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2015年03月

3月31日生まれの有名人「朝永振一郎」

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を元にくりこみ理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれ、京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県出身。

生涯編集

1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現在の文京区小日向)に長崎出身の父親朝永三十郎と埼玉県出身の母親の子として生まれる。幼少期は病弱であったと伝えられる。

1913年、父三十郎の京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都に転居し、錦林小学校に転校する。三十郎は、後に京都学派の哲学者の一員として知られるようになる。朝永は、次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験をおこなったり、電信機や顕微鏡のレンズを自作するなどしていた。著名な哲学者の息子ではあるが、朝永自身は後年、「哲学というものは私にとってはなはだだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている[1]。

京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であり、就職もやはり湯川秀樹と同期で、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。

1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行なった。この研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。

1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行なう。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。

1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するためのくりこみ理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞する。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった[2]。

1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年には日本学術会議会長を務めた。晩年は、中学校などでも講演を行ない、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1979年、咽頭癌が悪化し死去した。前年に手術を行ったため声が出せない容体だった。墓は東京の多磨霊園にある。

3月30日生まれの有名人「日蓮」

日蓮(にちれん)(貞応元年(1222)2月16日 - 弘安5年(1282)10月13日)[注釈 1]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖[注釈 2]。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

生涯編集

貞応元年2月16日(1222年3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 3]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。
1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。
1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。
1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 4]。
1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける[注釈 5]。
1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に法華経を奉納[3]。
1258年(正嘉2年)実相寺にて一切経を閲読。
文応元年7月16日(1260年8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 6]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
詳細は「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」を参照
その後、ふたたび布教をおこなう。
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪(伊豆法難)。
詳細は「蓮着寺」を参照
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。
詳細は「小松原法難」を参照
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1269年(文永6年)富士山に経塚を築く[4]。
1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 7]。
詳細は「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」を参照
10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[5]。
1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
1282年(弘安5年)
9月8日(10月10日/10月17日)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[注釈 8]。
10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて死去。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)[注釈 9]。

3月27日生まれの有名人「レントゲン」

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen、1845年3月27日 – 1923年2月10日)は、ドイツの物理学者。1895年にX線の発見を報告し、この功績により、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受賞した。

生涯編集

X線の発見まで
1845年3月27日にドイツのレンネップ(Lennep、現在はレムシャイトの一部)で生まれた。父はドイツ人で織物商のフリードリッヒ・レントゲン、母はオランダ人のシャーロット・フローインで、裕福な家庭の一人息子だった[1]。1848年、一家はオランダのアペルドールンに移り住み、レントゲンはここで初等教育を受けた。しかし卒業目前の時期に教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できなかった[2]。結局、1862年から2年半オランダのユトレヒト工業学校で学んだ後、1865年にチューリッヒ工科大学の機械工学科に進学している。1868年に機械技師の免状を取得したが、チューリッヒ工科大学でルドルフ・クラウジウスの工業物理の講義を聞き、物理への関心が高まったという[3]。クラウジウスの後任のアウグスト・クントに師事し、1869年に『種々の気体の熱的性質に関する研究』で博士号を取得した[3]。

1870年にクントが再びクラウジウスの後任としてヴュルツブルク大学の教授になると、その助手となった。1872年にはチューリッヒ時代から交際して在学中に婚約していた[4]6歳年上のアンナ・ラディッグと結婚している。アンナは後に、有名な右手のX線写真のモデルを務めている。同年クントがストラスブール大学に移ったため、これに帯同して引き続き助手となった。この頃からレントゲンは独立して実験を行なうようになる。

1874年に大学教授となる資格を得て、1875年から約1年間ホーエンハイム農業学校で数学と物理の教授を務めている[3]。しかし、実験を行なう時間がないため助教授としてストラスブール大学に戻った[5]。ストラスブール大学では主に物理定数の精密測定を行ない、気体や液体の圧縮率、旋光度などに関して15本の論文を発表している[5]。これらの業績が評価され、1879年にはグスタフ・キルヒホフやヘルマン・フォン・ヘルムホルツの推薦を得てギーセン大学の物理学の正教授に就任した[3]。ギーセン大学では、カー効果や圧電効果など、光学や電磁気学に関する研究を行なっている。また、実子がいなかったため1887年に妻の姪を養女とした[2]。

1888年にクントがベルリン大学に移り、ストラスブール大学では後任としてフリードリッヒ・コールラウシュをヴュルツブルク大学から迎えた。このためヴュルツブルク大学でもポストが空き、クントやフリードリッヒ・コールラウシュの推薦もあってレントゲンが教授として招かれた[3]。同年に発表した『均一電場内での誘電体の運動により生じる電気力学的な力』という論文ではマクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる現象(変位電流)を発見した[3]。1894年には同大学の学長に選ばれている。ヴュルツブルク大学では圧力をかけた時の固体や液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始めた。これが翌月のX線の発見へと繋がった。


レントゲンの生家


レントゲン博物館

X線の発見

1896年1月23日にレントゲンが撮影したアルベルト・フォン・ケリカーの手のX線写真
当時、ハインリヒ・ヘルツやフィリップ・レーナルトらによって真空放電や陰極線の研究が進められていた。陰極線は電子の流れだが、金属を透過することから当時の物理学では粒子の流れではなく、電磁波の一種と考えられていた。レントゲンもこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して確実に動作するレーナルト管を譲り受けた。なおX線の発見に関する論文でこれに対する謝辞がなかったため、レーナルトから激しい怒りを買っている[6]。

レーナルト管は管全体が弱い光を帯びるので、陰極線を見やすくするためにアルミニウム窓以外を黒い紙で覆った。さらに、アルミ窓はないが似た構造のクルックス管からも陰極線のようなものが出ているかも知れないとレントゲンは考えた。クルックス管は陰極、陽極には共に白金が使われており、これに20kV程度の電圧を印加するので、陰極から出た電子が陽極の核外電子を弾き出して遷移が起き、白金の特性X線が生じていたことが後にわかった。レントゲンはもしも陰極線が出るならクルックス管よりも弱いはずだと思い、見やすくするため同様に黒い紙で全体を覆った。さらに、検出のために蛍光紙(シアン化白金バリウムの紙)を用意した。

1895年11月8日、ヴュルツブルク大学においてクルックス管を用いて陰極線の研究をしていたレントゲンは、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気付いた。この発光は光照射によって起こるが、クルックス管は黒いボール紙で覆われており、既知の光は遮蔽されていた。状況的に作用の元は外部ではなく装置だとレントゲンは考え、管から2メートルまで離しても発光が起きることを確認した。これにより、目には見えないが光のようなものが装置からでていることを発見した。後年この発見の時何を考えたか質問されたレントゲンは、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。実験によって、

1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
鉛には遮蔽される
蛍光物質を発光させる
熱作用を示さない
などの性質が明らかになり[7]、また検出に蛍光板ではなく写真乾板を用いることで鮮明な撮影が可能になった。

光のようなものは電磁波であり、この電磁波は陰極線のように磁気を受けても曲がらないことからレントゲンは放射線の存在を確信し、数学の未知の数をあらわす「X」の文字を使い仮の名前としてX線と名付けた[8]。7週間の昼夜を通じた実験の末、同年12月28日には早くも"Über eine neue Art von Strahlen"(『新種の放射線について』)という論文をヴュルツブルク物理医学会会長に送っている。さらに翌1896年1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影したものや金属ケース入りの方位磁針など、数枚のX線写真を論文に添付して著名な物理学者に送付した。

発表後の反響、その後
X線写真という直観的にも非常にわかりやすい結果を伴っていた事、またそれまでの研究でレントゲンが物理学の世界で一定の名声を得ていた事から発表は急速に受け入れられた。1896年1月14日には英語版が早くもネイチャー(Nature)誌に、次いで1月24日にはエレクトリシアン(Electrician)、2月14日にはサイエンス(Science)に掲載された。フランス語版も2月8日にL'Eclairage Electriqueに掲載された。また、同年1月13日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でX線写真撮影の実演をしている。1月23日に地元のヴュルツブルクでも講演会と実演を行なった。なおレントゲンは発表が非常に嫌いだったため、これが唯一の講演会だったとされる[要出典]。

海外にも情報は速く伝わり、発見から3ヶ月後の3月25日には旧制第一高等学校の教授・水野敏之丞によって日本の科学雑誌でも紹介され、同年飯盛挺造は「Röntgen氏ノX放射線ニ就テ」という題で講演をした[9]。また、アメリカでは透視への不安から「劇場でのX線オペラグラス禁止条例」がトレントン市で2月9日に可決される騒ぎとなった。

X線に関する論文をさらに2報発表した後、1900年にレントゲンはミュンヘン大学に実験物理学の主任教授として移った[10]。ここの物理教室での同僚にマックス・フォン・ラウエがいて、1912年にX線回折像の撮影を行なってX線が電磁波であることを初めて明らかにした。X線の正体はこれまで謎であったが、透過性の高いX線の発見はただちにX線写真として医学に応用されたため、この功績に対し1901年最初のノーベル物理学賞が贈られている。ミュンヘン大学には1920年まで在籍していたが、この間に書いた7報の論文は結晶の圧電効果など全てX線に関係のないものであった。なお、1919年には妻が亡くなっている。レントゲンは科学の発展は万人に寄与すべきであると考え、X線に関し特許等によって個人的に経済的利益を得ようとは一切せず、ドイツの破滅的インフレーションの中で癌のため1923年2月10日に逝去した[11]。ノーベル賞の賞金についても、ヴュルツブルク大学に全額を寄付している[3]。墓はギーセンの旧墓地(Alter Friedhof)にある。

3月26日生まれの有名人「ラリーペイジ」

ローレンス・エドワード・“ラリー”・ペイジ(英語: Lawrence Edward "Larry" Page, 1973年3月26日 - )は、Googleの共同創業者、最高経営責任者(CEO)。ファミリーネームについてはページとの表記もある。2012年9月の時点で203億ドルの純資産を有する [1]。

経歴編集

アメリカ合衆国・ミシガン州ランシングに生まれる。祖父はゼネラルモーターズの工場労働者。父カール・ビクターはミシガン州立大学(Michigan State University)計算機科学・人工知能教授[2][3]。母グロリアはユダヤ人で、彼女もミシガン州立大学でコンピュータプログラミングの教師をしている[3]。兄のカール・ビクター・ペイジ・ジュニアは、メーリングリストサービスeGroupsの設立者で、後にYahoo!へ売却して財をなした[3][4]。

6歳の頃からコンピュータを触り始める。ミシガン大学で計算機工学を専攻し、1995年に学士(計算機工学)号を取得。卒業後、スタンフォード大学計算機科学の博士課程に進学し、テリー・ウィノグラードの指導の下、ウェブのリンク構造、人間とコンピュータの相互作用、検索エンジン、情報アクセスインタフェースの拡張性、個人的なデータのデータマイニング手法などを研究。

在学中、同じくスタンフォード大学計算機科学の博士課程に在籍していたセルゲイ・ブリンと出会い、The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine(大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する解剖)と題された論文を共著で執筆した。修士号を取得した後スタンフォード大学を休学し[2]、1998年にGoogle社を共同設立。論文はページランク技術(ペイジは、彼の姓に由来)に取り入れられることになった。従業員200人程度の規模になった2001年4月頃まで共同社長兼最高経営責任者を務め、同年7月に最高経営責任者職をエリック・シュミットに譲った。シュミット、ブリン、ペイジによる三頭体制で製品部門担当の社長を務めていたが、2011年4月4日付で最高経営責任者に復帰した。

ミシガン大学工学部の国家諮問委員も務めている。2002年、世界経済フォーラムにてGlobal Leader for Tomorrow(未来のグローバルリーダー)に指名される。2003年には、スペインのIE ビジネススクールから名誉MBAを授与された[5]。2004年には全米技術アカデミーの会員に選出され、2005年からはエックスプライズ財団の理事も務めている[2]。

3月25日生まれの有名人「エルトンジョン」

エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John, CBE、1947年3月25日 - )は、イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。代表曲に、「僕の歌は君の歌」「クロコダイル・ロック」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」「ダニエル」などがある。出生時の名前は、レジナルド・ケネス・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。血液型 は A型。

最も売れたアーティスト一覧によると、シングルとアルバムの総売り上げは、ビージーズやローリング・ストーンズ、ピンク・フロイドを上回る約3億枚。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第38位[1]。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第49位。

「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第45位[2]。

パートナーは、カナダ人映画監督、プロデューサーのデヴィッド・ファーニッシュ[3]。

人物編集

1969年にソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で3億枚以上のレコード・セールスを記録した、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。作曲は彼自身によるものだが、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名は、彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の2人の名前から取ったものである。

1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。当時、若手アーティストとしてギルバート・オサリバンをライバルとして認めた。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。1980年代後半から1990年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詩の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は、2012年現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。

彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがちだが、メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、ソウル、ディスコに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。ピアノの下に隠れての曲弾きや、クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラ踊りを行うことも多い。

両性愛者であることでも知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。1970年代の前半頃から既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが、1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は、それらを自らギャグとして披露してもいる。また、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方では、取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また、クラブチームを保有していた時期がある。

近年ビリー・ジョエルとは、頻繁に「ピアノマン」同士のジョイント・コンサートを行っている。

鉄道にも興味があるらしく[要出典]、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。

カルティエの野外パーティーで急な悪天候により、得意客たちがホテルへ引き返す事態になった際、ホテルのラウンジにあったピアノでジョンが弾き語りを始めたことで険悪なムードが一変し、大変盛り上がった。それ以来カルティエは、彼に頭が上がらないという。 好きになったひとに、カルティエの腕時計をプレゼントするのは、得意のアプローチ作戦である。

3月24日生まれの有名人「島田紳助」



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島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年〈昭和31年〉3月24日 - )は、元お笑いタレント、司会者、実業家。コンビ時代は紳助・竜介のボケ担当。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)。京都府京都市南区出身。

1974年から吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属。2011年に芸能界を引退した。

略歴編集

芸能界入りまで
父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。『松本紳助』で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。

中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所に送致された経験がある。10代頃から広島ヤクザ・波谷守之に憧れていたという[1]。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。高校時代の担任は宗教の教諭であり、注意する時に叱り付けるのではなく、「インドの偉いお坊さんはな…」と諭されていた。その一方で、「大学を出ないと人生のスタートラインに遅れる」と考えていて、勉強はやっていたという。

10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)。また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋か競艇選手か漫才師かと考えていた。

18歳で芸能界入り
18歳の時、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である島田洋之介・今喜多代(後・今日喜多代)に弟子入り。同期に明石家さんま、オール巨人、桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓った。その後、洋七を前にしたり洋七の話になった際は、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と得意の毒舌で当時を振り返っている。

「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「明石家さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。

弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間に別の芸人と2度コンビを組んでいるがどちらも全く上手くいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里、夢路いとし・喜味こいし、B&Bらすでにテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。トップホットシアターなどの劇場に通い漫才を生で研究していた。

20歳代
1977年9月にうめだ花月で進行をしていた松本竜介(解散後「松本竜助」に改名)と漫才コンビ「紳助・竜介」を結成。明石家さんまにコンビを組もうとして断られた結果、さんまが紹介したのが竜介だった。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。1980年頃からの漫才ブームでは、関西の雄として一翼を担った他、後輩のダウンタウンにも大きな影響を与えた(詳細は紳助・竜介の項目を参照)。

1981年には、『ガキ帝国』(井筒和幸の監督作品)で竜介とともに映画初主演を果たした。 同年、フジテレビ『オレたちひょうきん族』にコンビ揃ってレギュラー出演。この番組で紳助は、TBS『ザ・ベストテン』のパロディコーナー「ひょうきんベストテン」の司会を務めたり、同期のさんまの恋人役で女装をしてコントを演じたりなど、竜介とのコンビにとらわれない形での出演が増え、紳助個人の才能を見せるようになる。

漫才ブームが次第に沈静化する中、1985年5月、紳助・竜介は解散。その際、「このままではサブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と発言した[注 1]。

30歳代
1987年、日本テレビ『歌のトップテン』で和田アキ子とともに2代目司会者を担当。この番組で紳助は和田から司会術を学び、先述の「ひょうきんベストテン」やABC『ヤングプラザ』、MBS『ヤングおー!おー!』、そしてこの『歌のトップテン』で司会者としての礎を築いた。

40・50代(引退前)は司会者としての活動が中心であり、パネラーとしての出演は滅多になかったが、この頃にはともにMBS『クイズ!!ひらめきパスワード』、TBS『わくわく動物ランド』、フジテレビ『アイ・アイゲーム』には解答者として出演していた。司会者以外で番組出演することは少なく、レギュラー番組では、広島テレビ『松本紳助』、ゲスト出演した番組では、読売テレビ『ダウンタウンDX』、ABC『M-1グランプリ』の審査員(第1回大会のみ司会兼審査員)などがある。

1990年代の紳助は、お笑いにとらわれない形での仕事が増えていく。特に1990年に、テレビ朝日・ABC『サンデープロジェクト』の司会に起用されたことは話題を呼び、2004年まで14年も続く仕事となり、その間にタレントとしてのイメージを大きく変えることになった。 以降、司会者としての出演が増え、司会を務めたいずれも日本テレビ『EXテレビ』、『嗚呼!バラ色の珍生!!』、TBS『ダウトをさがせ!』、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』などが人気番組となる。特に、1991年秋にはTBSで『オールスター感謝祭』がスタートし、毎回200人もの芸能人を3〜5時間半の長時間仕切り上げ、司会者としての地位を不動のものにする。

こうした司会業の中で、若手の芸能人や素人の出演者をおもしろおかしく「いじる」才能が徐々に注目されるようになった。それまでバラエティ番組とは無縁だった歌手や俳優のバラエティ番組との相性を見抜いて自分が司会する番組に出演させることが多く、円広志や高木美保、misono、飯島愛のように、それをきっかけに人気を上昇させ、活動の幅を広げていく芸能人も多数存在した。

40歳代
2000年代に入ってからはプロデュース業にも進出。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』では、吉本興業のお笑いコンビであるランディーズ、ロザン、キングコングの3組によるアイドルユニット「WEST SIDE」をプロデュース。関西圏ではジャニーズ事務所のアイドル達をも凌駕するほどの大人気グループに成長させた。後述の引退後のインタビューの際に、多くのタレントのプロデュースを行った理由について、「自分が出たから、僕が関わった人間が1人でも世に出ればという気持ちがあった」「芸能界で成功するのは1000分の1の可能性くらいであり、そんな中で自分の関わった奴らをなんとか世に出してあげたら、自分も幸せな気持ちになるから」と語った。

2001年には吉本興業から「漫才復活のために知恵を貸してください」と頼まれ、漫才選手権大会(テレビ番組でもある)『M-1グランプリ』を企画。大会委員長として審査員も務めた。厳しい審査の中でますだおかだ、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、サンドウィッチマンなど数多くの若手漫才師を世に送り出す。おぎやはぎ、南海キャンディーズ、オードリーなど優勝には至らなかったもののこの大会をきっかけにブレイクしたコンビも多い。2008年度からは「国民的行事」と呼ばれるほどの注目度と人気が高まった(この年、関西地区での平均視聴率35%以上、瞬間視聴率は40%以上を記録した)。2010年で惜しまれつつ一旦終了したが、紳助は「惜しまれて終わるのが一番良い」と述べている(『M-1グランプリ』は2015年夏に復活)。

2004年10月から2005年1月までの間は傷害事件(詳細後述)により一時、テレビから姿を消していたが、年明けに復帰。

2005年、石垣島に喫茶店「TOMURU(トムル)」をオープン(130R経営)。同年、京都で料理店を営んでいた古塚健一と共同で株式会社はせ川を設立。11月に大阪・東心斎橋に「寿司 はせ川」をオープンし、2007年9月には東京・西麻布にもオープン。その他、大阪・東心斎橋に「しゃぶしゃぶ チョモランマ はせ川」や「京風鉄板 はせ川」、「バー はせ川」などを展開する。

50歳代、芸能界引退へ
2005年10月からのフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』ではPaboや羞恥心といったユニットをプロデュースし、ブームを巻き起こす。これをきっかけにカシアス島田名義で作詞活動を行なうようになる。

2007年から2010年まで、国政選挙施行日における日本テレビの選挙特別番組『ZERO×選挙』でメインキャスターを務めた。

2009年6月14日放送分のNHK総合テレビ『MUSIC JAPAN』に「カシアス島田」名義でコメント出演した。なお、NHKへは『おとうさんの時間』(1993年 - 1994年)のほか、『バラエティ生活笑百科』(1985年。NHK大阪放送局制作)や『私と尾崎豊~マイベストソング』(2003年4月14日)など数番組に出演歴がある。

2009年と2010年には、フジテレビ『FNSの日』(2009年は『FNSの日26時間テレビ2009超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』、2010年は『FNSの日26時間テレビ2010超笑顔パレード 絆 爆笑!お台場合宿!!』)の総合司会を2年連続で務めた。その中でFNS局対抗企画として2年連続で開催した三輪車12時間耐久レースで大会委員長を務めた。

オリコン調査による「好きな司会者ランキング」では2009年・2010年で2年連続1位を獲得した。一方2011年には、 日経BP社刊『日経エンタテインメント!』編集部調査による「お笑い芸人人気調査」において、「嫌いな芸人ランキング」の第1位を獲得した(これまで江頭2:50が9年連続トップに君臨していたが、紳助が江頭のV10を阻んだ。ちなみに、好きな芸人ランキング1位は同期の明石家さんま)[2]。

芸能人時代晩年ではNHK『NHK紅白歌合戦』の司会を目指していた[3]。なお実際、2008年前後にはマスコミ報道で紅白司会起用の可能性が幾度か取り沙汰された[4]。同じく日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内チャリティーマラソンのランナー候補に挙がっていると報道されたこともある[5](引退後、「紳助が同チャリティーマラソンに挑戦して芸能界復帰」との報道がされたこともある)。

2011年8月23日、最後のテレビ出演となった『開運!なんでも鑑定団』の放送終了直後、暴力団関係者との「黒い交際」を理由に引退を宣言し、この日を以って芸能界を引退した。警察では、深い交際があったのではないかと捜査を進められた[6]。(詳細後述)

一方、民事裁判で、暴力団交際報道の記事について講談社を名誉棄損で訴えた件では、複数の建設会社社員らに対する現代側の取材内容について「具体的かつ詳細で、内容に不自然な点はない」と指摘し、「少なくとも記事の重要部分を真実と信じる相当の理由があった」と認め、東京地裁は紳助側の主張を退けた[7]。

引退となる2日前、『24時間テレビ34』『行列のできる法律相談所』の生放送に立て続けに出演しており、『24時間テレビ34』のチャリティーマラソンを完走した徳光和夫に対し、『行列のできる法律相談所』の生放送内で「今日でテレビは引退のようなものだから、今後は楽しんでテレビに出てほしい」と述べる場面があった。

3月23日生まれの有名人「黒澤明」



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黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢明、1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者。妻は元女優の矢口陽子。

映画史の中で最も重要かつ影響力のある映画監督の一人であり、ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出した。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られており、作品もアカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で受賞され、多大な評価を得ている。また、北野武、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの映画人にも大きな影響を与えており、「世界のクロサワ」と呼ばれた。

映画監督として初めて文化勲章と国民栄誉賞に選ばれている。ほかの栄典・称号に文化功労者、従三位、東京都名誉都民など。1990年に日本人初のアカデミー賞名誉賞を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。

経歴編集

生い立ち
1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅に[1]、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる[2][注釈 1]。父・勇の生家は秋田県中仙町(現在の大仙市中仙町豊川)の士族の家で、先祖は安倍貞任の三男・黒澤尻三郎[要検証 ]である[3][注釈 2]。勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、その後日本体育会(現在の日本体育大学)の理事となって、併設された荏原中学校の要職も歴任した。

1916年(大正5年)、森村学園附属幼稚園に入園。この頃、映画を観ることを「教育上に好ましい」と語る父に連れられてよく映画見物に出かけていた。黒澤はウィリアム・S・ハート(英語版)[注釈 3]主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたという[1]。翌1917年(大正6年)、同学園尋常小学校に入学。

1918年(大正7年)、勇が不正経理を追及され、理事の職を解かれた。そのため大井町から小石川区西江戸川町(現在の文京区水道一丁目)の借家に移り、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学した。

小学校低学年の頃、気の弱かった黒澤は、泣き虫でいじめられっ子だった。しかし3年生の時、図画の時間に描いた絵が個性的すぎてみんなに笑われる中、担任だった立川精治はこの絵を褒めた[4]。それ以来絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった[1]。後に黒澤は立川を「生涯の恩師」と語っている[4]。さらに実兄の丙午(須田貞明)[注釈 4]から厳しい指導を受けたことや、終生の友となる級友の植草圭之助に出会ったこと[注釈 5]、父の名で剣道を始めたことなどで、心身ともにたくましくなり、卒業式では総代として答辞を呼んだ[1]。

卒業後、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を受験するも失敗[5]し、京華中学校に入学。在学中に同舟舎洋画研究所に通う[1]。中学時代からドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読みふけり、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。また、学友会誌に作文「蓮華の舞踏」と「或る手紙」を載せ、国語教師の小倉要逸に「創立以来の名文」と絶賛された。

1927年(昭和2年)、中学を卒業した黒澤は画家になることを志し、美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を受験するが失敗。しかし画家の道は諦めず、川端画学校に通って洋画を勉強した[1][注釈 6]。1928年(昭和3年)、二科展に「静物」が入選。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。1929年(昭和4年)、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。当時黒澤は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという。

同年12月、第2回プロレタリア美術大展覧会に「建築場に於ける集会」「帝国主義反対」「農民習作」「農民組合へ」「労働組合へ」の5つの政治色の強い作品を出品。1930年(昭和5年)に徴兵検査を受けるが、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除されている。この頃から一時期だけ非合法な政治活動に参加し、街頭連絡員として地下に潜っていた[1]。

映画界入り
1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、新聞広告で見たP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して4月に入社した。

谷口千吉の推しによって、主に山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、『藤十郎の恋』や『綴方教室』などを担当した。また、山本の助言でシナリオを書くようになり、1941年(昭和16年)に書いた『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、伊丹万作からも絶賛された。翌1942年(昭和17年)に書いた『雪』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『静かなり』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。

山本監督の『馬』でB班監督を務めた際、主演した高峰秀子と一時期恋愛関係にあっていたが、山本嘉次郎が破談役となって、不実で終わっている[1][注釈 7]。

戦中、黒澤は初の監督作品として自らシナリオを書いた『敵中横断三百里』が予定されたが、新人監督としてはスケールが大きかったたため、実現しなかった。企画を見送った森田信義は後に「私の一生の最大のミステーク」と語っている[1]。

監督デビュー
1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビュー。作品はヒットし、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞[注釈 8]

終戦前の1945年(昭和20年)5月21日、監督第2作『一番美しく』に主演した矢口陽子と結婚。媒酌人は山本嘉次郎夫妻で、明治神宮で挙式を行った。同年、『虎の尾を踏む男たち』を敗戦をまたいで製作する。製作中に黒澤が敬愛するジョン・フォードが進駐軍の将官として見学に訪れていた。黒澤はこのことを後にフォードから聞いて驚いたという。一方、作品は検閲で公開を見送られ、1952年(昭和27年)にようやく公開された。

戦後第1作は、民主主義啓蒙映画の『わが青春に悔なし』で、翌1947年(昭和22年)に、焼跡の市井の人にスポットをあてた『素晴らしき日曜日』を発表し、毎日映画コンクール監督賞を受賞。東宝の看板監督の一人となった。

また1946年(昭和21年)、山本嘉次郎が審査委員長を務めた東宝ニューフェイスのオーディションにおいて、撮影助手志望だったが、何かの手違いで俳優オーディションの面接を受けていた三船敏郎を目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。1948年(昭和23年)、『醉いどれ天使』で三船を自作に起用し、以来黒澤作品の常連俳優となった。

同年3月、第三次東宝争議が発生、この影響で黒澤は山本、谷口、成瀬巳喜男、本木荘二郎、松山崇、田中友幸らと映画芸術協会を設立して組合を脱退。争議終結まで他社で映画製作を行うことになる。1949年(昭和24年)、大映で『静かなる決闘』を、新東宝で黒澤初のサスペンス映画となる『野良犬』を発表。

世界のクロサワに
1950年(昭和25年)、大映で『羅生門』を撮影。人間不信をテーマに描いたものの難解な作品であったため、国内での評価はあまり高くはなかった。しかし、海外では大きな反響を呼び、1951年(昭和26年)、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目され、「世界のクロサワ」と呼ばれるきっかけとなった。

1952年(昭和27年)、東宝復帰第1作として志村喬主演で『生きる』を発表。ヒューマンドラマの傑作との呼び声が高く、ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞した。

1954年(昭和29年)、1年以上の製作期間と大規模な製作費をかけた大型時代劇『七人の侍』を発表。作品は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。現在に至るまで映画史上の名作として国内外で高く評価されている。

さらに、原爆の恐怖を描いた『生きものの記録』、シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』、ゴーリキーの同名戯曲を江戸時代を舞台に映画化した『どん底』、娯楽時代活劇で黒澤初のシネマスコープ作品の『隠し砦の三悪人』を撮影し、黒澤の名を国際的に高めていった。

1957年(昭和32年)、第1回ロンドン国際映画祭にジョン・フォードとともに招かれ、オープニング作品として『蜘蛛巣城』が上映された。また、1958年(昭和33年)にはベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。

1959年(昭和34年)、黒澤プロダクションを設立した。黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであった(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)。その後も時代劇の傑作『用心棒』や社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』などを発表し、大監督の名声を確定させる。

1965年(昭和40年)、ヒューマニズムの傑作と謳われる『赤ひげ』を発表。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させ本作は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。

ハリウッドへ進出
ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の製作を準備。主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。

1968年(昭和43年)、日米合作『トラ・トラ・トラ!』の製作に参加する。20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督[注釈 9]となっていた。しかし、黒澤の映画作りの方法とアメリカの映画作りの方法とがうまく合わなかったり(黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されるなど)、東京から来た黒澤に反感を持つ京都太秦撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊したことなどを理由にスケジュールが大幅に遅延した。ついに製作遅延を無視できなくなった米側により事実上の解任をされ、表向きには健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされた。[注釈 10]

1969年(昭和44年)10月、木下惠介、市川崑、小林正樹らと四騎の会を結成。翌1970年(昭和45年)に山本周五郎の『季節のない街』を原作に、四騎の会で製作した初のカラー作品『どですかでん』を撮影。黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保して製作するが、商業的には失敗となる。

1971年(昭和46年)12月22日、自殺未遂事件を起こす。日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。

1975年(昭和50年)、ソビエト連邦から招かれ[注釈 11]、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となった。

晩年
1976年(昭和51年)11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。

1980年(昭和55年)、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配して『影武者』を発表し、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1985年(昭和60年)、フランスとの合作で『乱』を公開。1988年(昭和63年)から米ワーナー・ブラザーズの製作とスティーブン・スピルバーグの提供で『夢』の製作に取り掛かり、1990年(平成2年)に公開された。以上の3作はいずれも外国資本参加によって製作された。

1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。

1986年(昭和61年)、第58回アカデミー賞に出席。『乱』で監督賞などにノミネートされたほか、衣裳デザイン賞でワダ・エミが受賞。黒澤はビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンとともに作品賞のプレゼンターを務める。

1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。

死去

鎌倉市の安養院にある黒澤の墓。
遺作となった『まあだだよ』公開後、山本周五郎の二つの短編作品を脚色した『海は見ていた』のシナリオを執筆。1995年(平成7年)から『雨あがる』の脚本執筆に取り掛かるが、3月に京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入るが、1998年(平成10年)9月6日午後0時45分、脳卒中により死去。88歳没。

また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治が後を追うような形で死去。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。没後、『雨あがる』が2001年(平成13年)に小泉堯史監督によって、『海は見ていた』が2004年(平成16年)に熊井啓監督によってそれぞれ映画化された。

3月20日生まれの有名人「上岡龍太郎」



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上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年3月20日 - )は、日本の元漫才師、タレント、司会者である。本名、小林 龍太郎。旧芸名、横山 パンチ、伊井 パンチ[1]。他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)として高座に出演。また、落語立川流の門下でもあり、高座名・立川右太衛門を持つ。上岡劇団座長。二人兄妹の長男。

京都府京都市出身。2000年に芸能界を引退した。長男は映画監督の小林聖太郎。

経歴編集

父親は高知県幡多郡下川口村大津の出身で京都帝国大学法学部を出た弁護士だった[2]。母親は宮崎県の出身で、上岡が小学4年生の時に乳癌のために早世した[2]。
資産家で高学歴の出だった母は家事雑事を使用人に任せ、育児を子供の勉学に充てていた。母はあまり良い顔をしなかったが、龍太郎少年は香具師や芝居、歌舞伎や映画に熱中。この頃の将来の夢は芝居役者だった。
私立京都西高校(現・京都外大西高等学校)第一期生として卒業。高校在学中にロカビリーが流行し、その気に感化される。
「同じ落ちるのならレベルの高い大学を受験しよう」と立命館大学の入試に挑み落第。これを境に以降、本格的に芸能の道を進むことになる。
京都西高校卒業後は京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。軽やかな口跡が知られ、ハンサムな司会者[3]として有名になる。
1959年 浜村淳に弟子入りを懇願したが断られ、浜村の紹介でロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入。
1960年 横山ノックの誘いにより、「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。
1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により、漫画トリオ活動停止。以後、同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」と改名した後、自ら上岡龍太郎を名乗るようになるが、漫画トリオの停止当初はほとんど仕事が無く、「ホサれていた」時期として有名[4]。
1970年代、少しずつ近畿放送、朝日放送、ラジオ大阪といった関西圏の放送局でレギュラーを獲得。その一方で中部日本放送でもレギュラーを獲得し、関西圏と中京圏双方を拠点に活動する。
営業も自ら行い、レギュラーを獲得していったそのバイタリティが認められ、かつての相方のノックの誘いにより『ノックは無用!』『ラブアタック!』『花の新婚!カンピューター作戦』などで司会者を務め、関西・中京ローカルながら一軍のタレントに昇格する。長年、番組中や楽屋裏では「俺は絶対に東京に行かへん!」と語っていたが、1985年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した後、それまで東京では忘れられていた元漫画トリオの横山パンチ=上岡龍太郎として認知され、往時のファンたちが各局のディレクターやプロデューサーに昇格していたことから、やがて東京でも数多くのレギュラー番組を獲得するに至る。
1987年 読売テレビ『鶴瓶上岡パペポTV』が放送を開始。同番組は翌年10月から日本テレビでも放送され、これが東京進出への決定打となる。
1988年 朝日放送『探偵!ナイトスクープ』が放送を開始。
1990年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。
2000年4月 以前から放送で「俺は、芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する!」と公約していた通りに芸能界を引退。

3月19日生まれの有名人「ブルースウィルス」



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ウォルター・ブルース・ウィリス(Walter Bruce Willis, 1955年3月19日 - )は、ドイツ生まれのアメリカ人俳優であり、プロデューサー、ミュージシャンでもある。彼のキャリアは1980年代から始まり、それ以来コメディ、ドラマ、アクションといったジャンルで、テレビと映画の両方で活躍している。『ダイ・ハード』シリーズの主人公ジョン・マクレーン役でよく知られている。他にも60作品以上に出演し、『パルプ・フィクション』(1994年)、『12モンキーズ』(1995年)、『フィフス・エレメント』(1997年)、『アルマゲドン』(1998年)、『シックス・センス』(1999年)、『アンブレイカブル』(2000年)、『シン・シティ』(2005年)、『森のリトル・ギャング』(2006年)、『RED/レッド』(2010年)のように興行的成功を収めた作品も多い。

彼は2度エミー賞とゴールデングローブ賞を受賞し、4度サターン賞にノミネートされた。ウィリスはデミ・ムーアと結婚し、2000年に別れるまでに3人の子供をもうけた。現在はモデルのエマ・へミングと結婚しており、1人の娘が生まれた。左利き。身長183cm。

生い立ち編集

ウィリスは西ドイツのイーダー・オーバーシュタインで生まれる。彼の母親マレーネ・Kはドイツ人であり、カッセルに近いカウフゲンの出身。父親のデイヴィッド・ウィリスはアメリカ人兵士でアイダホ州南東部のイングランド系の家庭に生まれた[1][2][3]。ウィリスは4人目の子供であり、姉のフィレンツェ、兄のデイヴィッド、そして2001年に42歳で膵癌によって死亡した兄のロバートがいた[4]。ウィリスの父親は1957年に除隊すると家族を連れてニュージャージーのカーニーズ・ポイントに引っ越した[5]。母親は銀行で働き、父親は溶接工のマスター・メカニックと工場労働者になった。ウィリスはペンス・グローヴ高等学校に通った。彼はここで吃音に悩まされる。だがステージの上で自分自身を表現すると吃音はすぐに消えた。ウィリスはその後もステージで演じ続け、高校では演劇部に所属、生徒会長も務めた。

高校卒業後、ウィリスはセイラム原子力発電所[6][7]で警備員として働いた。他にもディープウォーターのデュポンで輸送業者や工場労働もした[7]。

私立探偵として働いた後(彼はテレビシリーズ『こちらブルームーン探偵社』と1991年の映画『ラスト・ボーイスカウト』で私立探偵役を演じる)俳優として活動した。モントクレア州立大学の演劇部に入り、クラスで戯曲『熱いトタン屋根の猫』を演じた。ウィリスは3年生で大学を中退するとニューヨーク市に移り住んだ[2]。

いくつかのオーディションを受けた後、オフ・ブロードウェイの Heaven and Earth でデビューを果たす。彼は Fool for Love によく出演して経験を積んだ上、リーバイスのコマーシャルにも出演した。

キャリア編集

キャリアの始まり

1989年、第61回アカデミー賞でのウィリス
オーディションを受けるため、ウィリスはニューヨークを離れてカリフォルニアに渡った[2]。1984年、テレビシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』の「地対空ミサイル強奪!武器密輸ルートを追え」に出演した[8]。その後シビル・シェパード主演『こちらブルームーン探偵社』(1985年 - 89年)のデビッド・アディスン・ジュニア役のオーディションを受けて3000人の候補者の中から選ばれた[9]。このシリーズはシーズン5まで続き、彼はコメディ役者としての地位を確立する[5]。

1987年、ブレイク・エドワーズの作品『ブラインド・デート』でキム・ベイシンガー、ジョン・ラロケット[5]と共演する。エドワーズ監督は『キャデラック・カウボーイ』(1988年)でウィリスを再び起用する。このとき彼は実在のカウボーイトム・ミックス役だった。さらにその後『ダイ・ハード』(1988年)に出演し、彼が予期しなかったほどのスターとなる[5]。この映画の中ではほとんどスタントなし[10]で演じた。世界興行収入は140,767,956ドルを記録した[11]。1980年代後半にはウィリスはレコーディング・ミュージシャンとしてある程度の成功をおさめた。

1990年代
『ダイ・ハード』のジョン・マクレーン役で成功したウィリスは続編である『ダイ・ハード2』(1990年)と『ダイ・ハード3』(1995年)にも出演した[5]。この『ダイ・ハード』3部作はアメリカで7億ドルを超える興行収入を得て、ウィリスはハリウッドの人気スターになった。

1990年代、ウィリスは『虚栄のかがり火』や『ハドソン・ホーク』といった主演映画の赤字に苦しんだ。他にも『薔薇の素顔』は批評家たちに酷評されたが高評価も受け、この映画は1995年のアメリカで最もレンタルされている映画トップ20にランクインした。1994年、彼はクエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』で絶賛される。これが新たな弾みとなり、1996年のカートゥーン Bruno the Kid でエグゼクティブ・プロデューサーを務め、自らをCGIで表現した[12]。

『12モンキーズ』(1995年)と『フィフス・エレメント』では世界を救う男を演じた。90年代後半には『ジャッカル』や『マーキュリー・ライジング』、『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』に出演するもさほど評判にはならなかった。1998年のマイケル・ベイ監督作品『アルマゲドン』は世界的に大ヒットし、同年、プレイステーションのゲーム『アポカリプス』に主人公の外見と声の出演をした[13]。1999年のM・ナイト・シャマラン監督作品『シックス・センス』は興行的に成功しただけでなく、ウィリスの演技力も高い評価を受けた。

2000年代 - 2010年代

2002年のウィリス
2000年、ウィリスは『フレンズ』への出演によってエミー賞[14]ゲスト男優賞コメディ部門を受賞した(彼はこのドラマの中でロス・ゲラーのはるか年下のボーイフレンドの父親を演じた)[15]。2001年にも『フレンズ』でアメリカンコメディ賞(シリーズにおかしな男の役でゲスト出演した)にノミネートされた。そして2000年に『隣のヒットマン』にジミー・“チューリップ”・チュデスキ役で出演し、マシュー・ペリーと共演した。また、『オーシャンズ11』(2001年)でテリー・ベネディクト役で出演予定だったがアルバムのレコーディングのために断った[16]。その後『オーシャンズ12』(2004年)に本人役でカメオ出演を果たしている。2007年、『グラインドハウス』の『プラネット・テラー in グラインドハウス』にヴィランのミュータント兵士役で出演した。ウィリスはこの作品で『シン・シティ』に続きロバート・ロドリゲス監督とタッグを組んだ。

ウィリスは何度かアメリカの人気テレビ番組「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」に登場した。またこれまでにサミュエル・L・ジャクソンといくつかの映画で共演している(『ローデッド・ウェポン1』、『パルプ・フィクション』、『ダイ・ハード3』、『アンブレイカブル』)。他にも娘であるルーマー・ウィリスと2005年の映画『ホステージ』で共演した。


第59回カンヌ国際映画祭でのウィリス
2007年にはハル・ベリー主演のスリラー『パーフェクト・ストレンジャー』と、犯罪ドラマ映画でシャロン・ストーンが出演している『アルファ・ドッグ 破滅へのカウントダウン』に登場した。そして『ダイ・ハード4.0』で再びジョン・マクレーンに扮した。最近では『トラブル・イン・ハリウッド』や同名コミックが原作の[17]『サロゲート』で姿を見せている。

ウィリスは2010年2月のケヴィン・スミス監督作品『コップ・アウト 〜刑事した奴ら〜 』でトレイシー・モーガンと共に盗まれた野球選手のカードを追う刑事を演じた[18]。また、ゴリラズの「スタイロ」のミュージック・ビデオにも出演した[19]。同年には『エクスペンダブルズ』で、80年代を代表するアクションスターであるシルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーとの共演を果たした。彼は“ミスター・チャーチ(「教会」という意味)”として登場した。この3人が共演するのはこのときが初めてである。共演シーンは短かったものの、そのシーンは映画の見所として期待されていた。3人は2009年の10月24日に空の教会でこのシーンの撮影をした。最近の出演作品で有名なものの中にに『RED/レッド』がある。同名コミック・ミニシリーズの映画化作品である。2010年に公開されたこの映画で彼はフランク・モーゼズ役を演じた。

『ムーンライズ・キングダム』ではビル・マーレイ、エドワード・ノートン、フランシス・マクドーマンドと共演した。監督はウェス・アンダーソン、撮影はロードアイランド州で行われた[20]。また、『エクスペンダブルズ2』(2012年)にも出演した。SFアクション映画『LOOPER/ルーパー』(2012年)ではジョゼフ・ゴードン=レヴィットと共演しゴードン=レヴィットが演じたキャラクター、ジョーの未来を演じた。

ウィリスはデイヴィッド・バレット監督作品『ファイヤー・ウィズ・ファイヤー 炎の誓い』で50セントと共演した。主演はジョシュ・デュアメル[21]。他にもヴィンス・ヴォーンやキャサリン・ゼタ=ジョーンズが出演する『噂のギャンブラー』に登場。スティーヴン・フリアーズが監督を務めている。この映画はラスベガスのカクテルウェイトレスが一流のギャンブラーになる物語である[22]。この2作品の配給はライオンズゲートとなっている。

3月18日生まれの有名人「エドガーケイシー」



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エドガー・ケイシー(Edgar Cayce, 1877年3月18日 - 1945年1月3日)は、予言者、心霊診断家。支持者からは「20世紀最大の奇跡の人」と称される人物である[要出典]。

概要編集

彼はリーディングと呼ばれる催眠状態における情報の引き出しによる業績が有名であり、相談内容の多くが速記により記載された希有な例である。彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、主としてアカシックレコード(アカシャ記録)から情報を引き出す。個人の疾患に関する質問に対して、体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。彼のリーディングの記録は14000件にもおよび、米国のAssociation for Research and Enlightenment(ARE) で利用可能な状態で保管されている。同社団からは「眠れる予言者(Sleeping prophet)」と言われている。米国で流行するニューエイジはケイシーリーディングに影響を強く受けていると言われ、代替医療、アトランティス神話、UFO宗教、ヨガ、瞑想、輪廻転生等の東洋的な思想の普及に一役買っている。ちなみに、ニューエイジ思想は、「キリスト」と自らのヨガ等の瞑想によって接触ができるとするなど、キリスト教と似て非なるものなっていることから、エドガーケイシーも含めてローマ教皇庁から注意喚起が発せられている(例:ニューエイジについてのキリスト教的考察)ように、思想面ではキリスト教異端に属する。

彼の方法でALS(確認の取れているのは2名)、リウマチ、MS、エイズ、パーキンソン病、がんなど難病を治癒したと宣言する人が出てきている[要出典](効果がないという人も多数いる)。ケイシーが言ったハーブ、ミネラルを利用しがんなどの手当てをしている健康法に、ホクシー療法がある。このリーディングを参照して体系化された処方をケイシー健康法と呼び、それを応用して治療に当たるクリニックも米国にある(AREクリニック)。なお、これらの宣伝には、日本の医師法、薬事法に抵触するものも含まれており、全てに再現性はなく、リーディング結果に基づいて効くこともある程度に理解しておく必要がある(例えば「がんの治癒」や「育毛効果」は治験等の再現性が確保されていないため、明らかに医師法違反となる。当該処方では疾患の治療を目的とした事業はできないため「ケイシー療法」という表現は国内法違反であり、「ケイシー健康法」のような予防を連想させる用語が本来は正しい)。

ケイシーは自宅のソファに横たわり睡眠に近い状態で様々な過去を視ることが出来た、とされている。ケイシーはクムランにあったエッセネ派の集落の場所を正確に示し、その歴史上の役割についても詳細に述べた。11年後に死海文書が発見された事で、ケイシーの話は立証された。[1]

3月16日生まれの有名人「渋澤栄一」



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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。

正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。

経歴編集

生い立ち

天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[1]。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。

徳川慶喜の家臣・幕臣として
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。

主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。[2]

パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

大蔵省出仕〜実業家時代

大蔵省時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。

渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。

なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。

3月13日生まれの有名人「吉永小百合」



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吉永 小百合(よしなが さゆり、1945年3月13日 - )は、日本の女優、歌手である。本名、岡田 小百合(おかだ さゆり)。東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士(早稲田大学)。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。

経歴編集

1957年(昭和32年) - 渋谷区立西原小学校6年生の時、ラジオ東京(現 TBSラジオ)の連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビュー。10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。
1959年(昭和34年) - 松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
1960年(昭和35年) - 渋谷区立代々木中学校卒業、都立の名門校東京都立駒場高等学校全日制普通科入学。同時に日活撮影所に入社。
1961年(昭和36年) - 私立精華学園女子高等学校(現在の 東海大学付属望洋高等学校)転入学。
1962年(昭和37年) - 高校在学中、『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)にヒロイン役で出演、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞(17歳での受賞は2012年時点で史上最年少記録)。ビクターから『寒い朝』でレコードデビューし20万枚のヒット。橋幸夫とのデュエットで30万枚の大ヒットとなった『いつでも夢を』で「第4回日本レコード大賞」受賞。この頃から日活の清純派女優として浜田光夫とコンビを組む。同年3月31日からイタリアのミラノで開かれた「ミラノ国際見本市」の中で、4月15日から4月19日まで開催された『ミラノ日本映画見本市』のため、4月10日、清水雅(東宝社長)を団長として、川喜多長政、奥山融、そして、他の映画会社各社代表女優の佐久間良子(東映)、星由里子(東宝)らと共に日活代表女優としてイタリアへ出発。岸惠子が日本からではなく現地参加でミラノで合流している。吉永は星と共に同国のヴェネツィアも訪れている。4月25日、帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なイタリア訪問となった。
1965年(昭和40年) - 大学入学資格検定に全科目合格は出来ていなかったが早稲田大学に高卒と同等以上の学力があると認められ早稲田大学第二文学部西洋史学専修に入学(俳優業多忙のため、精華学園女子高校は中退していた)。
1969年(昭和44年) - 多忙な中、早稲田大学第二文学部西洋史学専修を正規の4年間、しかも次席で卒業。日活と契約更新(特記事項を参照)。
1973年(昭和48年) - フジテレビディレクター岡田太郎(後の共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任)と結婚。15歳差だった。
1982年(昭和57年) - ドラマ『続 夢千代日記』に対して、第19回ギャラクシー賞・選奨を受賞[1]。
1985年(昭和60年) - 『おはん』、『天国の駅』の演技で、「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」初受賞。以降、1989年(平成元年)、2001年(平成13年)、2006年(平成18年)と、最優秀主演女優賞を計4度受賞(歴代1位)している。
1988年(昭和63年) - 『つる』(市川崑監督)に主演し、映画出演は通算100作品となる。
1997年(平成9年) - 朗読CD『第二楽章』で「第39回日本レコード大賞企画賞」受賞。
2002年(平成14年) - 平和記念資料館(広島市)に導入された音声ガイドのナレーションをボランティアで担当。
2003年(平成15年) - 上記ナレーションや、同じくボランティアである原爆詩の朗読などの平和活動が評価され、「第15回谷本清平和賞」受賞。
2005年(平成17年) - 第56回NHK紅白歌合戦では、山梨県からの中継で原爆詩を朗読した。
2006年(平成18年) - 紫綬褒章、受章
2008年(平成20年) - 2月に主演映画『母べえ』がベルリン国際映画祭出品のためベルリンへ往く。
2010年(平成22年) - 文化功労者。
2011年(平成23年) - 7月31日に広島国際会議場の原爆詩朗読会で「世の中から核兵器、原子力発電所がなくなってほしい」と訴えた。朗読会は日本母親大会の特別企画[2]。
2014年(平成26年) - 自身初のプロデュース作品『ふしぎな岬の物語』がモントリオール世界映画祭で審査員特別大賞を受賞。同作で第38回日本アカデミー賞優秀主演女優賞受賞[3]。
2014年(平成26年) 2014年12月発売の映画雑誌『キネマ旬報』創刊95周年記念『オールタイム・ベスト 映画遺産 日本映画男優・女優100』にて女優20位に選出された[4]。

3月12日生まれの有名人「勝海舟」



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勝 海舟(かつ かいしゅう) / 勝 安芳(かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日-明治32年(1899年)1月19日)は、江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。

概要編集

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱。

10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

3月11日生まれの有名人「クリスチャンラッセン」



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クリスチャン・ラッセン(Christian Riese Lassen、クリスチャン・リース・ラッセン、1956年3月11日[1] - )は、アメリカ合衆国の画家である。

経歴編集

カリフォルニア州の海沿いにあるメンドシノ(英語版)[2]出身。10歳のときに家族と共にハワイ島へ渡り[3]、後にマウイ島へ移住した[2]。

技法編集

空(そら)の部分などにはエアブラシも用いるという[2]。

活動編集

音楽活動も行っており、1998年10月には、ファースト・アルバムのプロモーションのため来日した[2]。来日展が開催される際は、テレビCMが流れることもあった[4]。

2005年にテレビ朝日のバラエティ番組『ロンドンハーツ』の企画で、青田典子のヘアヌードを描いている[5]。

2013年12月23日にももいろクローバーZが西武ドームでライブを行ったが、この会場で限定リリースした記念シングル『泣いちゃいそう冬 / 鋼の意志』のジャケットアートワークを手がけた[6]。

3月6日生まれの有名人「ハイセイコー」



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ハイセイコーは、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。

※馬齢は旧表記に統一する。

概要編集

1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた[1]。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え[2][3]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり[4]、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった[5]。5月27日に東京優駿で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく[6][7][8]、むしろ高まり[9][10]、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった[11]。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる[12]。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ[13]、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている[14]。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され[15]、顕彰馬に選出された。

競走馬引退後は種牡馬となり、自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に同牧場で死亡した。

3月2日生まれの有名人「カレンカーペンター」



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カレン・アン・カーペンター(Karen Anne Carpenter、1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、カーペンターズのヴォーカリスト、ドラマー。血液型はO型。

声の美しさについては、ポール・マッカートニーやジョン・レノンも絶賛したという。親日家でもあった。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第94位[1]。

「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位[2]。

生涯編集

アメリカ合衆国コネチカット州のニューヘイヴンに生まれる。家族は1963年にロサンジェルス郊外へ転居した。その頃、兄のリチャードが近所の公園のコンサートでピアノを弾いていた際、兄に促されてスキータ・デイヴィスのヒット曲「この世の果てまで」を歌った。これが、兄妹一緒に人前で行った初めての演奏となる[3]。ただし、13歳の頃は、将来は看護師か画家になるのが夢だったという[3]。

兄と同じダウニー高校では、マーチングバンド部に所属。兄のリチャードが音楽で才能を開花させていた影響を受けて、10代半ばになるとドラムを叩き始める。しかし以前にサックスやフルートをやったが挫折していたので、両親や兄リチャードは続くかどうか半信半疑だったという。しかしカレンはドラムに没頭し、練習を繰り返したという。スペクトラムに始まり、カーペンターズとして活動し始めた当初まで、ドラムとボーカルを担当した。本格的にボーカルのトレーニングを受けにいくと、トレーナーから「あなたには、何も教えるものはない。」と言われたことから、彼女には歌手としての天性の素質があった。その後、カーペンターズとしての活動が活発になり、ステージに立つことが多くなったこともあり、リチャードの意向を受けてヴォーカル専門に活動するようになった(カレンがタムの多いドラムを好んで使っており観客席から見えにくいというのも一因であった)。カーペンターズはカリフォルニア州を中心として、世界的に活動した。

子供が大好きで、彼女自身、子供のような無邪気さと純粋さを持っていて周囲の人から好かれていた。だが、自らの体型については太りすぎという固定観念を持っており、やがて精神的な病となっていった。ある日、カレンは兄リチャードに「ねえ、お兄ちゃん。私って太ってる?」と聞いたという。するとリチャードは「あぁ、ちょっとな」とさり気なく答えた。事実、その頃のカレンは平均的な女性と比較してぽっちゃりしていた。その兄の言葉を受けたカレンは、「絶対に痩せてやる!!」と発奮。ダイエットに励むようになったが、それが彼女の寿命を縮める結果となってしまった。

1974年、3度目の来日時に、リチャードと共に和服姿の写真を撮影、翌年発売されたライブアルバム「CARPENTERS LIVE IN JAPAN」 に付録としてその写真が添付され、カレンによると、この頃が最高に太っていたという(1987年にCDとして発売された物には、その写真はない)。

カレンはいつの頃からか摂食障害(拒食症)に悩まされるようになる(音楽誌にFat Sister「太っちょカレン」と書かれた事が原因の一説として囁かれている)。後のセラピーの過程で親子関係が背景にあると見られている。このため、1975年に予定されていた日本公演が、中止となった。当時の招聘先である、キョードーのコメントは「神経性食意不振症」によるものであった。

リチャードが睡眠薬依存症のリハビリを行っていた1980年にソロ活動を行うが、曲が公開されるのは、カレンの死後となる(体が弱っていたことや、成熟味を持ちすぎている[4]という意見から当時は兄や会社側から反対があり、最終的にカレン自身が発表を断念した[5])。アルバムは『遠い初恋』(原題:「カレン・カーペンター」)として1996年にリリースされた[6]。

1980年、若手実業家のトム・バリスと結婚をするも、翌年暮れには破綻。離婚同意書にサインする直前(約束の6時間ほど前)に彼女が死去したため、現在も既婚のままとなっている。

1983年2月4日早朝、両親の家で意識不明になっているところを発見され、同日死去した。32歳の若さだった。死因は急性心不全。長期の闘病生活が心臓に負担をかけていたと思われる。なお、映画「カレン・カーペンター・ストーリー」によれば、晩年は過食症と拒食症の症状が繰り返し起こっており、死去前日は食欲が少し出てきたところで翌日亡くなった事になっている。彼女の死は社会に衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった。

カレンの遺体はカリフォルニア州オレンジ郡のForest Lawn-Cypressに埋葬されていたが、2003年末に兄リチャードの自宅に近いロサンゼルス郡のPierce Brothers Valley Oaks Memorial Parkに改葬された。
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