/B面「愛のポエム」(作詞・ドン・パック/落合恵子 作曲・中島陽二 編曲・青木望)がリリースされた。スタジオ録音アルバムは製作途中で頓挫し、ライブアルバムが1枚残されただけであった。また、シングルリリースを予定していた「戦争は知らない」や、LP用の「嫁ぐ日」などが、録音されながらも、現在まで30年以上も公式に音盤化されずに、幻となっている。制作途上で解散したことや坂庭の死去もあり公式発表はまず不可能に近い。

はしだのりひことエンドレス
メンバーは、はしだのりひこ、林竹洋子、和泉常寛、北村謙(病気のため途中脱退)。千田雄一や、水城英明が在籍した時期も有り。
「嫁ぐ日」が水平ヒットとなる。テレビ番組『凡児の娘をよろしく』(関西テレビ制作・フジテレビ系列)のテーマ曲として長く愛された。
「はしだのりひことシューベルツ」「はしだのりひことクライマックス」はメンバー四人のグループ名であり、シューベルツ、クライマックスのみでもメンバー全員のことを指したが、エンドレスは、はしだのりひこ以外のメンバーがエンドレスであることが明言されているが、エンドレス単体での活動は行っていない。
エンドレスは、「嫁ぐ日/霜の音」の他にシングル「時は魔法使い/海はきらいさ」「初恋物語/青春は涙の旅」「ひとり/明日の色は」LP『はしだのりひことエンドレスVol1』をリリースするが、大ヒット曲のないまま、解散を迎えた。
カゴメトマトケチャップのCMソング「赤いキッス」(作詞・阿久悠、作曲・小林亜星)を歌っている。
リードヴォーカルを務めた林竹洋子は解散後、広島県・山口県を拠点としてソロ歌手・ローカルタレントとして活動し、現在は柏村武昭夫人である。柏村と林竹はRCCラジオの『サテライトNo.1』で共演していた。
『サテライトNo.1』の企画で制作された林竹のソロシングル「青春ジェネレーション」(作詞・石川良)/B面「生きているのに」(作詞・永六輔)では両曲の作曲をはしだのりひこ、編曲を和泉常寛が務めた(発売:東芝EMI)。
その後
ソロ活動を開始。フォークルファミリーとは長らく没交渉に近いが、2001年にドリーミュージックから出したミニアルバムのライナーノーツには北山修が寄稿している。

並行して妻の看病に専念したとされる時期もあったことから「主夫」としての活動が話題になったこともあり、現在ではその方面での法人団体にも関与している。主夫としての体験記を雑誌に連載し、これが後に『おとうさんゴハンまーだ』という本にまとめられ、『風のアルペジオ』の題で映画化された。娘は舞台女優の端田新菜。

1月6日生まれの有名人「大場久美子」



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大場 久美子(おおば くみこ、1960年1月6日 - )は、日本の女優、歌手、心理カウンセラー。埼玉県川口市[1]出身。三人兄妹の長女(兄一人、弟一人)。オフィスキコ所属[2]。

人物編集

公称サイズ:身長153cm・バスト80cm・ウエスト58cm・ヒップ83cm・靴サイズ23cm。
学歴:鳩ヶ谷市立中居小学校、鳩ヶ谷市立八幡木中学校[3]を卒業し、その後東京成徳短期大学附属高等学校商業科入学(芸能界本格的デビューの為、転校) → 堀越高等学校卒業。
アイドル時代から、自身のことを『クーミン』と呼んでおり、愛称となっている。
趣味・特技:料理、日本舞踊、ダンス、洋裁(30年以上も続けている)、バトントワリング[4]など、結構多い。
好きな色:ピンク
アイドル時代から矢沢永吉の追っかけをやっていて、大人になって矢沢永吉の自宅の近所に家を建てたが、すぐに矢沢永吉が引っ越したという[5]。 
1999年から、母の死が引き金となり約8年間、パニック障害を煩っていたことを、2008年1月18日に放送された『独占!金曜日の告白』(フジテレビ)にて初めて公に告白した。その後、重い病気や障害で煩っている人達が新たに彼女のファンになったり、又、他のテレビ番組のインタビューでそれが放送されると、放送後、彼女の公式ブログ「大場久美子のエトセトラ」(下記の外部リンクの項を参照のこと)では、重い病気や障害を煩っている人達の書き込みが非常に多くなるという現象が起きている。
前記のパニック障害を克服したことを契機に、認知行動療法を学び、2009年10月、日本推進カウンセラー協会の心理カウンセラーの資格を取得。翌年半ば過ぎ頃から、心理カウンセラーとしての活動も本格的に開始する。
1995年頃から、カンボジアの教育支援や医療支援などを中心に行っているNGO団体・「公益社団法人セカンドハンド」の活動に協力し、2008年より同団体の広報大使を務めている。
2003年から2007年頃まで、旧鳩ヶ谷市の親善大使を務めていた(旧鳩ヶ谷市役所・広報課)。
2009年に開催された第2回「おもいがわ映画祭」にゲスト出演[6]したことを機に、栃木県小山市より「小山評定ふるさと大使」を委嘱されている[7]。
2011年に発生した東日本大震災を機に、震災で被災したペットの救助・保護を中心に行っているNPO団体・「一般社団法人UKC JAPAN」の活動に協力している。
略歴編集

1960年1月6日 埼玉県川口市に生まれる。
1970年 友人の応募で東京宝映テレビのオーディションに合格。同社が主宰する劇団・「劇団フジ」に入り、児童タレントとして活動。
1974年 日本テレビ系列のテレビ番組「愛の山河」に出演。テレビデビューを果たす。
1975年 NETテレビ(現・テレビ朝日)「あなたをスターに!」で特別賞を受賞したのをきっかけに、芸能プロダクション「ボンド企画」にスカウトされ、芸能活動を開始。(この時は、堀越高校在学中だった。)
1977年6月5日 東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)より『あこがれ』で歌手デビュー。「一億人の妹」というキャッチフレーズの下[8]、その後立て続けにシングル曲を生み出した。
1978年 同年6月12日から翌年9月24日まで約1年3ヶ月間放送されたTBS系のテレビ番組「コメットさん」(第2期、全68話)のヒロインを務め、全国的にその名が知れ渡り、ブロマイドが爆発的に売れ、一躍トップアイドルになる。
1979年3月5日 7枚目のシングル「スプリング・サンバ」発売(オリコン最高位44位、シングル売上3万枚)。これが最大のヒット曲となり、彼女の代表曲となる。
1979年10月19日 「さよならコンサート」を日本武道館で開催[9]。「私は女優の世界にお嫁に行きます」との言葉を残し、歌手としての活動を一旦終了した。記者会見の際になぜ歌手業をやめるのかとたずねられた際に「私は音痴だから。」と自ら発言し物議を醸した。ただし、後のインタビューでは「歌手活動は最初から数年(2年程度)で止めるつもりだった」とも述べている。
1984年7月25日 10枚目のシングル「悲しみ貯金箱」発売。明確な表明をしないまま、なし崩し的に歌手活動を再開した。
1984年 同年発売の写真集『大場久美子』でヌードを披露した。
1987年 実家がもらい火で全焼する。
1990年 サイドビジネスで京都府でレストランの経営を始めるが、経営不振で2年後に閉店する。
1992年 当時の所属事務所ボンド企画が倒産。これを受けて、翌年、個人事務所「オフィス大場」を設立。彼女の母親である大場タカ子が事務所のマネージャー等を務めて、母親と二人三脚で活躍する[10]。
1994年4月12日 サイドビジネスで経営していたレストランの負債の残金1億400万円を返せないことから、同日、自己破産申告が認められた[11]。
1999年6月18日 母のタカ子死去。 
2000年2月1日 6歳年下のダンサー兼振付師の高橋てつやと結婚[12]。
2000年 林寛子、あべ静江、沢田亜矢子と共に自称“熟女ユニット”『女盛りゲザデレタ』を結成。同年6月21日、シングルCD「Animal Blood」をリリースした。
2005年12月25日 高橋てつやと離婚。理由は多忙によるすれ違い生活や、当時彼女が患っていた「パニック障害」の影響等である[13]。
2008年1月18日 この日に放送されたフジテレビ「独占!金曜日の告白」にて、8年間パニック障害に悩まされていたことを、初めて公に告白。放送後、大反響を呼んだ。
2008年2月23日 「KUMIKO OHBA 35th Anniversary Live」を東京で開催。ライブ中、単独コンサートとしては30年ぶりに「コメットさん」の衣装を披露する。
2009年10月 認知行動療法を学び、日本推進カウンセラー協会の心理カウンセラーの資格を取得する[14]。
2011年5月19日 10歳年下の会社員の男性と再婚したことをブログにて公表。
2012年4月4日 活動に協力している「一般社団法人UKC JAPAN」のために、28年ぶりに11枚目のシングル「ボクの命〜20キロ圏内のペット達の想い〜」を配信限定で発売。
2014年7月8日 林寛子とコンビを組み、アマ名義で「キングオブコント2014」(第7回大会)に参加を表明。『○1○2』(マルイチマルニ)というコンビ名で出場したが、2回戦で敗退となる。

1月5日生まれの有名人「宮崎駿」



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宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年〈昭和16年〉1月5日 - )は、日本の映画監督、アニメーター、漫画家。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館館主。愛煙家。

概要編集

東京府東京市出身(出生地は現在の墨田区、文京区という説もある)。学習院大学政経学部卒。埼玉県所沢市在住。東京都小金井市、三鷹市名誉市民。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は株式会社二馬力で、主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていた。

来歴編集

生い立ち
宮崎駿は、一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた[2]。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。

幼少時は身体が弱かった[3]ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[4]、アニメーションにも関心を持つようになる。

学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが[5]、漫画かアニメーションかを悩んだ末、アニメーションの世界へ進む事を決断する[6]。

アニメ会社への入社
学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社[7]、入社後、動画などを手がける。

その後、しばらくは東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[8]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。たちまち才能を現してメインスタッフとなると共に、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。激しい組合活動を行いながら高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。

1971年、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社、新企画「長靴下のピッピ」を制作するためにAプロダクションに移籍したが、版権の問題で立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ、『ルパン三世』を途中から演出の仕事を引き受けることになった。大きく視聴率は回復しなかったものの、宮崎は高畑・大塚とともにその後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくはルパンの項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。

高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。主要スタッフとして1年半番組を引っ張った。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。

未来少年コナンからナウシカまで
1978年、『未来少年コナン』(NHK)で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナル・スケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテr・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした[9]。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後にアニメーターやアニメ演出家となった者はかなり多い(未来少年コナン#本作の影響を参照)。

その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた[10][11] [12]。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。

テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に諮った。が、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる[13]。さらに自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[14]、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[15]。

スタジオジブリ発足から長編監督引退まで
その後は1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを創立した。ほぼ2-4年おきに長編作品を製作している。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。

ジブリ作品が興行的に成功し、また宮崎駿が国民的映像作家としての地位を確立したのは、1989年の邦画興行成績1位を獲得した『魔女の宅急便』以降である。宮崎本人は「カリオストロ」、「ナウシカ」、「ラピュタ」、「トトロ」という元からやりたかったものを全て作り終えてしまったこともありやる気ではなかったが、鈴木プロデューサーが当時にスポンサーとしてクロネコヤマトのヤマト運輸を起用して、作らざるを得ない状況を作った。この大ヒットにより宮崎はジブリの労働環境を整えるため社員化を決定。後にこの段階で解散するのも一つの手だったと振り返っている。また、宮崎作品は今でこそ国際的にも高い評価を受けているが、欧米では1996年に徳間書店とディズニーが業務提携するまで本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたために、欧米諸国で知られるのは遅れた。それでも、日本アニメファン達は日本語版の宮崎アニメを見ることで宮崎駿の作品に接し、熱心なファン層が広がっていった。

1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、引退してシニアジブリを立ち上げると発言し、実際に二馬力を立ち上げているが、翌年に引退宣言は撤回した。

2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞 を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。

2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。

2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネツィア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[16]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[17][18]。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した[19]。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという[20]。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化勲章に次ぐ栄誉である文化功労者に選ばれた。

2013年に、自身の『同名漫画』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表[21]。

上記の通り何度かの引退宣言と現役復帰を繰り返しているが、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは2003年のインタビューにおいて「毎回、全身全霊を打ち込むから、そうなってしまうのですよ」「本人には、だます気などさらさらない」と説明している[22]。

同年、戦国時代を舞台にした漫画を執筆中と報じられた。『月刊モデルグラフィックス』誌上で連載予定だが時期は未定[23]。

2014年、三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた[24]。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる[25]。モーリン・オハラに会えたことに感動した[26]。

同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。
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