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2015年02月

2月24日生まれの有名人「スティーブジョブス」



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スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。アップル社の共同設立者の一人。アメリカ国家技術賞を受賞している。

ファミリーネームを「ジョブス」と表記することもあるが、アップルジャパンの公式ウェブサイトでは「ジョブズ」と表記している。

略歴編集

1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして、1985年にアップルから追放された。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション(NeXTcubeとNeXTstation)とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、暫定CEOとなる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。


WWDC07でのスティーブ・ジョブズ
2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

暫定CEOに就任して以来、基本給与として、年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[1](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」とも呼ばれた。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。

2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した[2]。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止[3]と報道している[4]。56歳没。

2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[5]。

2月23日生まれの有名人「皇太子徳仁親王」



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皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年(昭和35年)2月23日 - )は、日本の皇族。今上天皇の第一皇子。母は皇后美智子。御称号は浩宮(ひろのみや)。身位は皇太子、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。お印は梓(あずさ)。勲等は大勲位。学位は人文科学修士(学習院大学・1988年)。その他、名誉学位・称号として名誉法学博士(ケンブリッジ大学)などがある。皇位継承順位第1位。

住居は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある東宮御所。

人物編集

1989年(昭和64年)に父・明仁親王の皇位継承に伴い皇太子となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。

1993年(平成5年)に小和田雅子と結婚の儀を挙げ、2001年(平成13年)に長女・敬宮愛子内親王をもうけた。

2005年(平成17年)に愛知県で開催された日本国際博覧会(愛知万博、通称「愛・地球博」)では、名誉総裁を務めた。

2007年(平成19年)より国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。英語での講演を、スペイン、トルコ、アメリカなどで開かれたフォーラムおよびシンポジウムで行っている[1]。

1987年(昭和62年)より現在まで、20回、天皇陛下の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為を臨時代行している。

男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通史・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[2][3]。

2月20日生まれの有名人「アントニオ猪木」



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アントニオ 猪木(アントニオ いのき、英: Antonio Inoki, 1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー、実業家、政治家。日本を元気にする会所属の参議院議員(2期)、日本を元気にする会最高顧問。本名:旧リングネーム:猪木 寛至(いのき かんじ)。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂[3]」(当初は「燃ゆる闘魂」)。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン」[4]。

プロレスラー現役時代は新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。

プロフィール編集

生い立ち
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている[5]。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り[6]、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。作業のたびに手の皮が剥けて血まみれになったが、1年半の契約があり逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。1日の作業が終わり、住居として与えられた電気も通っていない小屋に戻り、着替えるためにTシャツを脱ぐと染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。

幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていた程であったが、ブラジル移住後は陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する[7]。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

プロレスラーとして
プロレスデビュー
1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し日本プロレスに入団。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている[要出典]。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという[8]。

ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(敗戦)。この時は本名・猪木寛至で試合を行った[要出典]。

なお、「アントニオ猪木」というリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的である[9]が、単に「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するため洋風な名前にされたという説もある[要出典][10]。

南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。そのため、当時の猪木は片言の日本語でインタビューに答えたり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた[要出典]。横浜在住時の猪木の幼馴染がその記事を見て日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろう?」と質問したが、猪木は一貫して否定した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後であった[11]。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。

1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。アメリカ各地をサーキットし、2年後に帰国。なおこの遠征中にアメリカ人女性と同棲し、子供をもうけたが幼くして病死した[要出典]。

東京プロレス
かつて日本プロレス社長であった豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、猪木をエースとする東京プロレスを豊登とともに旗揚げする。ジョニー・バレンタインとの一戦で名声を得る。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる[12]。

日本プロレス復帰
日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。NET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、UNヘビー級王座を獲得した。また、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決は当時タブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど、日本プロレスとの度重なる確執から1971年(昭和46年)に追放処分を受ける(詳しくは密告事件を参照)。同年11月、女優の倍賞美津子と結婚した(16年後の1987年(昭和62年)に離婚)[要出典]。

新日本プロレス設立
日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

異種格闘技戦
新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、格闘技の英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した[要出典]。アミンは猪木戦を承諾したが、その後アミンがクーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。

猪木監禁事件
1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。

同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。この事件は当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった[要出典]。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。

IWGP立ち上げと世代交代
1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。

この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。

1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。2時間5分14秒の闘いの末、勝利した[要出典]。

1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった[13]。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。

1989年(平成元年)2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした[要出典]。

引退
1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。

1995年(平成7年)12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。

1996年(平成8年)11月3日には以前自身が平壌での対戦を熱望したジョージ・フォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたマイナー団体のプロボクシング世界戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。

1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った[14]。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

引退後
引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEなど、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。

2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦[15]。国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。

2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。

2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。

2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜[16]」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。

2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。

2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。

2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。

2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである[17]。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。

猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた[18]。

2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。

2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。

2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。

2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される[19]。

2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた[20]。

政治家として
政界進出、参議院議員
「スポーツ平和党」を参照
1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる[21](キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい“逆十字固め”」、「国会の場でも俺にしかできないことをやる」と宣言した[要出典]。

なお、当時参議院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。

1989年(平成元年)10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。この時の猪木はマスコミのインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。10月25日、統一会派を組んだ民社党の配慮により、頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立った[要出典]。

湾岸戦争で邦人人質解放
1990年(平成2年)8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にする。

政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。

不測の事態が発生した際の問題等、この行動には賛否両論あった[要出典]。しかし、猪木のこの行動によって結果的に多数の人質が救い出されたことは事実である[要出典]。

これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得[22](参議院会派で2議席目)した。

落選
1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子[23]およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼(日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題(カンボジアで13歳の少女買春)」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。新間にそそのかされたTBSは、新間の記者会見を急遽生中継した[要出典]。

このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に政治資金規正法違反については東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報[要出典]に記載)。

これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。また東京佐川急便事件との関係も報じられた[要出典]。

一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが[24]、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

なお、スポーツ平和党は2004年4月を以て解散した。

参議院選挙への再出馬、国政復帰
2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた[25]。

同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し[26]、18年ぶりの国政復帰を果たした。

2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された[1]。

訪朝
2013年7月25日から北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席[27][28]。平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した[29]。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた[30]。

その後、北朝鮮のスポーツ教化委員長であった張成沢の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の参議院議院運営委員会理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定[31]。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討[32]。11月13日の参議院本会議で懲罰動議が可決され懲罰委員会に付託して処分の是非や内容を審査することとなった[33]。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された[34][35]。また、維新から党としての処分として、党員資格と党副幹事長職それぞれ50日間停止を言い渡された。

猪木を招待した張成沢は12月8日粛清され、公職追放された。そして12月12日死刑判決を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。また、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた[36]。

2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮に訪問した[37][38]。猪木の訪朝はこれで27回目となる[39]。

2014年4月には同じ維新の会の松浪健太、石関貴史、阪口直人(衆)、清水貴之(参)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可した[40]ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い[41]、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した[42][43]。同年6月、第186回国会の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して菅義偉官房長官は7月7日の定例記者会見で、政府が北朝鮮への経済制裁を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明[44]、7月9日、猪木と上記の4議員にみんなの党の山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った[45][46][47]。

次世代の党への参加と離党
2014年8月の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加[48]。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。しかし、2014年12月12日に離党届を提出した[49]。

日本を元気にする会への参加
2015年1月8日に政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。2015年1月21日にノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイ氏とイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した[50][51]。

2月19日生まれの有名人「コペルニクス」



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ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。

コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。

1965年より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。

コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。ナチス時代にはドイツ人かポーランド人かで論争がおこなわれたが、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。ポーランド・リトアニア共和国は単一民族による国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。

彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik) 」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。父方の一族のコペルニク家はポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) の出身。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。

10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ (Barbara Watzenrode) は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ (Lucas Watzenrode) が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はポーランド王領プロイセンのフロムボルク(ドイツ語: フラウエンブルク Frauenburg)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。

1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。卒業後、叔父の計らいで聖堂の職につき生活の保障を得、4年と少しの間トルンにいたあと、1496年から1503年にかけて留学し、イタリアのボローニャ大学やパドヴァ大学で法律(ローマ法)について学び博士号を取得した。教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。

やがてノヴァーラの影響により本格的に地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーにより発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある[1])。

1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った[2]。多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。一方で1535年、「地球の動き方」に関するコペルニクスの重要な論文の出版に向けてはヴァポフスキは力を貸し、出版を請け負っていたウィーンの関係者へ手紙を書いて出版の催促をするなどしている。ヴァポフスキはこの手紙を出した2週間後に他界したため、論文の出版を見届けることはなかった。


コペルニクスの遺物
オルシュティンの聖ヤコブ大聖堂
自己の地動説の発表による影響を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の販売を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は死去時に本が出版され、完成した書物を見ることなく逝ったと言われている)。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。

この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、他の場所で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。

2月18日生まれの有名人「上杉謙信」



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上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。

上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名の長尾景虎(ながお かげとら)でもよく知られている。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られるとともに「政」の1字を与えられて上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、それまで上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領職をも引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。

生涯編集

出生から初陣まで

春日山城
享禄3年(1530年)1月21日[1]、越後守護代・長尾為景[1](三条長尾家)の四男(または次男、3男とも[1])虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。幼名の虎千代は寅年生まれのために名づけられた[1][2]。主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿の弟」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。


林泉寺
天文5年(1536年)8月に為景は隠居し[3]、虎千代の兄・晴景が家督を継いだ[4]。虎千代は城下の林泉寺に入門し[4]、住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父に疎んじられていたため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。

母親の虎御前は厚い信仰心を持っていたため、虎千代もその影響を受けて信仰に興味を示した。師匠の天室光育からは教養や兵学を学び、虎千代は特に兵学に興味を示した。虎千代は2メートル四方もある城のジオラマを用いて城攻めのシミュレーションを行なう事が大好きで、兵の駒を動かしたり大砲や道具を用いたりと熱中した。このため寺での修行を次第に疎かにするようになり、遂には天室光育から「虎千代殿に坊主は無理です」とまで苦情を言われて寺から帰されてしまった。ただしこの時のゲームが後に用兵術を身に付ける素地になった[5]。

天文11年(1542年)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代達は甲冑を着けて葬儀に臨むほどであった[5]。兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。虎千代は天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る[6]。その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。

当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。謀反を鎮圧することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。

家督相続・越後統一

上杉神社内にある上杉謙信像

上杉謙信の書状
天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。しかし翌年の天文15年(1546年)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて猛攻を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。

天文17年(1548年)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼であった。さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが協調し、景虎派を形成した。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。しかし同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる[4]。

2年後の天文19年(1550年)には、定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こした。不満の原因は景虎が越後国主となったことで、晴景を推していた政景の立場が苦しくなったこと。そして長年に渡り上田長尾家と対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が増してきたことであった。しかし景虎は翌年天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、これを鎮圧した(坂戸城の戦い)。降伏した政景は景虎の姉・仙桃院の夫であったこと等から助命され、以降は景虎の重臣として重きをなす。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのである。

一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担した。その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。

第一次~第三次川中島の戦い
詳細は「川中島の戦い」を参照

川中島一帯
天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される[注 3]。 同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。

天文22年(1553年)9月、初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁している。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九(てつしゅうそうく)のもとに参禅して受戒し「宗心」の戒名を授けられた。


上杉謙信公の銅像(新潟県上越市・春日山城跡)
天文23年(1554年)、家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)が武田と通じて謀反を起こしたが、天文24年(1555年)には自らが出陣して高広の居城・北条城を包囲し、これを鎮圧した(北条城の戦い)。高広は帰参を許される。この間、晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方につけ旭山城を支配下に置いた。これに対抗するため景虎は同年4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。また、裾花川を挟んで旭山城と相対する葛山城を築いて付城とし、旭山城の武田軍を牽制させた。景虎は、犀川の渡河を試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合いに終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。武田方の旭山城を破却し武田が奪った川中島の所領をもとの領主に返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎は和睦を受け入れ軍を引き上げた。

ところが弘治2年(1556年)3月、景虎は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家・隠居することを宣言し、同年6月には天室光育に遺書を託し(「歴代古案」)、春日山城をあとに高野山[注 4]に向かう[7]。しかしその間、晴信に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。天室光育、長尾政景らの説得で出家を断念した景虎は越後国へ帰国。一端越中へ退き再び越後へ侵入しようとした朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。

弘治3年(1557年)2月、晴信は盟約を反故にして長尾方の葛山城を攻略、さらに信越国境付近まで進軍し、景虎方の信濃豪族・高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。景虎は政頼から救援要請を受けるも、信越国境が積雪で閉ざされていたため出兵が遅れる。雪解けの4月、晴信の盟約違反に激怒した景虎は再び川中島に出陣する(第三次川中島の戦い)。高井郡山田城、福島城を攻め落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、景虎は武田領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍する。しかし景虎の強さを知る晴信は、深志城から先へは進まず決戦を避けた。7月、武田軍の別働隊が長尾方の安雲郡小谷城を攻略。一方の長尾軍は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、高井郡野沢城・尼巌城(あまかざりじょう)を攻撃する。その後8月、両軍は髻山城(もとどりやまじょう)近くの水内郡上野原で交戦するも、決定的な戦いではなかった。さらに越中国で一向一揆が起きたため、[要出典]景虎は軍を引き上げた。

弘治4年(1558年)、将軍・義輝から上洛要請があり、翌年上洛することを伝える。また『宇都宮興廃記』によれば同年、上野国経由で下野国に侵攻し、小山氏の祇園城と壬生氏の壬生城を攻略、さらに宇都宮氏の宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻めるが、多功城主の多功長朝によって先陣の佐野豊綱が討ち取られると軍が混乱したために景虎は軍を引き上げた。多功長朝率いる宇都宮勢は上野国の白井城まで景虎を追撃してきたが、武蔵国岩槻城主の太田氏の仲介によって和睦をしている。その翌年の永禄2年(1559年)3月、高梨政頼の本城・中野城が武田方の高坂昌信の攻撃により落城。景虎が信濃国へ出兵できない時期を見計って、晴信は徐々に善光寺平を支配下に入れていった。

小田原城の戦い

現在の小田原城

松山城本丸跡
永禄2年(1559年)5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。室町幕府の記録の後鑑(江戸末期に江戸幕府が編纂したモノ)には、関東管領記、関東兵乱記(相州兵乱記)、春日山日記(上杉軍記)を出典として掲載されている。 また、内裏修理の資金を献上したともいうが、朝廷の記録である御湯殿上日記には、永禄3年6月18日に、越後の長尾(景虎)が内裡修理の任を請う、という記述があるだけで、年次や記述内容に違いがある。 言継卿記には、永禄2年5月24日、越後国名河(長尾)上洛云々、武家御相判御免、1,500人。という記述であり、上杉家譜などの兵5,000という記述と異なる。

景虎と義輝との関係は親密なものであったが、義輝が幕府の重臣である大舘晴光を派遣して長尾・武田・北条の三者の和睦を斡旋し三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した際には、三者の考え方の溝は大きく実現しなかった。

永禄3年(1560年)3月、越中の椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。

5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。上野国に入った景虎は、小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。

景虎は、年が明けると軍を率いて上野国から武蔵国へ進撃。深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻、2月には鎌倉を落とした。氏康は、押し寄せる大軍の総大将が武略に優れる景虎であるため、野戦は不利と判断。相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ退却し、篭城策をとる。永禄4年(1561年)3月、景虎は関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、籠城する氏康を窮地に追い込む。

また小田原へ向かう途上には、関東公方の在所で当時は関東の中心と目されていた古河御所を制圧し、北条氏に擁された足利義氏を放逐のうえ足利藤氏を替りに古河御所内に迎え入れた。

小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が関東で氏康と戦っている間に、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。こうした情勢の中、長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いた。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させる(松山城の戦い)。松山城には城将として上杉憲勝を残し、厩橋城には城代に義弟・長尾謙忠をおいて帰国した。

関東管領就任
この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めた。もともと上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。異姓にして家臣筋の長尾景虎が上杉氏の名跡を継承するに至った背景には、かねてから上杉家に養子を招くことを望んでいた上杉憲政が、上杉家から養子を出したことのある佐竹家からの養子を断られ、苦悩の末に越後の実力者である長尾景虎に継がせたという経緯がある[要出典]。関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ちを務めた。

ただし、『藩翰譜』によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。『応仁武鑑』や『萩原家譜案』にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為或いは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。

第四次川中島の戦いと北条の反撃

第四次川中島の戦い

上杉謙信(右)・武田信玄(左)一騎討像
このころ武田勢は北信へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁・山本勘助・両角虎定・初鹿野源五郎・三枝守直ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えたという。

第四次川中島を機に北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、永禄後年には武田・上杉間をはじめ東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。

同年11月に武田氏は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始し、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させた。

その後、古河御所付近から一時撤退する(近衛氏書状)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる(唐沢山城の戦い)。12月、将軍義輝の一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。

北条・武田との戦い
関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。永禄4年、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた箕輪城主・長野業正が病死したため、この機を逃さず信玄は上野国へ攻勢をかける。同時に北条氏康が反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばす。これに対し関東の諸将は、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす氏康に対し、輝虎は安房国の里見義堯・義弘父子と同盟を結ぶことで対抗する。

関東出兵

館林城本丸跡
永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。この後7月には越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、長職を降伏させた。

ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万を超える大軍となった北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は深い雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、わずかに間に合わず松山城は落城。

しかし輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰をも降伏させた。次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を次々に攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年。永禄7年(1564年)1月、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、28日に山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した[8]。

同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した(唐沢山城の戦い)。

第五次川中島の戦い
永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。

これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏・高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。

関東の上杉方諸将の離反

臼井城本丸空堀
永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。

6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を率いて武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。さらに5月には、将軍・足利義輝が三好義継・松永久秀の謀反により世を去った(永禄の変)

永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、積極的に攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで奥深く侵出。北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。だが城自体は陥落寸前まで追い詰めたものの原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三の知謀の前に、結果的には撤退することとなった(臼井城の戦い)。

臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。しかし厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。4月、高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(但し謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)(唐沢山城の戦い)。

越中への進出
永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束し、武田氏は駿河今川領国への侵攻から三河徳川氏との対決に推移し、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切となった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍義昭・織田信長らとの関係で推移する。

永禄11年(1568年)3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)。7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かしたが、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃した。

ところが時を同じくして、5月に信玄と通じた上杉家重臣で揚北衆の本庄繁長が謀反を起こしたため、越後国への帰国を余儀なくされる。反乱を鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組む出羽尾浦城主・大宝寺義増を降伏させ、繁長を孤立させた。その上で11月に繁長の居城・本圧城に猛攻を加え、謀反を鎮圧する(本庄繁長の乱)。

このころ甲斐武田氏と駿河今川氏は関係が悪化し、同年11月月25日に今川氏真は武田氏の当敵である上杉氏に和平をもちかけ信濃への牽制を要請しているが、謙信はこれを退けている[9]

永禄12年(1569年)には蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にする。

越相同盟
永禄11年(1568年)12月、氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻していた信玄と断交、長年敵対してきた輝虎との和睦を探るようになる。信玄はさらに氏真を破り駿府城を攻略した。これにより力の均衡が崩れて氏康の居城・小田原城に危機が迫ったため、氏康はそれまで盟友であった信玄と激しく敵対する。北条氏は東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える苦しい情勢となった。

永禄12年(1569年)1月、氏康は輝虎に和を請う。これに対し輝虎は当初、この和睦に積極的でなかった。しかし度重なる関東出兵で国内の不満が高まっており、また上杉方の関宿城が北条氏照の攻撃に晒されており(第二次関宿合戦)、これを救うためにも北条氏との和議を模索し始める。3月、信玄への牽制の意図もあり北条氏との講和を受諾、宿敵ともいえる氏康と同盟する(越相同盟)。

この同盟に基づき、北条氏照は関宿城の包囲を解除、上野国の北条方の豪族は輝虎に降る。北条高広も帰参が許された。輝虎は北条氏に関東管領職を認めさせた上、上野国を確保したため、これより本格的に北陸諸国の平定を目指すことになる。しかし一方で、北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認めることにもなり、越相同盟により上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱く結果となった。長年に亘り北条氏と敵対してきた里見氏は輝虎との同盟を破棄し、信玄と同盟を結ぶなど北条氏と敵対する姿勢を崩さなかった。なお輝虎はこの年の閏5月、足利義昭の入洛を祝し、織田信長に鷹を贈っている。


松倉城内にある『松倉城主の碑』
永禄12年(1569年)8月、前年に続いて越中へ出兵し、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間に渡り攻囲(松倉城の戦い)。支城の金山城を攻め落としたものの、信玄が上野国へ侵攻したため松倉城の攻城途中で帰国し、上野国の沼田城に入城した。元亀元年(1570年)1月、下野において再び佐野昌綱が背いたため唐沢山城を攻撃するも、攻め落とすことは出来なかった。10月、氏康から支援要請を受けたため上野へ出陣し、武田軍と交戦した後、年内に帰国した。

元亀元年(1570年)4月、氏康の七男(異説あり)である北条三郎[注 5]を養子として迎えた輝虎は、三郎のことを大いに気に入って景虎という自身の初名を与えるとともに、一族衆として厚遇したという。12月には法号「不識庵謙信」を称した。

元亀2年(1571年)2月、2万8千の兵を率いて再び越中国へ出陣。椎名康胤が立て籠もる富山城をはじめ、数年に渡り謙信を苦しめた松倉城や新庄城・守山城などを攻撃した。康胤の激しい抗戦を受けるも、これらを落城させる。しかし康胤は落ち延びて越中一向一揆と手を組み、協同して謙信への抵抗を続ける。その後、幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中支配をかけた謙信と越中一向一揆の戦いは熾烈を極めることになる(越中大乱)。 11月には北条氏政から支援要請があったため関東へ出兵。佐竹義重が信玄に通じて小田氏治を攻めたため、謙信は上野総社城に出陣して氏治を援助した。なおこの年の2月、謙信と共に信玄と敵対している徳川家康は、新春を祝して謙信に太刀を贈っている。

越中一向一揆・北条との戦い
元亀2年(1571年)10月、長年関東の覇権を争った北条氏康が世を去る。元亀3年(1572年)1月、北条氏の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄、武田信玄と再び和睦したため、謙信は再び北条氏と敵対する。また上洛の途につく信玄は、謙信に背後を突かれないため調略により越中一向一揆を煽動。これにより謙信は主戦場を関東から越中国へ移すことになる。

尻垂坂の戦い
元亀3年(1572年)1月、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の付城・石倉城を攻略する。相前後して押し寄せてきた武田・北条両軍と利根川を挟み対峙した(第一次利根川の対陣)。

5月、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が日宮城・白鳥城・富山城など上杉方の諸城を攻略するなど、一向一揆の攻勢は頂点に達する。8月、謙信は越中へ出陣し、一向一揆の大軍と戦い激戦となった。謙信は新庄城に本陣を置き一揆軍の立て籠もる富山城を攻めたが、抵抗が激しく一度は兵を引く。しかし9月に双方が城を出るに至り、野戦での決戦となった。謙信は尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。その結果、苦戦の末に富山城・滝山城を陥落させ、年末にこれを制圧した。11月には大規模に動員した信玄と交戦状態に入った織田信長から、同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。

翌天正1年(1573年)3月、信玄の画策により再起した越中一向一揆が再度富山城を奪った。このため越中国から越後国への帰路についていた謙信はすかさず兵を返し、未だ抵抗を続ける椎名康胤の守る富山城を再度攻め落とす。

4月、宿敵・武田信玄が病没して武田氏の影響力が薄らぐ。8月、謙信は越中国へ出陣して増山城・守山城など諸城を攻略。さらに上洛への道を開くため加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの朝日山城を攻撃、これにより越中の過半を制圧した。一向一揆は謙信が越中から軍を引き上げる度に蜂起するため、業を煮やした謙信は、ついに越中を自国領にする方針を決める。さらに江馬氏の服属で飛騨国にも力を伸ばした。12月、足利義昭に足利家再興を依頼される。

北条氏政との戦い

金山城址
天正元年(1573年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻していた。上洛を目指す謙信の主戦場は既に関東でなく越中国であったが、後顧の憂いを無くすため天正2年(1574年)、関東に出陣して上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし成繁の居城である要害堅固な金山城を陥落させるに至らず(金山城の戦い)。さらに武蔵における上杉方最後の拠点である羽生城を救援するため4月、氏政と再び利根川を挟んで相対する(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、5月に越後国へ帰国。羽生城は閏11月に自落させた。

天正2年(1574年)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城・忍城・鉢形城・菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。このため関宿城は結局降伏することとなってしまった(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力を大きく低下していた。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。なおこの年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られる。

天正3年(1575年)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。

織田信長との戦い
天正4年(1576年)には毛利氏のもとに身を寄せていた足利義昭が反信長勢力を糾合し、同年5月頃からは義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越一和が試みられており、このころ謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、これによって信長との同盟は破綻した。前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。

甲相越一和は成立しなかったが、信長包囲網が築き上げられたのである。10月には足利義昭から信長討伐を求められており、謙信は上洛を急ぐことになる。なお、この時期、織田信長は朝廷から内大臣次に右大臣に任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に足利幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎない。

越中・能登平定
天正4年(1576年)9月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城を次々に攻め落とした。次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。

上洛を急ぐ謙信の次の狙いは、能登国の平定であった。特に能登国の拠点・七尾城を抑えることは、軍勢を越後国から京へ進める際、兵站線を確保する上で非常に重要であった。当時の七尾城主は戦国大名畠山氏の幼い当主・畠山春王丸であったが、実権は重臣の長続連・綱連父子が握っていた。城内では信長に付こうとする長父子と謙信に頼ろうとする遊佐続光が、主導権争いをしており、激しい内部対立があった。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、徹底抗戦を決した。これにより能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発する。

七尾城の戦い

七尾城址(桜馬場石垣)
天正4年(1576年)11月、謙信は能登国に進み、熊木城・穴水城・甲山城(かぶとやまじょう)・正院川尻城(しょういんかわしりじょう)・富来城(とぎじょう)など能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を囲んだ(第一次七尾城の戦い)。しかし七尾城は石動山系の北端・松尾山山上に築かれた難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった。付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年する。天正5年(1577年)、関東での北条氏政の進軍もあり春日山に一時撤退した。その間に敵軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城は次々に落とされた。関東諸将から救援要請を受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化に加え、足利義昭や毛利輝元から早期の上洛を促す密書が届く。

これに至り謙信は反転を決意し同年閏7月、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲する(第二次七尾城の戦い)。このとき城内で疫病が流行、傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分が蔓延していた。しかし守将の長続連は、織田信長の援軍に望みをつないで降伏しようとはしなかった。このため謙信は力攻めは困難とみて調略を試みる。そして9月15日、遊佐続光らが謙信と通じて反乱を起こした。信長と通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城は落城。この2日後の17日には加賀国との国境に近い能登末森城を攻略。こうして能登国は全て謙信の支配下に入った。謙信には名門畠山家の復興が思慮にあり、有力国人を廃したうえで畠山義春を能登の国主として擁立する計画であったといわれている。

また、この戦いの後、畠山義隆の息子を養子にすると書かれた謙信書状が出されており、この子は春王丸自身や実際には畠山義続の子であるともされる。また春王丸に弟がいた可能性もあり、その弟という説があるが定説にはなってはいない。

手取川の戦い
謙信が七尾城を攻めていた天正5年(1577年)、長続連の援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の派遣を決定、謙信との戦いに踏み切る。柴田勝家を総大将とする、羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら3万余の大軍は、8月に越前北ノ庄城に結集。同月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍した。しかし途中で秀吉が、総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、足並みの乱れが生じていた。9月18日、勝家率いる織田軍は手取川を渡河、水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら認知していなかった。

織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。9月23日、ようやく織田軍は七尾城の陥落を知る。さらに謙信率いる上杉軍が目と鼻の先の松任城に着陣しているとの急報が入り、形勢不利を悟った勝家は撤退を開始。それに対して謙信率いる上杉軍本隊の8千は23日夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(手取川の戦い)。なお、戦いの規模については諸説ある。

戦いの規模については「手取川の戦い」を参照
最期
天正5年(1577年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、3月13日の未の刻(午後2時)に急死した[12]。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血[12]との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した[12]。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され[12]、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかをはっきりと発表していなかったため、その死後『御館の乱』が勃発し[13]、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。

未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明(近年の研究では関東侵攻説が有力になりつつある)[要出典][注 6]。

2月17日生まれの有名人「白州次郎」



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白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。

兵庫県芦屋市出身。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。

一時は忘れられた存在であったが、1990年代中盤頃から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられることが増え、21世紀に入ってからは「日本のプリンシパル」(ここでは“有数の要人”程度の意味)と持ち上げる書籍が多く刊行されている。

プロフィール編集

生い立ち
白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]。後に兵庫県川辺郡伊丹町[2](現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。

1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学[3]サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルック(Glenbrook )を父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる[4]。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。

イギリス留学
1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学[5]、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレー・3リットルを乗り回していた。7代目ストラフォード伯爵(英語版)ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた[6]。

帰国
1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされた[7]。

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[8]。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。

この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[9]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。

疎開、徴兵回避

白洲夫妻が疎開先で住居にしていた武相荘
1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、疎開し、農業に励む日々を送った。戦争末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)に頼み込み、召集を免れた。一方で吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたようである。同年に長女・桂子がうまれる。

終戦連絡中央事務局
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[10]。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる[11]。

なお今日、武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります』との記述があり[12]、また、占領期のGHQ関連文章を保管しているバージニア州ノーフォークにある「マッカーサー・アーカイブ」において1945年12月・1946年12月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからない旨を徳本栄一郎が月刊「文藝春秋」に寄稿[13]しており、このエピソードの真偽は意見が分かれる。

憲法改正
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[14]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。

貿易庁初代長官
1948年(昭和23年)12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後白洲と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が白洲の顔を机に押さえつけ、白洲が泣いて土下座して謝った逸話も残る[15]。戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである[16]。

白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、英国留学時代の人脈をフルに活用し、主として英国企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていた。広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずである。白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが挙げられている。

1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽日本語で演説することとした[17]という。しかし白洲の回想によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[18]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルト大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[19]。1951年9月8日この原稿はオペラハウスで読み上げられたが、その様子を海外メディアは”吉田のトイレットペーパー”と報じ、朝日新聞の天声人語は「不思議な巻紙の勧進帳」と書いた。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。

実業界へ復帰
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。

死去

兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。右が次郎、左が正子の墓。
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じ、また、トヨタの新型車(ソアラ)のアドバイスなども行なっていた。三宅一生のショーにモデルとして出演もした。しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日死去した。83歳没。墓所は兵庫県三田市の心月院である。

妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

2月13日生まれの有名人「安岡正篤」



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安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。


現在の大阪市中央区旧順慶町において、父・堀田喜一、母・悦子の四男として誕生。1904年(明治37年)大阪市道仁小学校入学。四書の「大学」から素読を始める。 1910年(明治43年)大阪府四条畷中学校入学。卒業までの五年間、歩きながら書を読んで電柱にぶつかったり、牛に突き当たったりしたという伝説が生まれる。中学校では剣道部に所属。一方で、近所の春日神社神官浅見晏斎に見出され、漢詩に親しみ、さらに柳生藩大参事であった陽明学者岡村達より感化を受ける。 第一高等学校に首席で入学し[1]、東京帝国大学で上杉慎吉に師事[2]。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。

大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。

金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斎藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

その間も金鶏学院などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝や大川周明の猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。

敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。

一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰の御意見番」「首相指南役」の位置にあった他、1958年には岸信介、安倍源基、木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「体制派右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、「平成」の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。

安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。

終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。

2月10日生まれの有名人「平塚らいてう」



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平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:奥村 明(おくむら はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。

平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった[1]。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[2]。

なお、氏名表記は、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある[3]。また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると[4]、本名奥村明の「明」を用い「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。

生涯編集

出自
1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつかはる)として生まれる。生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だった。父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた。母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった。

関ヶ原の戦い(1600年)で戦死した西軍の武将平塚為広(美濃垂井1万2000石)の末裔。[5]為広が討ち取られたとされる場所には、らいてうの意向で建立された慰霊碑が現存する。

平塚明
幼少時は、1887年(明治20年)から1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育った。しかし、1892年(明治25年)に富士見尋常高等小学校(現在の千代田区立富士見小学校)に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を一夜にして捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになった[6]。

1894年(明治27年)、平塚家は本郷区駒込曙町(現在の文京区本駒込一丁目、二丁目辺り)に引越し、明は本郷区公立誠之尋常小学校(現在の文京区立誠之小学校)に転入。1898年(明治31年)に誠之小学校高等科を卒業し、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。ただし、テニス部で活躍したり、修身の授業をサボる「海賊組」を組織するなどそれなりに楽しんでいたらしい。

1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して入学。しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、その中にお茶の水時代と同じ思想を見出すと大学生活にひどく幻滅した。この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する。1905年(明治38年)には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」(現在の擇木道場)に通い始めるようになった。禅の公案修行で見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業。両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾(現在の津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)にはさらに成美女子英語学校に通うようになった。

成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。

1908年(明治41年)2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を起こす[7]。新聞はある事ない事を面白く書き立て、明の顔写真まで掲載した。明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜楓会の名簿から明の名を抹消している。その後、1992年(平成4年)に復活する(『日本女子大学学園事典』)。

らいてうの誕生
明は、塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた。この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』[8]の製作に入った。資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの。その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。

表紙は長沼智恵[9]が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」[10]という筆名を用いた。

『青鞜』創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった。なお同年9月、金子筑水が日本ではじめてエレン・ケイを紹介しており(「現実教」『太陽』)、そのケイに関心を持ったらいてうが訪ねてきた河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処でも其話が出た」と言われたという。らいてうは「そののち、ケイの思想が、わたくしの、ものの考え方や生活の上にも変化をもたらした。」と、51年後に鴎外の回想文で書いた(「鴎外夫妻と青鞜」『文芸』1962年8月)[11]。

奥村博史との出会い
『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」などと報じた(総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」[12]とまで評された[13]。

もっとも、青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」[14]などの事件を起こすと、平塚家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と編集後記に書いて社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった。すると、らいてうは『中央公論』の1913年(大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組み込むようになった。しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。

青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。同年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。

また、時期を並行して、1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記上で読者に報告し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両親に』という私信を『青鞜』誌上で発表している。独立後、奥村との家庭生活[15]と『青鞜』での活動の両立が困難になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌+αとは別の、強いて言えば「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その1年後には「日蔭茶屋事件」があり、休刊することになった。

奥村との間には2児(長男、長女)をもうけたが、らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている[16][17]。

母性保護論争
『青鞜』の編集権譲渡後は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表した。すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった。(母性保護論争)

この論争の中、1919年(大正8年)の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めている。

新婦人協会
新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された[18]。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。

しかし、1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。らいてうが去り、房枝も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴と奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文筆生活に入った。

消費組合
世界恐慌時代になると消費組合運動等にも尽力、高群逸枝らの無政府系の雑誌『婦人戦線』へ参加する。

戦後

平塚らいてう
第二次世界大戦後は、日本共産党の同伴者として活動し[19]、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1950年(昭和26年)6月、来日したアメリカのダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる。1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。1970年(昭和45年)6月にも房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。

最晩年
自伝の作に取り掛かるも、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院した。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていたものの、1971年(昭和46年)5月24日に85歳で逝去。

2月9日生まれの有名人「夏目漱石」



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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。

その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

経歴編集

幼少期
1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった[2]。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。

漱石の祖父・夏目直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[3]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。

金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残ることとなった。

当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。

その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[4]。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。

家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)[5]に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数か月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

2年後の1883年(明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[6]に入学し、頭角を現した。

1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[7]。

正岡子規との出会い

夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル)
1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。

1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ[8]、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月大学を中退する。

イギリス留学
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。

1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2か月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。


ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。

1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社からは多くの俳人が輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[9]。

1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)英国留学を命じられる。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりするが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り、1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており[10]、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという[11]。

当時の漱石最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって1984年(昭和59年)に設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。

作家への道と朝日新聞社入社
英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。

同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった[12]。 東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。

その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。

1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。

修善寺の大患
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。


夏目漱石の墓
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。

1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし『明暗』執筆途中に死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる[13]。

死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。

1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。

2月6日生まれの有名人「福山雅治」



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福山雅治(ふくやま まさはる、1969年(昭和44年)2月6日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、ラジオDJ、写真家、音楽プロデューサー など。所属事務所はアミューズ、所属レコード会社はユニバーサルミュージック。公式ファンクラブの名称は「BROS.」(海外居住者は「BROS.+」)。

来歴編集

長崎県長崎市出身。高校卒業後、地元で4か月のサラリーマン生活を経て18歳で上京[注釈 1]。アルバイト生活をしながらも1988年に「アミューズ・10ムービーズオーディション」に合格。アミューズに所属する。

1990年3月21日、シングル「追憶の雨の中」で歌手デビュー(デビュー時のキャッチフレーズは“イナカモン、バイ。”)。その後、1991年春にラジオ番組fm yokohama『ROCK AGE』でラジオDJ(ラジオパーソナリティ)デビュー。同年秋からはTBS系ドラマ『あしたがあるから』でテレビドラマデビューする。1990年代後半からは写真家としての活動も行っており、テレビ朝日の夏季オリンピックオフィシャルカメラマンを担当したこともある[注釈 2]。2006年には初の写真作品集も発売した。他にもCMやバラエティ番組、スポーツ番組、教養番組に出演するなど、幅広く活躍している。

2008年には出身地・長崎市の魅力を内外に発信する「長崎ふるさと大使」に就任。2014年には初の台湾公演に先駆けて、台湾観光局から「台湾観光親善大使」に任命された[1][2]。

俳優
1988年、「アミューズ・10ムービーズオーディション」に合格し、映画『ほんの5g』でデビュー[注釈 3]。1991年10月-12月期でTBS金曜ドラマ『あしたがあるから』に出演。これ以前にもドラマの仕事を打診されたが、あくまでもミュージシャンになるのが夢だったため出演依頼を断っていた。しかし、尊敬するARBの石橋凌や映画『狂い咲きサンダーロード』で主演した山田辰夫がこのドラマに出演するということで福山も出演した[3]。1992年4月-6月期のTBS金曜ドラマ『愛はどうだ』でレギュラー初出演となり、挿入歌となった「Good night」がスマッシュヒットとなる。この年は、10月-12月期のTBS同枠ドラマ『ホームワーク』にも出演している。

1993年4月-6月期に放送されたフジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下』に出演。平均視聴率28.4%、最高視聴率37.8%の大ヒットドラマとなる。1995年7月-9月期のフジテレビ系ドラマ『いつかまた逢える』で、ドラマ初主演と月9初主演を果たす。1997年、音楽活動は休止状態であったが、4月-6月期で『ひとつ屋根の下2』に出演。役の設定上出演シーンは少ないが、終盤では主役級の役柄となった。

1998年に本格的な活動再開となり、4月-6月期にTBS系ドラマ『めぐり逢い』で主演を演じる。1999年にはフジテレビ系『古畑任三郎』に犯人役でゲスト出演。7月-9月期にはフジテレビ系『パーフェクトラブ!』で2度目の月9主演となった。

2003年1月2日、日本テレビ系スペシャルドラマ『天国のダイスケへ〜箱根駅伝が結んだ絆〜』に主演。その後1月-3月期にフジテレビ系『美女か野獣』で松嶋菜々子とダブル主演。ともに報道関係者の役柄を演じた。

2007年10月-12月期でフジテレビ系ドラマ『ガリレオ』に主演。天才物理学者の湯川学役を演じ話題となった。ドラマは初回視聴率24.7%を記録した。2008年10月4日、映画初主演となる『容疑者Xの献身』が公開[4][5]。全国公開前には地元長崎市のTOHOシネマズ長崎にて、全スクリーンを使った先行上映会と舞台挨拶を実施した。2009年には映画『アマルフィ 女神の報酬』に特別出演した。

2010年、NHK大河ドラマ第49作『龍馬伝』において主役の坂本龍馬を演じる[6][7]。この演技が高評価され、第48回(2010年度)ギャラクシー賞テレビ部門個人賞を受賞した[8]。2011年には映画『アンダルシア 女神の報復』に特別出演した。

2013年4月-6月期にフジテレビ系ドラマ『ガリレオ』の続編が放送され、ドラマ放送終了後の週末には映画『真夏の方程式』が公開された[9][10]。また、是枝裕和監督作品の『そして父になる』に初の父親役で主演し、作品が第66回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した[11][12]。2014年、第35回ヨコハマ映画祭で主演男優賞[13]、第37回日本アカデミー賞で優秀主演男優賞[14]、第28回高崎映画祭で最優秀主演男優賞を受賞した[15]。映画『るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編』では比古清十郎役で出演した。

音楽活動
1990年3月21日、シングル「追憶の雨の中」でデビュー。1992年、自身出演のTBS系ドラマ『愛はどうだ』の挿入歌となった5枚目のシングル「Good night 」がスマッシュヒットする。1993年、5枚目のオリジナル・アルバム『Calling』で初のオリコンアルバムチャート1位を獲得した。 1994年には9枚目のシングル「IT'S ONLY LOVE/SORRY BABY」で初のオリコンシングルチャート1位(4週連続)、ミリオンセラーを獲得。1995年の10枚目となるシングル「HELLO」もオリコンチャート初登場1位を獲得し、マキシシングル初のミリオンセラーとなった[注釈 4]。シングルコレクション『M-COLLECTION 風をさがしてる』 もミリオンセラーとなる。また、初のアリーナツアー『FUKUYAMA MASAHARU M-COLLECTION WE'RE BROS. SPECIAL '95』を開催。ところが、翌年からしばらくの間音楽活動は休止状態となる。

1998年4月、自身主演のTBS系ドラマ『めぐり逢い』の主題歌・挿入歌を含んだ12枚目のシングル「Heart/you」とドラマのサウンドトラック『more』を同時発売して、音楽活動再開。6月には4年ぶり7枚目のオリジナル・アルバム『SING A SONG』を発売。年末には、後に恒例となる『冬の大感謝祭』を初開催した。1999年、自身主演のフジテレビ系ドラマ『パーフェクトラブ!』で劇中音楽を担当(主題歌担当はGLAY)。松本英子へドラマの挿入歌「Squall」を提供し、スマッシュヒットとなる。その後、自身14枚目のシングルとなる「HEAVEN/Squall」 は登場5週目でオリコンチャート1位を獲得。デビュー10周年を迎えるにあたって発売したベスト・アルバム『MAGNUM COLLECTION 1999 "Dear"』は初登場1位となり、ミリオンセラーになった。

デビュー10周年となった2000年、5年ぶりのアリーナツアー『10th Anniversary WE'RE BROS. TOUR "MAGNUM COLLECTION 2000"』を開催。15枚目のシングル「桜坂」は当時大人気だったTBS系『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記V』のテーマソングに使われダブルミリオンセラーとなり[注釈 5]、曲のモチーフになった東京大田区の桜坂には多くの人が訪れ、一躍全国区での有名スポットとなる。6月には地元長崎市の稲佐山公園野外ステージで凱旋公演を開催した。10月にはテレビ朝日系シドニーオリンピック放送テーマソングとなった16枚目のシングル「HEY! 」を発売した。2001年4月、8枚目のオリジナル・アルバム『f』発売。5月には初のドーム公演となる『玉子的大決起集会“まだまだイクやろ!!!”東京ドーム・大阪ドーム』を開催した。

2002年、カバー・アルバム『「福山エンヂニヤリング」サウンドトラック The Golden Oldies』を発売。2003年、18枚目のシングル「虹/ひまわり/それがすべてさ 」・アルバム『fukuyama masaharu MAGNUM COLLECTION "SLOW"』を同時発売し、オリコン週間チャートのシングル・アルバム両部門で男性ソロアーティスト初となる同時1位を達成した(「虹/ひまわり/それがすべてさ」は5週連続1位)。

2005年、デビュー15周年を記念したアリーナツアー『FUKUYAMA MASAHARU 15th Anniversay WE'RE BROS. FREEDOM TOUR 〜風〜』を開催。2006年5月、21枚目のシングル「milk tea/美しき花 」発売[16]。8月には所属事務所の先輩、桑田佳祐を中心とした音楽フェス『THE 夢人島 Fes.』に出演。12月には9枚目のアルバム『5年モノ』を発売した。2007年は年始からアリーナツアー『FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2007 「十七年モノ」』を開催。自身主演のフジテレビ系ドラマ『ガリレオ』のために、共演者の柴咲コウとのスペシャル・ユニットKOH+を結成。シングル「KISSして」とサウンドトラック『ガリレオ オリジナル・サウンドトラック』を同時発売した。2008年には映画『容疑者Xの献身』公開に合わせてKOH+シングル「最愛」を発売した。

2009年、初の日本武道館公演となる『福山☆イキナリの大感謝祭』を4日間開催。その後、アリーナツアー『FUKUYAMA MASAHARU 20TH ANNIVERSARY WE'RE BROS. TOUR 2009 道標』がスタートし、6月には10枚目のオリジナル・アルバム『残響』を発売。オリコンアルバムチャート1位を獲得した。8月には長崎市稲佐山公園野外ステージにて9年ぶりとなる凱旋公演『福山☆夏の大創業祭 稲佐山』を2日間開催。長崎ビッグNスタジアムではパブリック・ビューイングを行い、延べ5万人を無料招待した。12月には25枚目のシングル「はつ恋 」を発売し、年をまたいでのロングセラーとなった。2010年、デビュー20周年。ベスト・アルバム『THE BEST BANG!!』を発売。初登場1位となった。

2011年、アリーナツアー『FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2011 THE LIVE BANG!!』を開催。東日本大震災の影響で中断を余儀なくされるも、全国18会場54公演を遂行した。8月には初の沖縄公演を開催。27枚目のシングル「家族になろうよ/fighting pose」はオリコンシングルチャート1位を獲得。オリコンシングルチャート登場週数が82週となるロングヒットとなった[注釈 6][17]。2012年、同時発売したライヴDVD 『FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2011 THE LIVE BANG!!』・『福山☆冬の大感謝祭 其の十一 初めてのあなた、大丈夫ですか?常連のあなた、お待たせしました♡ 本当にやっちゃいます!「無流行歌祭!!」』・『福山☆真夏の初体験 THE LIVE BANG!! in 沖縄』がオリコン音楽DVDチャート初登場1・2・3位を独占した[18]。9月、ファンクラブ会員・公式携帯サイト有料会員を対象としたライヴイベントを横浜スタジアムにて3日間開催した。

2013年、フジテレビ系ドラマ『ガリレオ』放送に合わせてKOH+が復活。「恋の魔力」を発表する。その後、映画『真夏の方程式』公開にも合わせて、これまでのガリレオシリーズで使用された楽曲をまとめたアルバム『Galileo+』が発売された。2014年、5年ぶり11枚目となるオリジナル・アルバム『HUMAN』発売後、初のドームツアー『FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2014 HUMAN』を開催。また、初の海外公演となる『FUKUYAMA MASAHARU WE'RE BROS. TOUR 2014 in ASIA』を台湾・香港で開催した。

2月5日生まれの有名人「森脇健児」



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森脇 健児(もりわき けんじ、1967年(昭和42年)2月5日 - )は、日本のお笑いタレント、ラジオパーソナリティー。本名同じ。

大阪府枚方市出身。松竹芸能所属。枚方市立殿山第一小学校、枚方市立第一中学校洛南高等学校、桃山学院大学社会学部卒。身長171cm。体重63kg。スリーサイズ B:92 W:76 H:96 。靴サイズ 26cm 。趣味 マラソン、野球観戦、スポーツ観戦。京都市在住。2010年より京都美山高等学校特別顧問。既婚、1男1女あり。

来歴・人物編集

高校時代から地元枚方のライブハウス『ブロウ・ダウン』で自主企画イベントを数多く開催していた。

1984年、高校3年の時に「第1回松竹芸能タレントオーディション」に合格。松竹芸能の所属となり、6月にエキスタ寄席で初舞台を踏む。その後、若井はやとに弟子入りする。1988年から山田雅人とのコンビで『ざまぁKANKAN!』、『森脇健児の青春ベジタブル』をはじめとする関西ローカルの番組に出演し、関西圏で人気を博する。

その後、1990年代に入ってから東京に進出し、一時はバラエティ番組で司会を務めたりドラマに出演したが、『笑っていいとも!』降板や『夢がMORIMORI』等の主だったレギュラー番組終了の後、全国区でメインとなるレギュラー番組が獲得できず、1999年(平成11年)に関西圏へ戻る。

2月4日生まれの有名人「石破茂」



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石破 茂(いしば しげる、1957年(昭和32年)2月4日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)。

農林水産大臣(第49代)、防衛大臣(第4代)、防衛庁長官(第68・69代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)等を歴任した。

参議院議員、自治大臣、国家公安委員会委員長、鳥取県知事、建設事務次官等を歴任した石破二朗[1]は父。

来歴編集

出生、学生の頃
鳥取県八頭郡郡家町(現八頭郡八頭町)出身[2]。東京都生まれ[3]。父は建設官僚の石破二朗。父二朗が1958年に鳥取県知事になったので、茂に東京の記憶は全くない[3]。茂の出生時、父・二朗は48歳であり、二朗の秘書を務めていた高岩迪資によれば、自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩が茂の父親と間違えたことがあったという[4]。

母親は、自身国語教師だったということもあり、結構教育熱心な人だった[3]。小学校の頃は毎晩1時間くらい、偉人伝の朗読をさせられた[3]。鳥取大学教育学部附属中学校を経て、慶應義塾高等学校に進学。

1979年、慶應義塾大学法学部法律学科卒業[2]。慶大2年在学中に、全日本学生法律討論会で第一位[2]。

銀行員の頃
1979年、三井銀行(現三井住友銀行)に入行[2]。石破の三井銀行入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました[5]。そのとき私は本人の志望会社を認められることを強調し、たまたま入社志望会社の人事担当役員が古くから親交がありましたので、石破(二朗)さんと一緒に訪ねたこともありました[6]。又、令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています[7]」と述べている。東京都中央区にある本町支店に配属、日本橋の問屋街を自転車で廻り、中小企業の経営を肌で学んだ[2]。

衆議院議員
1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した[8]。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった[2]。なお、石破本人は田中派からの出馬を希望していたが、鳥取県全県区からは既に田中派の平林鴻三が選出されていたため、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄を頼り、中曽根派から立候補した。以後、9期連続当選。1990年の第39回、1993年の第40回衆議院議員総選挙では、鳥取県全県区でトップ当選する。1993年、細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため、自民党を離党。改革の会に参加し、改革の会・新党みらい・柿澤自由党が合流した自由改革連合を経て、新進党結党に参加した。しかし、1995年に新進党党首に選出され、国連中心主義を唱える小沢一郎の安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数を上回る得票で圧勝した。以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命され、2001年の第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。

小泉政権
元々、石破は農水族として地歩を築いてきたが、自身も「国防がライフワーク」と語るように「新国防族」などと称され、外交・安全保障に精通する政策通で知られていた。拉致議連の会長を務めた後、2002年、第1次小泉内閣第1次改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣した。防衛庁長官在任中はアメリカ同時多発テロ事件の発生による有事法制の制定や、陸上・航空自衛隊のイラク派遣に取り組んだ。

福田政権
安倍晋三の退陣に伴う2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持し、福田が総裁に選出される。福田康夫内閣では防衛大臣に任命され、約3年ぶりに防衛省へ赴任する。翌2008年、福田首相の退陣に伴う自由民主党総裁選挙に出馬し、25票を獲得するも立候補者5人中最下位に終わった(当選者は麻生太郎)。

麻生政権
2008年、麻生内閣で農林水産大臣に任命される。農林水産大臣は松岡利勝(自殺)、赤城徳彦(辞任)、遠藤武彦(辞任)、太田誠一(辞任)ら前任者の多くが不祥事に見舞われていたが、石破は特に目立った不祥事を起こさず、約1年間、農林水産大臣を務めた。2009年の第45回衆議院議員総選挙では与党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、鳥取1区で民主党の新人に比例復活すら許さない大差をつけ、8回目の当選を果たした。鳩山由紀夫内閣の発足に伴い、農林水産大臣を退任。

野党時代
2009年9月、自民党の野党転落後に行われた自民党総裁選挙では、前回の総裁選の対立候補であった与謝野馨から立候補を促され、マスメディアも石破の立候補を有力視していたが、前回総裁選の推薦人であった議員20人のうち13人が落選し、推薦人集めの難航が予想されたため、立候補を断念。谷垣禎一元財務大臣への支持を表明し、総裁に選出された谷垣の下で自由民主党政務調査会長に起用された。自民党鳥取県連の関係者によれば、党三役入りした鳥取県選出議員は石破が初めてであった[9])。政調会長就任に伴い、所属していた額賀派を離脱した。

2010年4月22日の記者会見において、自民党を離党した与謝野馨、園田博之らが参加する新党たちあがれ日本について「私自身、新党「たちあがれ日本」に参加した与謝野馨と園田博之とは、政策的に非常に近いスタンスだ。2人は、自民党で中心的な政策の立案をしてきており、共闘していくのは当然だ」「たちあがれ日本とは、「民主党の過半数を阻止しなければならない」という思いは共通しており、今後、政策面で共同歩調をとることは多々ある」[10]と述べ、たちあがれ日本と共闘する可能性を示唆し、講演でも「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ[11]」と述べ、たちあがれ日本と協力する可能性に言及した。同年9月、自民党政調会長に留任。

2011年9月、党役員人事により自民党政調会長を退任(後任は茂木敏充)。政調会長退任後は所属していた額賀派には復帰せず、同年12月に派閥横断型政策勉強会「さわらび会」を立ち上げた。衆議院予算委員会野党筆頭理事、自民党安全保障調査会長に就任。

2012年9月10日、自由民主党総裁選挙への出馬を表明[12]。9月26日に実施された投開票では、1回目の投票で立候補者5人中トップの199票(地方票165票、国会議員票34票)を獲得し、特に地方票では2位以下の候補を大きく引き離したが、過半数の確保には至らなかった。国会議員のみによる2回目の投票では、大きく上積みし89票を獲得するも、108票を獲得した安倍晋三元首相に敗れる[13]。

自由民主党幹事長
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自由民主党総裁に選出された安倍の下、無派閥ながら自由民主党幹事長に起用され[14]、2012年の第46回衆議院議員総選挙、2013年の第23回参議院議員通常選挙の陣頭指揮を執った。2013年1月、無派閥連絡会の立ち上げに参加する。一部のマスメディアや自民党議員からは「事実上の石破派立ち上げ」の声も上がったが[15]、石破本人はこれを否定している[16]。

第2次安倍政権
2014年9月3日の第2次安倍改造内閣発足に先立ち、安倍は石破に対し、新設する安全保障法制担当大臣への就任を打診していたが、石破は8月25日にラジオ番組に出演し、安全保障法制担当相への就任を辞退する意向を明言し、内閣改造後も引き続き幹事長職に留まりたい意向を表明した[17]。しかし「幹事長が公の場で人事の希望を言うなど前代未聞」等、石破に対する批判が高まり、自民党参議院幹事長の脇雅史は「個人の見識があるのは当然だが、内閣、組織の意向に従うのが常識だ」と苦言を呈した[18]。安倍はさらに、挙党体制の確立のため石破に安全保障法制担当相以外での入閣を打診し[19]、8月29日に正式に会談した際、石破もこれを受け入れた[20]。9月3日に発足した第2次安倍改造内閣では、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)及び「元気で豊かな地方の創生のための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣に任命された[21]。

2月3日生まれの有名人「有田哲平」



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有田 哲平(ありた てっぺい、1971年2月3日 - )は、日本のお笑い芸人、司会者。お笑いコンビくりぃむしちゅーのメンバーで、相方は上田晋也。愛称はアリペイ、アリペー。

熊本県熊本市東区出身。ナチュラルエイト所属。身長173cm、体重80kg。

略歴編集

幼少時から大学入学直後まで裕福な家庭で育つ。熊本大学教育学部附属中学校を経て、熊本県立済々黌高等学校に入学。ラグビー部に入部し上田と出会う[2]。プロレスの話や2人が「お笑いスター誕生!!」を見ていたことで意気投合[2]。高校卒業後、一浪して立教大学法学部に入学。弁護士を目指したが、早稲田大学を中退した上田からの誘いを受け、有田も大学を中退。1991年にコンビ「海砂利水魚」を結成し、コント山口君と竹田君の付き人となる。

2001年9月に、『新・ウンナンの気分は上々。』の「負けたら改名」の企画にて、さまぁ〜ずとの対決に敗れた為、ウッチャンナンチャンの内村光良命名の「くりぃむしちゅー」に改名された事が話題になりブレイク。

2008年、DVD『特典映像』で監督としてデビュー。

2月2日生まれの有名人「朴槿惠」



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朴 槿惠(パク・クネ、朝鮮語: 박근혜、1952年2月2日 - )は、大韓民国の政治家、大韓民国第18代大統領である。

保守のハンナラ党代表、セヌリ党非常対策委員会委員長を経て、2012年韓国大統領選挙で民主統合党の文在寅に勝利し、2013年2月25日に韓国史上初の女性大統領に就任した。

経歴編集

韓国の第5代~第9代大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)と陸英修(ユク・ヨンス)の長女として、慶尚北道大邱市で産まれた。異母姉に在玉、妹に槿暎がいる。現EGテック会長の朴志晩(パク・チマン)は末弟。朴正煕の軍人時代の副官で元カナダ大使の韓丙起は、在玉の夫で義兄に当たる。


朴槿恵の父親朴正煕大統領
キリスト教系の聖心女子中学校・聖心高校を卒業後に西江大学校電子工学科に進学した。大学では中国語も専攻している。首席で卒業後に、フランスのグルノーブル大学に留学した。留学中の1974年8月15日に文世光事件が発生し、母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、その後は父のファーストレディー役を務めた。1979年に朴正煕暗殺事件で父は金載圭(キム・ジェギュ)KCIA長官に暗殺された。父の死亡を耳にした際の第一声は、混乱に乗じて朝鮮人民軍が侵攻することを懸念した「休戦線は大丈夫か」だった[1]。

政界入りとハンナラ党代表就任
ガールスカウト団名誉総裁、 嶺南大学校理事長、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選挙(大邱広域市達城郡)に当選し政界入りし、ハンナラ党副総裁など党要職を歴任した。2002年2月にハンナラ党を離党した後、5月12日に平壌を訪問して金正日と会見し板門店経由で帰国している。同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を5月17日に結成したが、11月にハンナラ党に復帰した。

2004年3月23日に、1965年に野党民衆党の代表最高委員(党首)に朴順天(パク・スンチョン)が就任して以来、韓国では39年ぶりの女性党首としてハンナラ党の代表に就任した。2004年4月の総選挙でも達城郡の選挙区から当選した。この選挙では、大統領弾劾を可決したハンナラ党に対する国民の批判が集まり惨敗が予想されていたが、朴槿恵の知名度と人気で惜敗に食い止め、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた[2]。

2005年10月5日、ハンナラ党代表として韓国軍のヘリコプターを用いて「独島」へ上陸した[3][4]。11月8日にはニューライト全国連合創立大会に参加する[5]。また同年には中国を訪問して胡錦濤国家主席と会見した。

2006年5月17日に日本を訪問し、小泉純一郎首相と会談した。また訪韓した北朝鮮による拉致被害者家族会・横田滋代表らとも会見している。同年5月20日午後、第4回全国同時地方選挙の支援遊説中に、男にカッターナイフで切り付けられ、右耳下から顎にかけて10センチの傷を負い60針縫う手術を受けた[6]。この際、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持団体(ノサモ)からは、「60針を縫ったのは整形手術」[7]という声が挙がったが、それが逆に反感を呼び大統領支持派に対する批判拡大へと繋がり、地方選挙でのハンナラ党圧勝に繋がった。なお犯人の背後関係については、[ 検察・警察の合同捜査本部による捜査の結果、「単独犯」との結論に達した[8]。

2007年大統領選ハンナラ党予備選
襲撃事件による同情票や盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の経済失政に対する批判、さらに「整形発言」への反発もあって、2006年5月31日に行われた統一地方選挙ではハンナラ党を地滑り的勝利に導いた。この結果、同じハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)に次ぐ2007年の韓国次期大統領選の有力候補としての地位を固めたが、2007年8月20日に、党大会で行われた大統領候補党内予備選挙で李明博に敗れた。翌年(2008年)4月の第18代総選挙において得票率88.6%を集め4度目の当選を果たしている。

2010年12月27日、政策研究のためのシンクタンクとなる国家未来研究院を発足させ、2012年に予定されている大統領選挙に向けて本格始動を開始した[9]。2011年4月27日の再補選でハンナラ党が敗北し安商守(アン・サンス)党代表が辞任したことを受けて行われる党内選挙への出馬がささやかれていたが5月20日、選挙への不出馬を表明した[10]。同年4月28日に大統領特使として欧州3カ国(オランダ・ポルトガル・ギリシャ)を歴訪している[11]。

セヌリ党非常対策委員長
2011年10月に行われたソウル市長補欠選挙における党公認候補の敗北と同市長選における中央選挙管理委員会ホームページへのサイバー攻撃に党所属国会議員秘書の関与が発覚するなど、ハンナラ党にとってマイナスとなる出来事が相次ぎ、7月の全党大会で選出された洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表が12月9日に辞任した[12]。12月12日に開かれた議員総会において、朴槿恵を委員長とする非常対策委員会を発足させることが決まったが、非常対策委員会においては党の方向性を巡り意見がまとまらず派閥間で対立が続いた[13]。

2011年12月20日に開かれた全国委員会で、朴槿恵元代表を非常対策委員会委員長に選出した。党最高委員の全権が非常対策委員長にゆだねられたことで、朴槿恵は5年5ヶ月ぶりに事実上の党首職に復帰した[14]。2012年2月7日、4月に行われる予定の総選挙に関し、自身は地域区(大邱市達城郡)から出馬しないことを表明した[15]。同月13日に党全国委員会で党名改正と党憲・党規改正案が承認された。党名は「ハンナラ党」から「セヌリ党」へ改称され、朴槿恵は引き続き非常対策委員長の職に就いた[16]。当初、比例代表名簿順位1位で立候補することが有力視されたが、最終的にセヌリ党比例候補者名簿順位11位で立候補した[17]。

2012年大統領選挙
「2012年大韓民国大統領選挙」も参照
総選挙では非常対策委員長として選挙の陣頭指揮を執り、セヌリ党は最大野党である民主統合党を大きく上回る152議席(うち比例代表25議席)を獲得、選挙前議席(162議席)より減らしたものの単独過半数を維持することができた[18]。この結果、年末に予定されている大統領選挙におけるセヌリ党の大統領候補として地位を固めた[19]。7月10日にセヌリ党大統領候補予備選への出馬を表明し、3大目標として分配重視、雇用創出、国の実情にあった福祉を掲げ、李明博政権との違いを強調した[20]。

予備選は8月19日に党員と一般有権者による選挙人団による投票が行われ、これに世論調査結果を加味した得票率を計算する方法で進められた。20日の全党大会で発表された選挙の結果、朴槿恵は得票率83.9%で、2位となった金文洙(キム・ムンス)ら他候補に圧倒的大差をつけ、セヌリ党の大統領候補に選出された[21]。12月19日に執行された大統領選挙は、革新派である民主統合党候補の文在寅(ムン・ジェイン)との事実上の一騎打ちとなり[22]、接戦の末に当選し[23]、2013年2月25日に第18代大統領に就任した[24]。 しかし、この選挙では、国家情報院の世論操作活動と前ソウル地方警察庁長キム・ヨンパンの虚偽の中間捜査発表が確認され、その正統性に疑問が提起されている[25][26]。
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