ミラクル大仙人の開運神社参拝

ミラクル大仙人が紹介する日本全国の開運神社、パワースポットです。あなたにぴったりの開運神社を見つけて参拝いたしましょう。

11月が誕生日の有名人

11月27日生まれの有名人「秋山真人」



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秋山眞人(あきやま まこと、1960年 - )は、国際気能法研究所代表。精神世界(スピリチュアル).パワースポットを研究、執筆する。国内外の占術、伝承、風水、神話などにも精通している。これらの関連の著作などが多数ある。



著作編集

文庫等
超能力開発マニュアル(朝日ソノラマ)1986年07月
超魂(トレンド出版)1987年04月
超自己を発見する大成功のテクニック(トレンド出版)1987年12月
愛情を得るための超能力(ボストン・クラブ)1988年07月
成功と財力向上のための超能力(ボストン・クラブ)1988年07月
健康コントロールのための超能力(ボストン・クラブ)1989年02月
秋山真人の語りあかそう超能力(三交社)1990年03月
UFOと超能力の謎(日東書院)1990年12月
超能力者への道(きこ書房)1991年02月
超能力への挑戦(集英社)1991年07月 ※カセットテープ付文庫。音楽:宮下富実夫
驚異の偶然の一致(二見書房)1994年06月
気を啓く(ハートピア計画)1994年09月
超能力おもしろ実験室(河出書房新社)1995年04月
奇跡の超能力者(竹書房)1995年05月
大教祖様養成講座(イーハ・トーヴ)1995年05月
新新宗教完全解読マニュアル(ジュピター出版)1995年07月
超能力と人体の不思議関係(雄鶏社)1995年09月
気で心と体が変わる(TBSブリタニカ)1995年09月
心のコリをほぐす本(ジュピター出版)1995年10月
マインドストリップ(幻冬舎)1996年05月
潜在能力開発法(ごま書房)1996年07月
運命を変える気能力(元就出版社)1997年02月
第六感の法則(ごま書房)1997年03月
私は宇宙人と出会った(ごま書房)1997年04月
占いで心を癒す(ほるぷ出版)1997年04月
報道できなかった偶然の一致(竹書房)1997年06月
成功脳をつくるための実践イメージトレーニング法(ごま書房)1997年07月
第六感で生きる(サンマーク出版)1998年02月
癒される人生は必ずある(ごま書房)1998年07月 ※共著:江戸稔
物の気の超開運学(新星出版社)1998年09月
燃える人生の創造(ごま書房)1998年11月
フェアリーキティの開運辞典(サンマーク出版)1998年12月
結婚恐怖症(キルタイムコミュニケーション)1999年01月 発行
学校恐怖症(キルタイムコミュニケーション)1999年10月 発行
遠隔透視術(PHP研究所)1999年11月
超能力ふしぎな大実験(青春出版社)1999年12月
秋山眞人の優しい宇宙人(求龍堂)2000年10月 ※共著:坂本貢一
令子(新生出版)2003年04月
スピリチュアル前世リーディング(学習研究社)2004年07月
開運!夢診断(PHP研究所)2005年12月
死後世界地図 日本編(コスモトゥーワン)2006年11月
愛されるための超恋愛夢診断(クレイヴ)2009年01月
正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド①(ヒカルランド) 2012年1月 ※共著:竹内 睦泰、布施 泰和
願望実現のための[シンボル]超活用法(ヒカルランド) 2012年7月
正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド②(ヒカルランド) 2012年8月 ※共著:竹内 睦泰、布施 泰和
正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド③(ヒカルランド) 2013年1月 ※共著:竹内 睦泰、布施 泰和
不思議だけど人生の役に立つ 神霊界と異星人のスピリチュアルな真相(成甲書房) 2013年10月 ※共著:布施 泰和
UFOスピリチュアル対談 中丸薫×秋山眞人(学研パブリッシング) 2014年1月 ※共著:中丸薫
楽しめば楽しむほどお金は引き寄せられる(コスモトゥーワン) 2014年2月 ※共著:布施 泰和
マイ・テンプルが幸運を引き寄せる あなたの自宅をパワースポットにする方法(成甲書房) 2014年3月 ※共著:布施 泰和
力(フォース)を使え!(JMAアソシエイツココリラ出版事業部) 2014年5月 ※共著:田口ランディ
未来のための日本の処方箋(JMAアソシエイツココリラ出版事業部) 2014年7月 ※共著:矢作 直樹
翻訳/監修担当作品
ユリ・ゲラーの反撃(きこ書房)1989年09月 原文著者:ユリ・ゲラー、ガイ.L.プレイフェア
天才たちのスーパー・インスピレーション(きこ書房)1990年07月 原文著者:C.O.マディガン、アン・エルウッド
私は宇宙人にさらわれた(三交社)1990年11月 原文著者:ジョン・リマー
アウト・オブ・ボディ(三交社)1991年04月 原文著者:ジャネット・リー・ミッチェル
アメリカ・インディアンのスーパーチャネリング(きこ書房)1991年08月 原文著者:ブラッド・スタイガー
ユリ・ゲラーのあなたも超能力者になれる(きこ書房)1992年07月 原文著者:ユリ・ゲラー
超能力を引き出す振り子パワー(きこ書房)1992年10月 原文著者:グレッグ・ニールセン、ジョセフ・ポランスキー
クリスタルベルを通した驚異の星間コンタクト キャッチされた宇宙人ヴォイス 封印された第一級資料(ヒカルランド) 2013年1月
雑誌
SP精神世界(ごま書房)全5巻

11月26日生まれの有名人「後醍醐天皇」



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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。


大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下。嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。

徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせた。それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。


正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。

幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。


帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。

建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の言を受けて親王を鎌倉に配流している。


詳細は「延元の乱」を参照
建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。


足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。

摂津国の住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏の荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。

11月25日生まれの有名人「アンドリューカーネギー」



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アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie[2], 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれのアメリカの実業家。崩れ行く橋を見て着想を得てカーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鋼鉄王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされることが多い。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、2014年の今日でも慈善活動家としてよく知られている。1889年の『富の福音』はフィランソロピーを志す人々への啓蒙書となっている。

スコットランドのダンファームリンで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカではまず織物工場で作業員として働き、後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業[要曖昧さ回避]だった鉄道への投資で築いた。

1870年代にはピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した。1901年、J・P・モルガンに4億8000万ドルで同社を売却。エルバート・H・ゲイリー(英語版)のフェデラル鉄鋼会社と合併してUSスチールとなった。

カーネギーは残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。アッパーアイオワ大学のキャンパスに図書館を建設するため、下院議長デイビッド・B・ヘンダーソン(英語版)に2万5千ドルを寄贈している[3]。ニューヨーク・カーネギー財団(英語版)、カーネギー国際平和基金(英語版)、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。最も金をつぎ込んだのはアメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでのカーネギー図書館、学校、大学の創設である。

1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた[4]。生家の一階の半分を占める部屋は隣の手織り職人一家と共有で、居間としてもダイニングルームとしても寝室としても使われた[4]。アンドリューという名前は祖父にちなんでつけられた[4]。1836年、父ウィリアム・カーネギーがダマスク織りで儲けたため、やや広い家に移り住んだ[4]。叔父のジョージ・ローダーは彼にロバート・バーンズの作品やロバート1世やウィリアム・ウォレスやロブ・ロイ・マグレガー(英語版)といったスコットランドの歴史上の偉人について教えた。


カーネギーがまだ子供の頃、母親と一緒に市場へ買い物に行った時のことである。果物屋の店先に山積みされていたさくらんぼに見入るカーネギー少年に気付いた果物屋の主人が、「さくらんぼを一つかみ分だけサービスしてあげよう」と、気前よくカーネギー少年に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで主人が「さくらんぼは嫌いなのかい?」と尋ねたが、カーネギー少年は「嫌いじゃない」と言うだけで、やはりさくらんぼに手を出そうとしなかった。 主人は不思議そうな顔をしながら、さくらんぼをつかんでカーネギー少年の帽子に入れてやった。 それを見ていた母親もやはり不思議に思ったらしく、帰宅後に「どうして自分でさくらんぼを取らなかったの?」と尋ねてみると、カーネギー少年は得意そうに、「だって、ぼくの手よりも果物屋さんの手の方が大きいから、さくらんぼをいっぱいもらえるでしょ」と答えたという。カーネギーが子供の頃から人並外れて計算高い性格であったことを物語るエピソードである。


当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関(力織機)を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカ(ペンシルベニア州アラゲイニー、2013年現在のピッツバーグ)への移住を決める[5]。移住費用も借金する必要があった。当時のアラゲイニーは貧民街だった。1848年、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。当初の週給は1.20ドルだった[6]。父は当初綿織物工場で働いていたが、リンネルを織って行商する仕事を始めた。母は靴の包装でかせいだ。



16歳のときのカーネギー。弟のトーマスと
その後何度か転職し1850年、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)[7]。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。また自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を解放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。

1853年、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットがカーネギーを秘書兼電信士として引き抜き、週給は4.00ドルになった。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。このペンシルバニア鉄道での経験は後の成功に大いに役立っている。鉄道会社はアメリカ初の大企業群であり、その中でもペンシルバニア鉄道は最大の企業だった。カーネギーはそこで、特にスコットから経営と原価[要曖昧さ回避]管理について多くを学んだ[8]。

スコットはまた、彼の最初の投資についても支援している。スコットや社長のJ・エドガー・トムソンは取引関係のある会社の内部情報を知りうる立場にあり、それを利用して株式を売買したり、代償の一部として契約相手の株式を得たりしていた[9]。1855年、スコットはカーネギーに500ドルでアダムス・エクスプレス(英語版)の株式を購入する話をもちかけ、カーネギーの母が700ドルの家を抵当に入れて500ドルを捻出した[9][10]。数年後、オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。彼はそうして得た資金を鉄道関連の会社(鉄鋼業、橋梁[要曖昧さ回避]建設業、レール製造業など)に再投資していった。そうして徐々に資金を蓄えていき、後の成功の基盤を築いた。その後も企業を設立する際にトムソンとスコットとの密接な関係を利用しており、レールと橋梁を供給する会社を設立した際にはこの二人に株主となってもらった。


南北戦争の前に、カーネギーはウードルフの会社とジョージ・プルマンの会社の合併を仲介した。プルマンは800km以上の長距離の旅行が可能な一等寝台車を発明した。その際の投資は大いに成功し、ウードルフとカーネギーの利益の源泉となった。その後もカーネギーはスコットの下で働き、鉄道のサービスにいくつか改善を施している。

1861年春、軍隊輸送の責任者(陸軍次官補)に任命されたスコットはカーネギーを東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命した。カーネギーは南軍によって寸断されたワシントンD.C.までの鉄道路線の再建を支援した。ブルランでの北軍の敗北の直後にワシントンD.C.への北軍の旅団を輸送する機関車に乗り込み、敗軍の輸送も現場で監督した。彼の指揮下で電信サービスは効率化され、北軍が最終的に勝利する一因となった。

南軍を打ち負かすには大量の弾薬を必要とし、補給には鉄道(と電信)が大いに活用された。この戦争で産業の重要性が明らかとなった。


南北戦争の際、艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に使用するため鉄鋼の需要が高まり、ピッツバーグは軍需産業の一大拠点となっていた。カーネギーは戦前から製鉄業に投資しており、それが富の源泉となった。

南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、製鉄業に専念するようになった。いくつかの製鉄所を創業し、最終的にピッツバーグでキーストン鉄橋会社(英語版)(1865年)とユニオン製鉄所を創業。ペンシルバニア鉄道は辞めたがその経営陣(スコットやトムソン)とは密接な関係を保っていた。その関係を利用し、キーストン鉄橋会社が鉄橋[要曖昧さ回避]建造の契約を結び、製鉄所がレール生産の契約を結んだ。また、スコットとトムソンには彼の会社の株主になってもらい、ペンシルバニア鉄道は彼の最大の顧客となった。最初の製鋼工場を建設した際は、トムソンの名を冠した。カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した[11]。セントルイスでミシシッピ川をまたいで建設されたイーズ橋(1874年完成)では、キーストン鉄橋を通して鋼製の材料を提供すると共に、このプロジェクト自体にも出資している。このプロジェクトは、材料としての鋼の技術的優位性を実証する試金石という面があったものであるが、それが成功したことで、鋼の市場が拡大した。

1884年、ペンシルベニア州ベナンゴ郡の産油地帯にある農場に4万ドルを出資。その農場に設置した油井から1年で石油が採れ利益が上がるようになり、配当金として100万ドルを得た。


カーネギーの母は彼を結婚させなかった[12]。1886年に母が亡くなると、1887年4月22日、52歳の時、ルイーズ・ホイットフィールド(30)という女性と結婚した[12][13]。1897年、唯一の子どもである娘が産まれ[14]、母の名をとってマーガレット[要曖昧さ回避]と名付けた[15]。

カーネギーはそれまでにアメリカで個人が所有する最大の製鋼所を経営し、製鋼業で財産を形成した。彼が成し遂げた2回の重要な技術革新のうち1つは、製鋼にベッセマー法を採用して鋼を安価に大量生産できるようにしたことである。ヘンリー・ベッセマーは、炭素含有量の高い銑鉄を制御された高速な方法で燃焼させる炉を発明した。その結果鋼の価格が下がり、橋や建築用の桁や梁、鉄道レールなどに鋼が使われるようになった。2つめは、原材料の供給元を含めた垂直統合を成し遂げたことである。1880年代後半、カーネギーの会社は銑鉄、コークス、鋼製のレールの世界最大の供給業者となっており、日産2,000トンの銑鉄を生産していた。1888年、ライバルのホームステッド・ワークスを買収し、それに伴って石炭と鉄鉱石の鉱山、685kmもの長い鉄道、大型貨物船を入手した。1892年、所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。

1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜き、その大きな部分をカーネギーが所有していた。ペンシルバニア鉄道のかつての上司の名を冠したエドガー・トムソン製鋼所(英語版)、ピッツバーグ・ベッセマー製鋼所、ルーシー溶鉱炉、ユニオン製鉄所、ユニオン工場 (Wilson, Walker & County)、キーストン鉄橋会社、ハートマン製鋼所、フリック・コークス、スコットランドの鉱山などを含み、カーネギーの帝国は成長していった。

1880–1900: 著作家および活動家として
カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領[16]や政治家や著名な作家とも親交した[17]。

1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。

1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。

1886年、弟のトーマスが43歳で他界。それでも事業での成功は続いた。そのころスペリオル湖周辺の価値の高い鉄鉱山を安く購入している。イギリスへの旅行の後、その経験を An American Four-in-hand in Britain という本にして出版している。また、複数の雑誌に寄稿するようになった。例えば、ジェイムズ・ノウルズ(英語版)が編集する Nineteenth Century やロイド・ブライス(英語版)が編集する North American Review などである。

1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。

1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載[18]。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。

カーネギーは偉大なジャーナリストとしても知られており、新聞に寄稿したり編集者に手紙を書いたりした。新聞を読む習慣は幼少期のころからあった[19]。例えば、イングランドとスコットランドを旅行中に書き始めた "Round the world" と題した記事などがある[20]。

1898年、カーネギーはフィリピン独立を画策した。米西戦争終結に伴い、アメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを購入。アメリカの帝国主義に対抗すべく、アメリカからの独立を買い取れるようにフィリピンの人々に個人的に2000万ドルを提供しようとした[21]。しかし、この申し出を受ける者は現れなかった。米西戦争の結果キューバがアメリカに併合されそうになり、これにも反対した。こちらはグロバー・クリーブランドやベンジャミン・ハリソンやマーク・トウェインらと共に結成したアメリカ反帝国主義連盟による反対が若干功を奏した[22][23]。


1901年、66歳になったカーネギーは引退を考え、その準備として会社を一般的な株式会社化した。当時のアメリカ金融業界の最重要人物である銀行家ジョン・モルガンは、カーネギーは非常に効率的に利益を生み出したと評価していた。モルガンは鉄鋼業界を統一することで、コストを削減し、製品価格を下げ、大量生産し、労働賃金を上げることを考えており、そのためにカーネギーの会社や他の会社を買収して合併させ、無駄の排除を目指した。1901年3月2日、モルガンらの折衝で時価総額10億ドルを越える史上初の企業USスチールが誕生した。

チャールズ・M・シュワブが秘密裏に交渉したこの買収劇は、当時のアメリカ史上最大のものだった。モルガンが組織したトラストとカーネギーが手放した企業がUSスチールに組み入れられた。カーネギーの会社は年間売上高の12倍、4億8千万ドルで買収されており、当時最大の個人的取引だった。

カーネギーの保有していた総額2億2563万9000ドルの株式は、50年間5%の金価格債券と交換された。その株式売却の契約は1901年2月26日になされている。そして3月2日、資本金14億ドル(当時のアメリカの国富の4%に相当)のUSスチールが創設された。債券は2週間以内にニュージャージー州ホーボーケンのハドソン信託会社に運び込まれ、約2億3千万ドルぶんの債券を収めるための地下室が新たに建設された。


カーネギー(左)とジェームズ・ブライス
引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。

スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、スペル改正(英語版)運動を強力に支持した。



彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している[24]。

19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた[25]。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。

ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。


11月21日生まれの有名人「指原莉乃」



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指原 莉乃(さしはら りの、1992年(平成4年)11月21日 - )は、日本のアイドルであり、女性アイドルグループHKT48チームH[2]のメンバーである。また、尾崎充とともにHKT48劇場支配人を務める。 大分県大分市出身。太田プロダクション所属。

略歴

2007年 『AKB48 第二回研究生(5期生)オーディション』に合格し、芸能プロダクション会社AKSの所属タレントとなる。

2008年

3月1日に『チームB 3rd Stage「パジャマドライブ」』公演で、バックダンサーとして初舞台を踏んだ。
8月2日は正規メンバーに昇格し、チームBへ正式に加入。
10月22日にリリースされた「大声ダイヤモンド」で初めて選抜メンバー入り。
2009年

2月8日から開催された『チームB 4th Stage「アイドルの夜明け」』公演では、ユニット曲「愛しきナターシャ」のメンバーである片山陽加、田名部生来と3人で「チーム狩人。」を結成し、メンバー各人が「ドリアン指原」、「ディーバスセニョリータ片山」、「グロリアス田名部」と名乗り、活動した。「チーム狩人。」は2010年4月16日、『チームB 4th Stage「アイドルの夜明け」』公演の千秋楽をもって解散した。
6月から7月にかけて実施された『AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』では27位でアンダーガールズ入り。
8月23日に開催された『読売新聞創刊135周年記念コンサート AKB104選抜メンバー組閣祭り』の夜公演において、10月よりチームAに異動することが発表された(実際にチームAに異動したのは2010年7月27日)。
2010年

3月25日に行われた『AKB48 満席祭り希望 賛否両論』の夜公演において、太田プロダクションから移籍打診があったことが発表され、当時所属していたAKSから移籍した。
4月30日から、指原莉乃オフィシャルブログ「指原クオリティー」を始めた。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 17thシングル選抜総選挙「母さんに誓って、ガチです」』では19位で総選挙初の選抜入り。「涙サプライズ!」以来の選抜復帰を果たした。
8月28日、指原本人には知らされずに「ヘビーローテーション」のテレビコマーシャルに挿入する形で、「指原莉乃 改め さしこ」という改名告知が行われた。『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』出演中の名札も「さしこ」名義のものであり、AKB48公式プロフィールおよび太田プロダクション公式プロフィールも「さしこ」に変更された。しかし、翌8月29日に改名は冗談であり、単なる企画であったと発表された[3]。名札、プロフィールを変更するまでの徹底ぶり、本人のブログ記事[4] などを受け、インターネットニュースなどでは実際に「さしこに改名する」との報道がなされた[5][6]。28日は戸惑っていた指原だったが、ことの顛末を教えられ[7]、29日深夜にことの経緯について語った[8]。
9月から10月にかけて、『めちゃ×2イケてるッ!』の新メンバーオーディションに参加した[9]が、2次審査を通過した時点で、応募資格の「18歳以上、高校生不可」から外れていることが明かされ、不合格となった[10]。
10月13日発売の『月刊ヤングマガジン』(講談社)2010年11月号より、指原を主人公にした4コマ漫画「うざりの」[注 1] が連載開始。連載開始にあたり、2010年9月8日発売の2010年10月号では指原のプチグラビアとインタビューが掲載された[11]。
12月4日の午前0時から24時間以内に、ブログ更新100回に挑戦し、アメーバブログランキング1位を目指すことが同年12月3日放送分の『週刊AKB』で発表され、12月4日23時55分に目標の100回更新を達成し、翌12月5日更新のアメーバブログランキングでは当日のアクセス数3,500万ページビューを達成し歴代1位となった[12][13]。
2011年

1月12日(1月11日深夜)、AKB48メンバー初の単独冠番組『さしこのくせに〜この番組はAKBとは全く関係ありません〜』がTBSと大分放送で放送開始された。
1月21日に開催された『AKB48 リクエストアワーセットリストベスト100 2011』において、大島優子・北原里英・横山由依と4人で新ユニット「Not yet」を結成し、3月16日に「週末Not yet」でデビュー[14]。
5月20日、再び『週刊AKB』の企画で、前回の倍となるブログ更新200回に挑戦。同日午前9時よりチャレンジを開始し、翌21日午前8時53分に200記事更新を達成した[15]。200記事目には2万以上ものコメントが寄せられる[16]など、20日から21日にかけてのアクセス数は9,100万ページビューを超え、記事についたコメント数も81万件を超えた[15]。これは当時のAmebaにおける史上最大の記録となった[15]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では9位で、メディア選抜入りを果たした[17]。
10月5日から『森田一義アワー 笑っていいとも!』水曜日レギュラーとして出演(2012年4月から月曜日レギュラー)している。
2012年

1月8日に幕張メッセで開催された「上からマリコ」劇場盤発売記念大握手会において、avex traxから、自身が主演するドラマ『ミューズの鏡』の主題歌でソロデビューすることが発表された[18][19]。
2月22日、ファッションブランド「サマンサタバサ」のイメージモデルである「サマンサミューズ」に加わることを発表した[20]。
4月18日、大分市観光大使に就任[21]。
5月2日、ソロデビューシングル「それでも好きだよ」を発売[22]し、オリコンデイリー1位を獲得。
5月4日18時から24時間以内にGoogle+へ300回投稿することが、その日の読売新聞朝刊の全面広告とその日の朝投稿されたGoogle+[23]、およびその日放送の『週刊AKB』で発表され、5月5日17時3分に300投稿を達成した[24][25]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 27thシングル選抜総選挙』では4位に入り、選抜入りを果たした[26]。
6月15日付(6月16日未明)放送の『AKB48のオールナイトニッポン』において、『週刊文春』(2012年6月21日号、文藝春秋)で、過去に元ファンの男性と交際していたと報じられた記事に関して、事実でないことも記載されているとしたものの、その男性が友人であったことは認め、ファンや関係者に向けて謝罪した[27]。プロデューサーの秋元康は「明日[注 2]から」HKT48に移籍するように命じた[28]。
6月25日、自身がプロデュースするアイドルイベント『指原莉乃プロデュース 第一回ゆび祭り〜アイドル臨時総会〜』を日本武道館で開催[29]。
7月5日、HKT48劇場で開催された『チームH 1st Stage「手をつなぎながら」』公演にHKT48として初出演し[30]、公演中にチームHに所属することも発表された[2]。
7月22日、『FNS27時間テレビ 笑っていいとも!真夏の超団結特大号!!徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』で、「指原たった1人の残念ライヴ」を開催したが[31]、途中でドッキリ企画としてAKB48からかつて指原の所属したチームA・チームBのメンバーと笑福亭鶴瓶扮するツタンカーメンを模した「ツルベカーメン」が登場した[32]。
7月23日、チームAメンバーとしてAKB48劇場での最後の公演となった、特別公演『指原莉乃 壮行会』が開催された[33]。
8月12日、AKB48劇場で開催された「HKT48チームH出張公演/AKB48劇場『手をつなぎながら』公演」に出演し、壮行会から約3週間でAKB48劇場のステージに立つことになった[34]。
10月17日、2ndソロシングル「意気地なしマスカレード」を指原莉乃 with アンリレ名義で発売[35]し、オリコン週間1位を獲得した。
2013年

4月28日、日本武道館で開催された『AKB48グループ臨時総会 〜白黒つけようじゃないか!〜』最終日の夜公演にて、HKT48劇場支配人を兼任することが発表された[36]。メンバーと劇場支配人との兼任はグループ史上初[37]。これによりHKT48劇場支配人は尾崎充との二人体制となった[37]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 32ndシングル選抜総選挙』では史上最高の獲得票数 150,570票で1位を獲得し、初のセンターポジションに就くこととなった。AKB48の姉妹グループに所属するメンバーが総選挙で1位を獲得するのは史上初[38]。地元・大分市に帰郷した際には市長・釘宮磐から「15万票なんて私も獲得したことがない」と称えられた[39][注 3]。
5月12日、秋元康からのメールで、SKE48終身研究生松村香織のソロデビューをプロデュースし「曲を決めて、アレンジを発注して、指原が歌詞を書く」よう指示されたことが、同日深夜に放送された『AKB映像センター』で発表され[40]、8月16日、『AKB48・2013真夏のドームツアー』ナゴヤドーム公演初日に、予算1万円のためハットからブーツまで『AKB48新聞』で作られた衣装を着た松村によって、指原プロデュース曲「マツムラブ!」が披露された[41]。11月8日、ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー2013において、「最も笑顔が輝いた著名人」に山本裕典とともに選出された[42]。
2014年

1月11日より行われているHKT48のコンサートツアー『HKT48 九州7県ツアー 〜可愛い子には旅をさせよ〜』で、セットリストの考案も担当[43]。
1月29日、雑誌『VoCE』により、 「2013年もっともビューティな人」THE BEST BEAUTY OF THE YEARに選ばれた[44]。
5月30日に指原自らが主演する映画『薔薇色のブー子』[45]が封切り予定。ロック・シンガーの内田裕也が1985年以来のシングル盤として同年6月12日に発売する同映画の主題歌「シェキナベイベー」(エイベックス)に、内田とデュエット歌唱する形で参加することも決定している[46]。
5月から6月にかけて実施された『AKB48 37thシングル選抜総選挙』では141,954票を獲得したものの、前年の自身の獲得票数に8,600票余り及ばず、昨年の自身の獲得票を上回り過去最高の159,854票を獲得し1位となった渡辺麻友に次ぐ2位となり、初の選抜総選挙連覇を逃した。

11月20日生まれの有名人「ロバートケネディ」



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ロバート・フランシス・“ボビー”・ケネディ(Robert Francis "Bobby" Kennedy, RFK, 1925年11月20日 - 1968年6月6日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟で、兄の任命により同政権の司法長官(1961年-1964年)を務めた。

1963年に兄が暗殺された後、ニューヨーク州の上院議員選に出馬して11月に勝利したが、1968年に、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺された。兄のジョンと共に『ジャック&ボビー (Jack and Bobby) 』の愛称で親しまれた。

ロバート「ボビー」ケネディは1925年11月20日に生まれた。ジョセフ・P・ケネディおよびローズ・ケネディ夫妻の七番目の子供であった。彼はハーバード大学に入学し、海軍に従事した後1948年に同大学を卒業した。彼は法律職に対する強い倫理観を持っていたが、その成績は最高のものではなかった。

その結果ハーバード大学ロースクールに入ることができず、その代わり1951年にヴァージニア大学ロースクールから法学士 (L.L.B.) を受け、1952年に兄ジョンの上院議員選挙選のマネージャーを務めた。

その後、ジョセフ・マッカーシー上院議員によって運営され、隠れ共産党員摘発(赤狩り=マッカーシズム)の拠点となった「上院政府活動委員会常設調査小委員会」 (PSI) の下級法律顧問に就任。続いて、上院労働福祉委員会に設置された労働搾取問題を調査する小委員会「マクレラン委員会」の法律顧問となった。1956年以降は、マフィアとの癒着嫌疑があったチームスター組合幹部のジミー・ホッファを公聴会で追求することでもその名を知られた(後にこの事件を自らの視点で描いた『内部の敵』を上梓)。1959年、大統領選出馬を決めた兄・ジョンを支援するため、マクレラン委員会を辞任した。


大統領となった兄ジョンはロバートを司法長官に指名し、彼の努力に報いた。ケネディ政権中、ロバートは諮問に答える重要な役割を果たし、組織犯罪の撲滅に尽力、また大労働組合などでの不正を徹底的に追求した。兄弟が直面した重要問題の中には、1961年のキューバでのピッグス湾事件、その18ヶ月後に発生したキューバ危機、ベトナム戦争における軍事行動の段階的拡大、公民権運動の拡大と報復的暴力が挙げられる。FBIがキング牧師を盗聴する許可を司法長官に要求したことは確実であるが、ロバートがジョン・エドガー・フーヴァーに対してその許可を与えたかは定かでない。

ロバートはアメリカの法執行者で最高の地位についてから、FBI長官フーヴァーが直接大統領に接近する権利を剥奪し自分に報告させたという。このことは、ワンマン的なフーヴァーを激怒させた。ケネディ大統領顧問を務めたセオドア・ソレンセンは、その著書『Kennedy 』において「フーヴァーがロバート・ケネディを嫌った理由は、ロバートが司法長官としての権限を行使し大統領とフーヴァーとの間に立ちはだかった初めての人物だったからだ」、と述べている。

任期中に発生したピッグス湾事件およびキューバ危機は、アメリカのみならず世界の情勢を左右しかねない重大な危機であったが、兄と共に対処して最悪の事態の回避に尽力した。

在任中の1962年2月に来日。日本外国特派員協会での会見を行ったほか、早稲田大学の大隈講堂での講演も行い、大阪府枚方市の日本住宅公団香里団地も視察した。早稲田大学での講演では、聴衆の中に若き日の小渕恵三がいた(翌年小渕が渡米した際、この講演での感動を手紙に書いてロバートの秘書に手渡したところ、一週間後に面会できたという逸話がある[1])。 また、武道(合気道)家の塩田剛三の演武を見学している。初老の塩田が見せる強さに疑念を抱いたロバートは、塩田より体格のいいボディガードを立ち合わせた。塩田が手を捉えた途端まったく動けなくなったボディガードを見て大変感心したという。


ロバート・ケネディは当時アメリカで大きな問題となりつつあった人種問題にも積極的に関与した。1950年代から1960年代にかけては公民権運動が最高潮に達していたが、それに対抗する勢力も拡大しつつあった。そのひとつにリンカーン・ロックウェル(英語版)の率いるアメリカ・ナチ党(英語版)(後の米国家社会主義白人党の前身)があった。ロバートはロックウェルを陰謀罪で逮捕・起訴したが有罪判決には至らず失敗した。

1962年9月、黒人学生ジェームズ・メレディスがミシシッピ大学に人種を理由に入学拒否される、いわゆるメレディス事件(英語: Ole Miss riot of 1962、「ミシシッピ大学(Ole Miss)暴動(1962年)」)が起きたとき、ロバートはミシシッピ州知事ロス・バーネットや大学当局者の説得に当たった。また、1963年にアラバマ大学への二人の黒人学生の入学をめぐる問題では、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスに対し、二人の入学を妨害しないよう電話で説得した。このときのやり取りはテレビでも放送されたが、あくまでも黒人学生の入学を阻止しようとするウォレスに対し、「それでもあなたはアメリカの市民か!」と怒鳴りつけた。


司法長官として真っ先に取り組んだ仕事は、父親や兄ジョンと関係の深いマフィアをはじめとする組織犯罪の撲滅であった。マフィアとの関係を持つことを躊躇しなかった父や兄と違い、ロバートはマフィアを「アメリカの内なる敵」と見ていた。そのために司法省内に組織犯罪対策の特別班を結成し、徹底的な取締りを行った。

まず1961年4月4日に、当時全米闇社会でナンバーワンの実力を誇っていたと見られるカルロス・マルセロを強制逮捕し、国外追放とした。また、マフィアとの癒着を疑われていたチームスター組合のジミー・ホッファを背任横領罪の罪で起訴した。このとき陪審員の意見が分かれてホッファは放免となったが、この裏にホッファによる猛烈な陪審員買収工作や脅迫があったことを突き止め、陪審員工作の罪で再び起訴し、ホッファを刑務所送りにすることに成功した。

この頃、マフィアとの関係が深かった父親のジョセフが主席法律顧問の職を降りる様に忠告するが、耳をかさず精力的に活動し、結果数多くの敵を作った。ジョセフが忠告した理由は、禁酒法時代に築いた自分とマフィアの酒の密売をめぐる親密な関係だった。ジョセフにとってそのことは弱みでもあったからである。さらに、マフィアは上記のようにケネディの選挙の恩人であり、CIAのカストロ暗殺計画の協力者でもあった。ロバート自身がカストロ暗殺計画を知っていたかどうかについては意見が分かれる。

また、妹パトリシアと結婚したイギリス人俳優のピーター・ローフォードを通じて知り合い、大統領選挙の際に様々な貢献を行い、その後もジョンと親しい関係を持っていたフランク・シナトラと、シナトラの後見人的存在で、ジョンの選挙の際に選挙不正を手伝ってくれたシカゴのドンであるサム・ジアンカーナをジョンとケネディ政権から遠ざけた[2]。

ジアンカーナはシナトラや、ジョンと愛人関係にあったジュディス・キャンベル・エグズナーらを使って、選挙不正への関与をネタにケネディ政権と取引しようとしたが、ロバートは選挙不正が表ざたになることを恐れてジアンカーナへの締め付けを一層強め、1963年6月には完全張り込みの対象としていた。その後、司法省・商務省・国税庁を総動員して組織犯罪の本拠地ラスベガスを直撃する構想を1963年10月には完成させていたが、ケネディ大統領暗殺事件により中止となった。

ロバートが国外追放にしたマルセロは1962年、極秘裏にアメリカに戻り、司法省の強引な手法を違法であるとして裁判を起こし、勝訴した。FBIの報告によれば、1962年9月にマルセロは自身の本拠地であるニューオーリンズに全米のマフィアを集めてケネディ政権の組織犯罪潰しを罵り、彼らの暗殺を示唆している。また、ロバートの手により刑務所送りとなったジミー・ホッファは1971年に大統領特赦により釈放された。


ロバートは、当初現職のジョンソン大統領に対して1968年の大統領選で民主党の指名を狙うつもりだったという推測を否定した。彼は指名選での勝利の可能性を疑ったと共に、大統領選への出馬はジョンソンとの個人的不仲がもたらしたものと見なされることを心配した。ジョンソンが1968年3月12日のニューハンプシャー州予備選挙でミネソタ州の上院議員ユージーン・マッカーシーに対して僅差で辛勝した結果を受け、ロバートはベトナムからの即時撤退を主張し、3月16日に大統領選への出馬を表明した。二週間後の3月31日、ジョンソンはテレビでの一般教書演説で大統領選で民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。

キング牧師が暗殺された1968年4月4日、インディアナ州インディアナポリスの黒人街でケネディは警察の危険警告や側近の中止勧告を制止し、演説を敢行した。彼は「私の家族も白人の手によって殺された。今この国に必要なのは分裂ではない。今この国に必要なのは憎しみでもない」と公の場で滅多に語らなかった兄の暗殺について触れ、即興的で心のこもったスピーチで人種間の和解を訴えた。全米で暴動が相次ぎ、数千の負傷者と43名の死者が発生した中、インディアナポリスの街だけは穏やかさを保った。ケネディはキング牧師の葬列にも参加し、より一層差別撤廃の活動を強めてゆく。また、「メキシコ移民のキング牧師」とよばれた、シーザー・チャベスとの深い信頼と友情、移民の待遇改善への尽力も特記すべきである。

1968年6月に、最大の州であるカリフォルニアでの予備選に勝利した直後の5日、ロサンゼルスのアンバサダーホテルでの予備選の祝勝会で演説した後、会場を出るための近道として調理場を通る途中に難民でエルサレム出身のパレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに銃撃を受け、右脳を損傷、翌6日早朝死亡した。42歳没。銃撃の際、現場に居合わせた聴衆5名が負傷したが、全員が一命を取りとめている。遺体はアーリントン国立墓地で兄の墓のそばに埋葬された。

この事件も兄の暗殺と同じく謎の部分が多い。サーハンは暗殺動機を「ロバートが親イスラエル的言動を行ったため」と発言したものの、その後「銃撃の瞬間のことは覚えていない」と発言したことから、「サーハンは犯行時に何者かによって催眠術を施されていた」という説もある。また、銃撃直前にサーハンが会話をしていた女性がその後衣服を事件現場周辺に脱ぎ捨てたまま姿を消したほか、ロサンゼルス警察がなぜかサーハンが撃った銃弾のめり込んでいるドアを壊し、また2000枚以上の証拠写真等をなぜか早々に焼却廃棄して捜査を切り上げるなど(その後FBIが捜査を受け継いだ)、捜査状況についても不審とされる点が多い。裁判の結果、サーハンは終身刑となった。

この時代の政治家の例にもれずロバートにも敵は多く、妥協を許さない追及を受けたジミー・ホッファなどの敵対する大労働組合幹部、大労働組合との関係が深く、しかも家族と因縁の深いマフィア、KKK等の人種差別主義者、ベトナム戦争で利益を上げていた軍需企業、軍部、CIAなどの関与が噂されているが、それを実証するものはなく真実は藪の中となっている。

11月19日生まれの有名人「メグライアン」



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メグ・ライアン(Meg Ryan、本名:マーガレット・メアリー・エミリー・アン・ハイラ、Margaret Mary Emily Anne Hyra、1961年11月19日 - )は、アメリカ合衆国の女優。


ニューヨーク北東郊のコネチカット州フェアフィールド出身。父親のハリー・ハイラは数学教師、母親のスーザン・ハイラ・ジョーダンは元女優及びキャスティング・ディレクター、現英語教師[1][2]。ジャーナリスト志望でコネチカット大学に入学した後、ニューヨーク大学に編入しジャーナリズムを専攻。在学中よりコマーシャルに出演しはじめ、大学は中退した[3][4]。

大学在学中にエージェントに見いだされ、映画『ベストフレンズ』(1981年公開)でデビュー。1982年から1984年まで連続ドラマ『As the World Turns』に出演。

1986年公開の『トップガン』に出演して注目を浴びる。翌年公開の『インナースペース』で人気を獲得して、同年公開の『プロミストランド/青春の絆』でインディペンデント・スピリット賞主演女優賞にノミネートされた。

1989年公開のビリー・クリスタルと共演した『恋人たちの予感』の大ヒットによって人気を決定付ける。それ以降も、トム・ハンクスとの共演で『めぐり逢えたら』(1993)や『ユー・ガット・メール』(1998)などのロマンティック・コメディに主演しヒットを飛ばし、「ロマンティック・コメディの女王」と呼ばれ人気を博す。また、この三作品ではゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。 一方、作品選びの悪さが有名で、これまで『ゴースト/ニューヨークの幻』、『プリティ・ウーマン』、『誘う女』、『羊たちの沈黙』などのオファーを断っている。

しかし、後述する不倫騒動や演技派への転向を図って出演した『イン・ザ・カット』の失敗もあってか、近年は出演作にも恵まれず低迷している。低迷の理由には、他に整形手術を受けて顔が大きく変わったためとも指摘され、「整形でキャリアが終わってしまった」とも言われている[5]。

1991年2月14日に俳優のデニス・クエイドと結婚、1992年4月24日に長男(ジャック・ヘンリー)を出産[2][6]。2000年に『プルーフ・オブ・ライフ』で共演したラッセル・クロウとの不倫騒動の後に別居し、2001年7月16日に離婚。2008年には離婚したのは自身のクロウとの交際が原因ではなく、デニス・クエイドの浮気だったと語っている[7]。2010年頃から、シンガーソングライターのジョン・メレンキャンプと交際している。

2006年1月に中国から当時14ヶ月の女児(デイジー・トゥルー)を養子に迎える[8][9]。

民主党支持者[10][11]であり、ベジタリアンである。

芸名は「Germany」のアナグラムになっている。

11月18日生まれの有名人「岡田准一」



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岡田 准一(おかだ じゅんいち[2]、1980年11月18日[2] - )は、日本の歌手、俳優、タレントであり、男性アイドルグループ・V6のメンバーである[2]。

大阪府枚方市出身[1]。ジャニーズ事務所所属。

1995年 
日本テレビ系で放送されていた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』内のコーナー「ジャニーズ予備校」に合格する。
11月1日、V6の一員として「MUSIC FOR THE PEOPLE」でデビューを果たす(当時14歳)。
ドラマ『Vの炎』で俳優デビューを果たす。
1997年
ドラマ『D×D』でテレビドラマ初主演を果たす。
1999年 
3月、堀越高等学校を卒業。
2002年
ドラマ『木更津キャッツアイ』で主演を務める。その後『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』、『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』と2度映画化された。
2003年
『COSMIC RESCUE』で映画初出演を果たす。
『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』で映画初主演を果たす。
2006年
『木更津キャッツアイ』シリーズのキャスト・スタッフの一員として木更津市民栄誉賞を受賞[4]。
主演映画『花よりもなほ』の演技で石原裕次郎新人賞を受賞[3]。
第49回ブルーリボン賞主演男優賞に『花よりもなほ』でノミネートされたが、事務所側の意向により辞退を申し入れた[5]。
2013年
4月から、出身地である大阪府枚方市の遊園地・ひらかたパークのイメージキャラクター「超ひらパー兄さん」を務める[1][6]。
12月21日、主演映画『永遠の0』公開。
2014年
1月、NHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で大河ドラマ初主演。
人物・エピソード編集

2010年9月28日、カリ、ジークンドーのインストラクター認定を受けた[7]。後に、USA修斗のインストラクターの資格も取得[8]。

『天地明察』の舞台挨拶で、出演者が“何オタク”であるかを発表することになった際、「歴史と格闘技オタク」であることを明かしている[9]。

両親の離婚は小学2年の頃で、父親も覚えている[10]。14歳で東京へ来てから、母親とは年に1回会えるかどうかである[10]。母親には、「男なんだから自分で考え、自分で責任を持ちなさい」と言われて育った[10]。

2010年10月24日放送の『ボクらの時代』で「20才になったらジャニーズ事務所を辞め、中学校の社会の先生になりたかった」と明かしている[11]。

映画『蜩ノ記』の宣伝のために堀北真希とともに2014年10月6日放送の『しゃべくり007』に出演した際、若い俳優をイジることにはまっていると語った。本人曰く、岡田にとっての「三大かわいい後輩」がいて、その後輩とは、映画『図書館戦争』で共演した福士蒼汰、『軍師官兵衛』で共演した、同じ事務所の後輩の生田斗真、映画『永遠の0』で共演した染谷将太のことだという。そこに、『軍師官兵衛』で共演している、松坂桃李が入ってきそうだと語っていた。[12]

11月17日生まれの有名人「城島茂」



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城島 茂(じょうしま しげる、1970年11月17日 - )は、日本のギタリスト、歌手、アイドル、タレント、俳優、司会者、キャスター。アイドルグループでロックバンドTOKIOの最年長メンバーである。ギター担当およびリーダーを務める。所属事務所はジャニーズ事務所。所属レコード会社はジェイ・ストーム。血液型O型。愛称は「リーダー」や「老犬[1]」。身長170cm、体重55kg。


奈良県立奈良商業高等学校在学中の1986年7月7日、ジャニーズ事務所に入所。入所後は平家派に所属。単独では光GENJI、男闘呼組、SMAP等とドラマ、バラエティ番組等で数多くの行動を共にする。

1988年、『あぶない少年III』(テレビ東京系)でドラマデビュー。1989年、『アイドル共和国』(テレビ朝日系)内で、平家派のメンバーだった山口達也らと共に「城島茂バンド(通称:ジョーバンド)」を結成。1990年、国分太一、松岡昌宏と共にTOKIOを結成しリーダーに就任。その後小島啓を加え、1994年小島に代わり長瀬智也が加入したことで、現在のメンバーのTOKIOが完成する。同年9月21日、『LOVE YOU ONLY』でCDデビュー。2002年、『演技者。 黒いハンカチーフ』(フジテレビ系)で初主演。

2014年5月18日、『行列のできる法律相談所』にて、24時間テレビ37のマラソンランナーに選ばれ、無事に時間内に完走を遂げる。TOKIOのメンバーがマラソンランナーに選ばれたのは1997年の山口達也以来、17年ぶり[2]。

千葉県市原市生まれ(生後数か月間居住)[3]、奈良県大和郡山市出身。一人っ子であり、幼少期は鹿児島県、京都府、大阪府八尾市[要出典]など各地を転々とした[4]。TOKIOでは最年長である。
小学3年生のときに両親が離婚し、母親に引き取られる。中学校まで不登校を繰り返す生活を送っていた[5]が、中学3年の時、テレビで少年隊が「仮面舞踏会」を歌っているのを見て「今の生活を脱したい。芸能界に入れば変わることが出来る」という思いから芸能界入りを決意した[5]。
オーディションではなく、ジャニー喜多川と大阪市内で会食して合格した。
初舞台は「PLAYZONE ’88 カプリッチョ -天使と悪魔の狂想曲-」。
山口との出会いは光GENJIのクリスマスコンサートのリハーサルにて。ジャニー社長から「この子ベース出来るよ」と城島に紹介したことがキッカケ。
リーダーになったキッカケは、TOKIOが結成して間もない頃にちょっとしたことでケンカになり、それを見た少年隊の植草克秀が「リーダーが居ないからケンカになる。リーダーを決めろ」と言われ、ジャンケンで決まった。メンバー曰く「メンバーをまとめるリーダーではなく“リーダー”というアダ名」だと語っている。
自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『城島茂のどっち派?!』で「酒の席での失敗談募集!あなたは泣き上戸?笑い上戸?怒り上戸?」というテーマに「笑い上戸」と答えた。最近は、山口曰く「酔うとダーヅバーに行きたがったり、ビリヤードをしたがる」[6]。
メンバーの中では最も演奏に対する向上心が強く、基本練習を欠かさず、最低限の譜面の読み書きを独学で習得している。アルバムに収録されている作品では、作詞・作曲を手がけているものもある。言葉遊びなど、こだわりの強い遊び心のある詞を書く傾向が強い。
音楽活動以外では、主にバラエティ番組での活動が多い。日本テレビ系『ザ!鉄腕!DASH!!』などでは、たまに女装して「城島茂子」と名乗って「主婦」キャラになりすましたり、リーゼントでテレビ出演することもあり、日清オイリオのCMでも主婦役として同じTOKIOのメンバーの山口と共にしばらく出演していた。また、テレビ朝日系『ミュージックステーションスーパーライブ』では、司会であるタモリのものまね(いわゆる「城島タモリ」)を披露するのが定番となっていた。2004年を最後にしばらく披露していなかった(2005年以降は『メントレG』と放送時間が重複したため)が、2008年以降は再び披露しており、さらにその派生として城島タモリとともに2012年から後輩の関ジャニ∞の丸山隆平が城島のものまねを披露している。また楽屋などでの城島の変わった行動がメンバーから語られる事が多い。
ダジャレを好んで使う。ダジャレへのこだわりについて、「ダジャレはですね、これだけは譲れません、絶対に。僕は世代を超えたダジャレを言い続けているんです。テレビを見ているどこかの家族が、僕のギャグをきっかけに、クロストークを始めてくれればいいなあと。たとえ、そのダジャレがつまらなくてもね(笑い)。そんなところから家族の触れ合いが生まれるかも知れませんし。そういうのって大事じゃないですか。せっかくテレビに出るのなら、みんなが楽しめる時間を提供したいという気持ちが根底にありますね[5]」と語っている。
移動式クレーン運転士免許、車両系建設機械運転者の資格の区分の内、車両系建設機械(整地・運搬・積込み用及び掘削用)運転技能講習を所持しており、『ザ!鉄腕!DASH!!』(同番組企画で取得)でその腕前を披露。ナレーターからは「クレーン城島」、「ショベル城島」(後に「ユンボ城島」)、「ブルドーザー城島」などと呼ばれる。
バラエティとは逆にドラマ出演は多くはないが、2006年のNHK連続テレビ小説『芋たこなんきん』ではヒロインの父親役でレギュラー出演を果たしている。2006年 - 2009年まで『NHK紅白歌合戦』で司会(2006年、2008年、2009年は白組司会、2007年は紅組司会)を務めたSMAPの中居正広がTOKIOの出番前にて毎回同朝ドラでの城島の写真を持ち込んで城島を弄るという演出が行われた。さらに2010年の紅白では、司会(白組司会)を務めた嵐の大野智が「中居君からの預かり物」として、やはりこの写真を持ち込まれ、5年連続同じネタで弄られた(この演出は2010年が最後となった)。
高所恐怖症でカナヅチ。『ザ!鉄腕!DASH!!』の川に飛び込む企画などでは中々飛び降りられないことが多く、川や海へと行くときにはライフジャケットや浮輪を必ず着用、持っていたりする。しかしどんなに躊躇しても最後は飛び込んでいる。また、ご当地バイト、DASH海岸、DASH島など海に関係する企画が多くなったことを受け、カナヅチを克服すべく海女さん修行を受けた。また、自転車を使う企画では本人だけ三輪である[7][8][9]。
ネコアレルギー持ち。花粉症、金属アレルギー持ちでもあったが、料理をしていくうちに克服した。
楽屋での個性的な行動は、メンバーによくネタにされていたが、最近は「さすがに三十路すぎて落ち着いた」と松岡などに評されている。
DASH村収録中に2011年東北地方太平洋沖地震に遭い被災。福島第一原子力発電所から近かったため、避難した。
デビュー前、東京で初めて免許を取った際に山口からプレゼントされたブランド物のパスケースを大事に使っている[10]。
プロレスラーのミル・マスカラスのファン。2014年8月31日の行列のできる法律相談所にて対面した際には、サイン入りマスクを二枚貰い、大いに感激している。

11月14日生まれの有名人「朴正煕」



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朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희、1917年11月14日(時憲暦9月30日) - 1979年10月26日)は韓国の軍人、政治家。本貫は、高霊朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。朴正煕の日本語読みは「ぼく・せいき」で、日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。他に日本及び満州国に居住していた時期もあり、日本名では高木正雄(たかぎ まさお、 - 1945年)と名乗った(創氏改名)。他に出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記でありグレゴリオ暦に直すと11月14日となる。

金好南は一番目の妻。陸英修は二番目の妻。最初の妻金好南との間に、長女・朴在玉があり、ハンナラ党(現セヌリ党)代表やセヌリ党非常対策委員長を経て2013年2月25日に第18代大韓民国大統領に就任した朴槿恵は次女、EGテック現会長の朴志晩は長男である。


大日本帝国による大韓帝国併合後の朝鮮半島に生まれ、朝鮮名では朴正煕、日本名では高木正雄と名乗った。当初は師範学校を経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州帝国の軍官学校(士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の帝国陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。帰国後は満州軍第8師団として対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。

第二次世界大戦後、中国の北京に設置されていた大韓民国臨時政府(朝鮮系住民による独立組織)に加わり、朝鮮半島の南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊の大尉となった。国防警備隊が韓国国軍に再編された後も従軍を続け、朝鮮戦争終結時には陸軍大佐にまで昇進、1959年には陸軍少将・第2軍副司令官の重職に就いた。一方、内戦を終えた韓国内では議会の混乱によって一向に復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。これらの状態に対して軍の将官・将校・士官らの改革派を率いてクーデターを決行し軍事政権(国家再建最高会議)を成立させた(5・16軍事クーデター)。形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代から第9代大韓民国大統領(在任:1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、権威主義体制による開発独裁を推し進めた。

独裁政権下では日本国の佐藤栄作内閣総理大臣と日韓基本条約を批准して日韓両国の国交を正常化し、更にアメリカ合衆国のリンドン・ジョンソン大統領の要請を受けて1964年にベトナム戦争に大韓民国国軍を出兵、日米両国の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。大韓民国は1960年代から1970年代にかけての朴正煕執政下の高度経済成長により、1970年頃まで経済的に劣位であった同じ朝鮮民族の分断国家、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を経済的に追い越し、最貧国グループから脱した。

一方で統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。また対外政策においてもアメリカとの強固な同盟関係を作り出したベトナム戦争において、米軍同様に虐殺や戦争犯罪に関与させる結果となり、ベトナムとの外交関係は悪化した。また日本との友好姿勢も国内の民族主義者から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、友好国日本に滞在していた政敵にして、民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進め、国際的な孤立を深めていった。

1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭情報長官により暗殺された。享年61。

11月13日生まれの有名人「木村拓哉」



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木村 拓哉(きむら たくや、1972年11月13日 - )は、日本の俳優、歌手、タレントであり、男性アイドルグループ・SMAPのメンバーである。「キムタク」の愛称が報道などで使われている[1]。

東京都出身。ジャニーズ事務所所属。


千葉市美浜区で育つ[2]。1987年、SMAPの前身の男性アイドルグループであるスケートボーイズのメンバーに選ばれる。1988年4月、スケートボーイズの12人のメンバーの中から中居正広、稲垣吾郎、森且行、草彅剛、香取慎吾らとともにSMAPを結成。1991年9月9日、SMAPのメンバーとして『Can't Stop!! -LOVING-』でCDデビュー。

1994年、映画『シュート!』の演技により石原裕次郎新人賞とエランドール賞新人賞を受賞、テレビドラマ『若者のすべて』の演技でもギャラクシー賞奨励賞を受賞した。また、1994年から5年連続でベストジーニストに選出され、殿堂入りを果たす。1994年から15年連続で雑誌『an・an』の「好きな男ランキング」でも1位を獲得。

1996年、『ロングバケーション』で平均視聴率29.6%、最高視聴率36.7%を記録すると、1997年の『ラブジェネレーション』、2000年の『ビューティフルライフ』、2001年の『HERO』、2003年の『GOOD LUCK!!』がいずれも平均視聴率30%越えを記録。特に『ビューティフルライフ』は最高視聴率41.3%を記録、『HERO』は全話視聴率30%以上を記録した。また、『GOOD LUCK!!』を除く上記いずれの作品でもザテレビジョンドラマアカデミー賞主演男優賞を受賞、『ビューティフルライフ』の演技により放送文化基金賞男優演技賞を受賞した。

2004年、主演ドラマ『プライド』の撮影中、エキストラの女性にパックを直撃させるという人身事故を起こす[注釈 1]。魔法使いのハウル役で声優を務めた同年公開のアニメーション映画『ハウルの動く城』が観客動員数1500万人、興行収入196億円、2004年と2005年の興行成績第1位を記録した。また、2006年12月の主演映画『武士の一分』は興行収入40億円を超え、自身も東京スポーツ映画大賞主演男優賞と日刊スポーツ映画大賞主演男優賞を受賞した[注釈 2]。2007年の主演映画『HERO』は興行収入81.5億円を記録、2007年度の邦画部門1位となった。中国映画『2046』でカンヌ国際映画祭に、『武士の一分』でベルリン国際映画祭、東京国際映画祭に、『HERO』、フランス映画『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』で釜山国際映画祭に招待された。

フジテレビの看板ドラマ枠である月9には『PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜』(2012年)で9度目の主演となり、自らが持つ同枠最多主演記録を更新した[3]。

初主演舞台・『盲導犬』では演出の蜷川幸雄からの厳しい演技指導が連日続き、頭髪の一部分だけがごっそり白髪になった[4][5]。木村は自分に対し頭に来るほど悩んだというが、映画関係者によると木村は絶対に弱音を吐かなかったという[6]。

ロングバケーションでは相手役の山口智子にもっと高いヒールを履くよう要求した。役柄的にそのほうがいいと判断し自ら要求、山口も意図を理解し高いヒールに履き替える、このようなやりとりが毎日のように行われ、スタッフがレベルの高さに驚かされっぱなしであった[7]。

ダウンタウンの浜田雅功は「木村は単なるイイ男、かっこええ奴とはちゃあうんやなあ。生き方にポリシーちゅうもんを持っててやなあ、男ぼれする言うんかなあ。とにかく、一生懸命でイキがいい。かといって若さが空回りしてへん。」と語っている[8]。

ドラマ撮影の際は、自身の台詞や共演者の台詞、動き方を記憶して撮影に臨んでいる。「セットに台本を持ち込まない」と決めているが、これは田村正和が手本となっている[9]。

水嶋ヒロは映画『BECK』の撮影のため、木村からギターを貸してもらったことがあり、水嶋は「とても感謝しています。やはり、考え方や人間性も含めて、木村さんのようにトップでい続ける方には、納得できる理由があるんですよね。」と語っている[10]。

TSUTAYA onlineでの「日本版パイレーツ! ジャック・スパロウ役」ランキングでは1位を獲得した[11]。シネマカフェゴコロ ランキング5の特別版の「万一も日本版『パイレーツ・オブ・カリビアン』を作るなら“ジャック・スパロウ”は誰?」では3位にランクインした[12]。また木村はSMAP×SMAPでジャックのパロディを演じている[13]。

漫画『ONE PIECE』のファンで、「SMAP×SMAP」で行われた芸能人の“ONE PIECE王”を決める「ONE PIECE王決定戦」[14]では6回中5度の優勝を果たしている。『MEN'S NON-NO』2011年10月号では作者の尾田栄一郎と対談した。

とろろが苦手である[5]。

11月12日が誕生日の有名人「ミヒャエルエンデ」



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ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツの児童文学作家。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。日本と関わりが深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚している。また、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている。

1929年11月12日 - バイエルン州のガルミッシュ=パルテンキルヒェンで生まれる。この頃からナチスが台頭し、ミヒャエルが小学校に入学する頃、父エドガーが「退廃芸術家」の烙印を押され、生活が苦しくなった。
1941年 - ギムナジウムを落第。
1945年 - 16歳の時、疎開した14~15歳の少年が軍に徴兵され、一日訓練を受けた後、前線に送られ、初日に学友3名が戦死する。ミヒャエルにも召集令状が来たが、彼は令状を破り捨て、ミュンヘンまでシュヴァルツヴァルトの森の中を夜間のみ80km歩いて、疎開していた母の所へ逃亡。その後、近所に住むイエズス会神父の依頼でレジスタンス組織「バイエルン自由行動」の反ナチス運動を手伝い、伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回った。
1948年 - 戦後に転入したシュタイナー学校を退学、演劇学校に入学。
1950年 - 演劇学校卒業。1シーズンだけ舞台に立つ。
1951年 - 女優インゲボルク・ホフマンと知り合う。
1953年 - 父がミヒャエルとほぼ同年齢の愛人と同棲。ミヒャエルは絶望した母を精神的、経済的に支える。
1961年 - Jim Knopf und Lukas der Lokomotivführer (日本語訳:『ジム・ボタンの機関車大旅行』)がドイツ児童文学賞をとり、生活が安定。
1964年 - 8歳年上のインゲボルク・ホフマンと結婚。イタリア移住。
1972年 - Momo (日本語訳:『モモ』)完成。
1977年 - 初来日。能・歌舞伎を鑑賞。禅僧と対談する。
1979年 - Die unendliche Geschichte: Von A bis Z (日本語訳:『はてしない物語』)完成。
1985年 - 妻インゲボルク・ホフマン死亡(享年63)。ミュンヘンに戻る。周囲にドイツ語を話す人がいなくなったことが帰国理由。
1989年 - 「エンデ父子展」のため再来日。『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚。
1995年8月28日 - 胃癌のため、フィルダーシュタットに於いて生涯を閉じた。65歳没。葬儀はミュンヘンのキリスト者共同体で執り行われた。

日本語訳では岩波書店から『エンデ全集』(全19巻)が出されている。その他にエンデは絵本作品も手がけている。

児童文学
『ジム・ボタンの機関車大旅行』 Jim Knopf und Lukas der Lokomotivführer 1960年 (テレビアニメ『ジムボタン』のベースとなった)
『ジム・ボタンと13人の海賊』 Jim Knopf und die Wilde 13 1962年
Tranquilla Trampeltreu die beharrliche Schildkröte 1972年 (日本語訳:『がんばりやのかめトランキラ』, ほるぷ出版, 大型本, 1987年, ISBN 978-4593502059(絶版))
『モモ』 Momo 1973年
『はてしない物語』 Die unendliche Geschichte 1979年
Der Lindwurm und der Schmetterling oder Der seltsame Tausch 1981年 (日本語訳:『おとなしいきょうりゅうとうるさいちょう』, ほるぷ出版, 大型本, 1987年, ISBN 978-4593502080)
その他
Die Spielverderber 1967年 (日本語訳:『遺産相続ゲーム』, 岩波書店, 単行本, 1986年; 岩波書店, 現代文庫, 2008年; ISBN 978-4006021399)
Das Gauklermärchen 1982年 (日本語訳:『サーカス物語』, 岩波書店, 単行本, 1984年, ISBN 4001109875)
Die Schattennähmaschine 1982年 (日本語訳:『影の縫製機』, 長崎出版, 大型本, 2006年, ISBN 978-4860951498)
Der Spiegel im Spiegel: Ein Labyrinth 1984年 (日本語訳:『鏡のなかの鏡―迷宮―』, 岩波書店, 単行本, 1985年; 岩波書店, 現代文庫, 2001年; ISBN 978-4006020316)
Norbert Nackendick; oder, das nackte Nashorn 1984年 (日本語訳:『はだかのサイ』, 岩波書店, 大型本, 1988年, ISBN 978-4860951498)
Der satanarchäolügenialkohöllische Wunschpunsch 1989年 (日本語訳:『魔法のカクテル』, 岩波書店, 単行本, 1992年; 岩波書店, 単行本, 2002年; ISBN 978-4000920520)
Das Gefängnis der Freiheit 1992年 (日本語訳:『自由の牢獄』, 岩波書店, 単行本, 2002年; 岩波書店, 現代文庫, 2007年; ISBN 978-4006021283)
Der lange Weg nach Santa Cruz 1992年 (日本語訳:『サンタ・クルスへの長い旅』 , 岩波書店, 単行本, 1993年, ISBN 978-4001155303)
Der Rattenfänger: ein Hamelner Totentanz 1993年 (日本語訳:『ハーメルンの死の舞踏』, 朝日新聞, 単行本, 1993年, ISBN 978-4022566249; 岩波書店, 単行本, 2002年; ISBN 978-4000920506)
Die Vollmondlegende 1993年 (日本語訳:『満月の夜の伝説』 , 岩波書店, 単行本, 1994年, ISBN 978-4000021487)

11月11日生まれの有名人「レオナルドディカプリオ」



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レオナルド・ウィルヘルム・ディカプリオ(英: Leonardo Wilhelm DiCaprio, 1974年11月11日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、映画プロデューサー、脚本家。

生い立ち編集

カリフォルニア州ロサンゼルスにて、父ジョージ・ディカプリオと母イルメリン・インデンバーケンとの間に生を受ける。父はイタリア系およびドイツ系[1][2] の元ヒッピーで、アンダーグラウンド・コミックスを描いて生計を立てていた。母は1950年代にドイツのルール地方からアメリカに移住してきた女性で[3]、母方の祖母エレーナ・スミルノワはロシアからドイツへ移民してきた人物であった[4] 。レオナルドの名は、母が妊娠中にイタリアの美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を鑑賞している最中に胎児が強い反応を示した(腹部を蹴った)ことに由来する。姓のディカプリオは『カプリ島の』の意。 生後間も無く両親は別居。レオナルドは母に引き取られたが、頻繁に父とも顔を合わせていた。幼少時は漫画の収集、さらに父と美術館に足を運ぶことが趣味であった。また、母の実家があるドイツを度々訪れ、そこで祖父母と時間を過ごすことが多かったため、堪能なドイツ語を身に付けた。

キャリア編集

父の再婚相手の息子(レオナルドの義兄)がテレビコマーシャルで多くの収入を得ていたことに感化され、俳優になることを志す。10歳頃からオーディションを受け始めたが幾度と無く不合格となり、挙句の果てには、本名の響きはエキゾチックであるとして「レニー・ウィリアムズ」への改名を打診されるなど不遇の時期が続いた。

14歳で初めてテレビコマーシャルへの出演を果たすと、テレビドラマにも出演を重ねるようになり、1993年に出演した『ギルバート・グレイプ』で19歳にしてアカデミー助演男優賞にノミネート。その後も立て続けに映画への出演を重ね、『ロミオ+ジュリエット』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞 (男優賞)を受賞した。

ディカプリオを一躍スターに押し上げたのは、1997年公開の『タイタニック』である。数多くの興行収入記録を塗り替えたこの作品での、悲劇的にして純粋な役柄が生来の端整な顔立ちと相俟ってその名声と知名度が世界規模に飛び火した。日本では各種メディアがディカプリオをレオ様と表現し、文化系と呼ばれる層を中心に厚い人気を持った。

世界でも「レオマニア」と呼ばれる熱狂的ファンが生まれ、1990年代後半を象徴するセックス・シンボルとなった。さらにこの頃サービスが開始されたインターネットにおいても、世界で最もその名が検索された人物となった。

2001年、映画制作会社「アッピアン・ウェイ(アッピア街道の意)」を設立。翌2002年にはマーティン・スコセッシの監督作品『ギャング・オブ・ニューヨーク』に主演。アカデミー主演男優賞のノミネートを共演のダニエル・デイ=ルイスにさらわれる不運に見舞われたが、長年苦しんできたイメージの払拭に成功し、観客・評論家双方の高い評価を得ることに成功した。また同年秋に公開された『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は各国でヒットした。

2004年、アッピアン・ウェイで初めて製作を担当した『アビエイター』でスコセッシと再度コンビを組んだディカプリオは実在したアメリカの大富豪、ハワード・ヒューズを演じゴールデングローブ賞 ドラマ部門主演男優賞を受賞。アカデミー主演男優賞受賞の期待も高まったが、同じく実在の人物、レイ・チャールズを演じた『Ray/レイ』のジェイミー・フォックスの前に涙を呑んだ。

2006年には『ディパーテッド』、『ブラッド・ダイヤモンド』と2作品に出演。前者はアカデミー作品賞を受賞し後者では自身がアカデミー主演男優賞にノミネートされた。

2013年、ドイツのビルト紙上において俳優休業宣言をした[5]。

人物像
収入

11月10日生まれの有名人「デーモン閣下」



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デーモン閣下(デーモンかっか、自称紀元前98038年11月10日 - 、英語表記:His Excellency Demon、二人称はYour Excellency Demon、世を忍ぶ仮の名(本名):小暮(姓のみ。名は非公表))は、ミュージシャン・マルチタレント・ジャーナリスト・相撲評論家。早稲田大学社会科学部卒業。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。姉はTBSテレビの小暮裕美子[1]。

芸名は、「デーモン小暮」(1986年)、「デーモン小暮閣下」(2000年)、「デーモン閣下」(2010年以降)と変遷。通称は「デーモン」、「閣下(かっか)」。『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)著書『我は求め訴えたり』では「小暮ヨシノブ」と仮称している。


デーモン閣下が自称する概要
属性 悪魔 (悪魔教教祖)
英名 His Excellency Demon (三人称)
Your Excellency Demon (二人称)
別称 小暮伝衛門(邦楽器コラボレート時)
デーモン小暮(聖飢魔II現役活動当時)
デーモン小暮閣下(聖飢魔II解散後から2010年まで)
小暮ヨシノブ(プライベートを指す場合)
通称 デーモン、閣下(かっか)
(世を忍ぶ仮の)本名 小暮(姓のみ公表、名は非公表)
発生日(誕生日) 魔暦:紀元前100,036年11月10日
西暦:紀元前98,038年11月10日
発生地(出身地) 地獄の都 Bitter Valley地区
(人間界における)
世を忍ぶ仮の職業 表現家(歌唱・演劇・テレビ・ラジオ)、
演出家(舞台演出・CDプロデュース)、
文筆家(評論・エッセイ・作詞)、
相撲評論家、思想家、ジャーナリスト
前地獄副大魔王にして悪魔教教祖。「神ゼウスによって約10万年もの間地獄に封印されていたが、ゼウスの封印力が弱まり再び蘇り、人間界へと降り立った。「紀元前98038年11月10日に発生、地獄の都Bitter Valley地区出身」、悪魔としての本名は地球上では可聴音域で発声できない(発声しても口パクにしか見えない)ため不詳とされる。西暦1999年12月31日に「地球征服する」と宣言し、ヘヴィメタル楽曲歌唱を中心に幅広く活動、公約通り「地球征服」を完了し、解散。 金色の髪を派手に逆立て、白色を基調とした顔貌[2]。 公私混同を非常に嫌い、人間としての側面はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」であり、プロフィールは基本公表せず、関係者、来歴は必ず「世を忍ぶ仮の」という一節を付加して表現している。年齢も『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際「10万24歳」と答えるなどしている。「吾輩」と自称し、「閣下」と呼ばれる[3]。「デーモンさん」、「小暮君」などと呼ばれることもあるが、「小暮君」と呼ばれた際は「閣下と呼べ!」「せめてデーモン小暮と呼んでほしいのだが…」と反発している[4]。非公表である本名(地上での戸籍名)を呼称することは一切許容していない。

派手な外見や所作から来る印象ばかりを取り沙汰されることが多いが、「信者」と称されるファンの多くは「作品の内容」「言動」「エンターテイナーとしての技量」を大いに支持している。単に「神と悪魔と人間」という視点だけでなく、幼少時にアメリカに在住していた帰国子女であり、異文化交流に関してのコメントも多い。日本の伝統芸能・文化にも造詣が深く、純邦楽(特にジャパメタのギタリストでもあり、筝曲家の沢井比河流とは親交も深い)・能等と共演することが年間25回を超える。好角家でもあり、相撲知識は好角家や大相撲関係者すら舌を巻く(後述)。頭の回転が早く、テレビ番組での彼のやり取りを見た、閣下支持でも何でもなかった音楽評論家渋谷陽一を感心させている。同時に、裏方では芸能界での大先輩やスタッフに丁寧に接するなど几帳面な一面を見せている。 悪魔ちゃん命名騒動があった時期に、インタビューで「悪魔は子供が生まれたら“悪魔”と名づけるのか」と尋ねられ、「じゃあ、お前は自分の子供に“人間”と名前をつけるのか」と切り返した[要出典]。また、その人物像ゆえ、公の場での対談や共演相手の装飾品に十字架が使用されるのを極度に嫌う。FNS歌謡祭で共演した小柳ゆきは、左肩部分に小さな十字架のタトゥがあるが共演時はジャケットを着用し、事なきを得ている。

学校歴
中野区立緑野小学校[5]、目黒区立第一中学校、桐蔭学園高等学校[6]卒業

経歴
西暦1999年まではダミアン浜田殿下に託された組織「聖飢魔II」の二代目リーダー及び悪魔教教祖として悪魔教布教活動を行っていたが、「地球征服完了」後はソロ活動を展開している。 父は銀行員、帰国子女であり幼少時は日本語よりも英語のほうが上手かった。2007年12月22日にNHKワールドTV[7]で放送された『WHAT'S ON JAPAN』で大相撲の1年を振り返るインタビューを英語、副音声日本語の吹き替え部分両方を自らコメントしていた。取材でアメリカ在住時に通っていた小学校に悪魔の姿で訪問した際、訝しく思った校長に「君、college(専門学校や大学などの高等教育)くらいは行っているよね?」と聞かれ、「University(総合大学)を卒業してますよ」と答えた途端、校長は生徒に向って「彼はこんな格好をしているが、ちゃんと勉強して大学に行っているんだ」と言った。帰国子女である経歴及び桐蔭学園高等学校卒業という学歴について『爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)で「織田裕二の先輩」とともに暴露された際に認めている。 桐蔭学園高等学校 - 早稲田大学を通じた先輩であるやくみつるとは、在学中には面識がなかったものの共通の趣味である相撲を通じて親交を深め、「やく先輩」と呼ぶほどの関係となっている。やくとは相撲以外にも漢字力に優れるという共通点があり、過去2回民放のバラエティ番組で対決しいずれも敗北している。

デビュー前
小学校在学中に坂上二郎司会のラジオ番組に出演し、坂上のものまねで『学校の先生』を歌った。当時から広島市内で布教活動を手がけており、地球統一による平和への願いは「どの悪魔よりも強い」と自負している。 怪獣やヒーロー等、特撮フィルムのキャラクターについての造詣も深く、ゴジラの鳴き真似コンテストに出場して優勝した実績を持つ[8]。早稲田大学在学中に展開していたバンドでは、演目に「ウルトラマンの歌」を取り上げることも多かったという。右半身をウルトラマン・左半身をレッドキングに仮装して独りで格闘シーンを演ずるパフォーマンスなど、特撮キャラクターのモノマネの巧みさから、同学の先輩で特撮映画出演実績もあるコメディアンラサール石井から真剣に入門勧誘を受けたとされている。同学在学中早慶戦の試合前にマイクパフォーマンスとしてゴジラの鳴き真似を披露し、スタジアム観衆全員からの喝采を浴びたことでも知られる。『たけしのお笑いサドンデス』に出演し、ビートたけしから「将来タレントになれる」と評価されたこともあり、たけしから一目置かれている。「タモリ倶楽部」で、「大学生のコンパ芸」を紹介する放送回で、友人等と出演し、ゴジラの鳴き真似や、他の宴会芸などを披露。 音楽活動では大学時代フォークソングクラブに所属し「走り幅跳び」や「顔面大陸棚」「生老婆(ナマローバ)」「紫馬肥(ムラサキウマゴヤシ)」「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関するバンド」というバンドを組んでいた。同学の先輩であるサンプラザ中野がバンド爆風スランプを結成するのに伴い、中野の後を継いで「スーパースランプ」の2代目ボーカリストに就任している。 『徹子の部屋』(テレビ朝日系)にゲストとして招かれた際、早稲田大学卒業式に悪魔の姿で出席し、当然ながら大学職員が制止したが「これは悪魔の正装だ!」「みな明日から社会に旅立つ姿で卒業式に来ている。吾輩が明日から社会に旅立つ姿がこれなのだ!」との発言を繰り返し強硬に押し切ったところ、通りがかった知らない教授に「最近は君のような気骨のある学生が少なくなった」と激励を受け、共に記念写真を撮った、というエピソードを披露している[9]。

音楽活動
生まれて初めて歌で稼いだ楽曲は世を忍ぶ仮の大学時代に当時の居酒屋で歌った北島三郎の「与作」で、現在においてもカラオケの十八番である。

1982年(魔暦紀元前17年)12月から本格的な悪魔教の「布教活動」を兼ねて聖飢魔IIのフロントマンとしてボーカルをつとめ、各地で「黒ミサ」を主催した。所属していたレコード会社のCBSソニーを「市谷悪魔教会」[10]と呼び、レコード・CDを「教典」と称していた。メディアへの登場時には悪魔的世界観を強調して振る舞ったが[11]、トークは友好的に展開し、1988年ザ・ベストテンに出演時には黒柳徹子の依頼でルーク篁の伴奏に合わせてマイウェイの盛り上がり部分を歌い、諸星和己に会話に割り込まれるも全く動じず笑って返し即興でパラダイス銀河1番の弾き語りを演じる、アナウンサーに冗談でカブキロックスと紹介された際には氏神一番の物真似でカブキロックスの設定を語るなどした。 一方で局側からの依頼などで悪魔的な面が強調されることもあり、1990年7月27日、8月31日「有害ロック」で『ミュージックステーション』に出演した際には出演者の頭を鷲掴みにする、光GENJIと一緒に装飾を引き剥がすなどスタジオを破壊[12]したり、雛壇に上って内海光司にバナナを無理矢理食わせる[13]などした後消火器をまき散らし、司会の生島ヒロシに消火剤を浴びせる、CMに入る際「もっとぶち壊してやる、もっとぶち壊してやる、ぐわははははは」と破壊的なセリフを口にし生島にパイナップルを押し付けるなどした。[14]。1999年(魔暦元年)の「地球征服完了」以降は単独で活動しているが、2005年(魔暦7年)に期間限定で聖飢魔IIを復活させた。究極の解散「黒ミサラスト」においてはEL-DORADO演奏前に「我々には新しい年はやってこない。だが、諸君たちには必ず、新しい年がやってくる」「ここにいる全員が聖飢魔IIに追いつき、追い越すことを達成したとき、必ずや、真の黄金の都は築かれるであろう。さあ、早く行け、見失わないうちに!」とメンバーと信者にエールを送った。 聖飢魔IIの再解散の翌年2006年(魔暦8年)に公式ファンクラブ「縁魔堂」が開設された。 デビュー当時から話す時と歌う時の声の伸びが全く違うと言われており、声色変化のデビュー・アルバムの歌唱表現等をみる限り、彼本来の俳優志向を垣間見ることができる。

ライブでの負傷
1986年夏、岡山県蒜山高原で行われた「蒜山ロックフェスティバル」にて、オープニングの「創世記」で野外ステージの屋根上からステージまで飛び降りて登場する際、機材セットに衝突して脚を骨折した。しかし当初の段取り通り演奏に突入し、「THE END OF THE CENTURY」終了直後に信者(ファン)に対して「蒜山高原の諸君元気か!!吾輩は元気でなくなってしまった、急に。」と言い失笑を買う。しかし「吾輩はこのミサを全うする」とMCを行い、マイクスタンドを杖代わりに説法を含めた二十分強の公演をこなした。悪魔組曲での天地逆転唱法(三点倒立で歌う)は行わなかったが、最後に「本日は申し訳なかった、この借りは必ず返す」と言い残し病院に直行、重傷のため負傷した脚部を「改造手術」し入院したが、付き添っていた実母に対して病室で見舞いに来た者を労うため「まぁまぁ梨でも剥いてあげたら?」と依頼したことが、当時宝島社の編集者であった映画評論家、町山智浩により「ママぁ、梨剥いてー」と実母に甘えてせがんでいたとの都市伝説となった。後に著書で『梨は皮ごと食べるので「梨剥いて」などと言うわけがない』と語り伝説を否定している。実母は閣下の「悪魔ぶり」を否定するどころか、普段楽屋を訪れた際に関係者に「デーモンの世を忍ぶ仮の母でございます」と挨拶したことがある。

11月7日生まれの有名人「長瀬智也」



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長瀬智也(ながせ ともや、1978年11月7日 - )は、日本の歌手、男性アイドル、俳優、タレントであり、バンド形態のアイドルグループ・TOKIOの最年少メンバーでボーカリストでもある。所属事務所はジャニーズ事務所。所属レコード会社はジェイ・ストーム。


1994年、CDデビューを目前に控えたTOKIOのメンバーとなった。同年9月21日に、ボーカリストとして「LOVE YOU ONLY」でCDデビューを果たす。

1997年にはマイケル・ジャクソンプロデュースのTomoya with 3T(3Tはマイケルの甥3人によるバックコーラスグループ)として、バングルスのカヴァー曲である「ETERNAL FLAME」(ドラマ『D×D』主題歌)を発売している。

TOKIOでは、ボーカルの他にギターやブルースハープも演奏するほか、自ら作詞と作曲・編曲を手掛けることもある。シングル曲「明日を目指して!」をはじめ、アルバムにも自作曲が収録されている。2009年2月に放映された「MTVアンプラグド」のライブでは、自作曲6曲を発表。リアレンジで「宙船」や「Knockin' On Heaven's Door」なども披露している。2013年2月には、自身の主演ドラマ『泣くな、はらちゃん』のテーマソング「リリック」で作詞・作曲・編曲も手がけた。

2006年夏の初ライブハウスツアーを収録したDVD『TOKIO GIGs 2006』では自身で監督・編集を手掛けている。2011年に発売されたツアーDVD『OVER/PLUS』でも、2008年と2009年の映像の編集を担当している。

1993年に『ツインズ教師』でドラマ初出演。1995年『カケオチのススメ』で初主演。1998年、月9ドラマ『Days』では19歳で主演を務めた。それ以降、『池袋ウエストゲートパーク』『タイガー&ドラゴン』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』などに主演。

2001年の映画初出演作『ソウル』での演技により、翌2002年の第15回石原裕次郎新人賞を受賞。

SMAPの草彅剛とは、1993年にミュージカル『姫ちゃんのリボン』で共演。お互い、好きな第二次世界大戦の時のジーンズや軍服の話で盛り上がるという。行きつけの古着屋も同じで、どうしても欲しかった希少価値の高いスカジャンを草彅から譲り受け、「僕の宝物です」と語っている[1]。

出演。
テレビドラマ
ツインズ教師(1993年4月12日 - 6月28日、テレビ朝日)- 落合守 役
アリよさらば(1994年4月15日 - 7月1日、TBS)- 小杉護 役
先生はワガママ(1994年、朝日放送)
好きやねん父ちゃん!シリーズ(1994年 - 1995年、TBS)
好きやねん父ちゃん!(1994年10月2日)
好きやねん父ちゃん!2(1995年4月2日)
好きやねん父ちゃん!3(1995年10月1日)
愛と野望の独眼竜 伊達政宗(1995年、TBS)
最高の片想い(1995年1月11日 - 3月22日、フジテレビ)- 麻生哲 役
息子よ蘇れ!(1995年、フジテレビ)
カケオチのススメ(1995年7月3日 - 9月11日、テレビ朝日、月曜ドラマイン)- 主演・恵比須保 役
恋人よ(1995年10月19日 - 12月21日、フジテレビ)- 藤田達彦 役
白線流し(1996年1月11日 - 3月21日、フジテレビ)- 主演・大河内渉 役
白線流し-19の春-(1997年8月8日)
白線流し-二十歳の風-(1999年1月15日)
白線流し-旅立ちの詩-(2001年10月26日)
白線流し-二十五歳(2003年9月7日)
白線流し-夢見る頃を過ぎても(2005年10月15日)
恋物語 せつない夜は逢いたくて「その人の匂い」(1996年、TBS)主演
Dear ウーマン(1996年10月13日 - 12月22日、TBS)- 石丸広見 役
Dear ウーマンスペシャル(1997年4月6日)
竜馬がゆく(1997年1月1日、TBS)- 岡田以蔵 役
ふぞろいの林檎たちIV(1997年4月11日 - 7月4日、TBS)- 桐生克彦 役
D×D(1997年7月5日 - 9月20日、日本テレビ)- 主演・相沢悟 役
Days(1998年1月12日 - 3月23日、フジテレビ、月9)- 主演・矢部鉄哉 役
ラブとエロス(1998年7月2日 - 9月17日、TBS)- 合田次郎 役
リング〜最終章〜(1999年1月7日 - 3月25日、フジテレビ)- 高山竜司 役
砂の上の恋人たち(1999年10月12日 - 12月21日、フジテレビ)- 主演・高野朗 役
池袋ウエストゲートパーク(2000年4月14日 - 6月23日、TBS)- 主演・真島誠 役
池袋ウエストゲートパークスペシャル 『スープの回』(2003年3月23日)
3億円事件 20世紀最後の謎(2000年12月30日、フジテレビ) - ジョー 役
ムコ殿(2001年4月12日 - 6月28日、フジテレビ)- 主演・桜庭裕一郎 役
ハンドク!!!(2001年10月10日~12月12日、TBS)- 主演・狭間一番 役
ビッグマネー!〜浮世の沙汰は株しだい〜(2002年4月11日 - 6月27日、フジテレビ)- 主演・白戸則道 役
やんパパ(2002年10月9日 - 12月11日、TBS)- 主演・真淵優作 役
ムコ殿2003(2003年4月17日 - 6月26日、フジテレビ)主演・桜庭裕一郎 役
ふたり 私たちが選んだ道(2003年8月23日、日本テレビ、24時間テレビ「愛は地球を救う」)- 主演・鎌形芳行 役
彼女が死んじゃった。(2004年1月17日 - 3月13日、日本テレビ)- 主演・安西ハジメ 役
弟(2004年11月17 - 21日、テレビ朝日)- 石原慎太郎 役
ドラマスペシャル タイガー&ドラゴン(2005年1月9日、TBS)- 主演・山崎虎児 役
タイガー&ドラゴン(2005年4月15日 - 6月24日、TBS)- 主演・山崎虎児 役
明智小五郎VS金田一耕助(2005年2月26日、テレビ朝日)- 主演・金田一耕助 役
マイ★ボス マイ★ヒーロー(2006年7月8日 - 9月16日、日本テレビ)- 主演・榊 真喜男 役
歌姫(2007年10月12日 - 12月21日、TBS)- 主演・四万十太郎 役 / 及川勇一 役
華麗なるスパイ(2009年7月18日 - 9月26日、日本テレビ)- 主演・鎧井京介 役
うぬぼれ刑事(2010年7月9日 - 9月17日、TBS)- 主演・うぬぼれ(小暮己)役
みぽりんのえくぼ(2010年8月28日、日本テレビ、24時間テレビ) - 主演・岡崎照生 役
泣くな、はらちゃん(2013年1月19日 - 3月23日、日本テレビ)- 主演・はらちゃん 役
クロコーチ(2013年10月11日 - 12月13日、TBS) - 主演・黒河内圭太 役
ドキュメンタリー番組
プレミアム10 天国の扉にノック〜長瀬智也・30歳のいま(2008年11月28日、NHK総合)[2]
情熱大陸 (2009年1月25日、MBS)
映画
ベル・エポック(1998年)
ソウル(2002年)- 主演・早瀬祐太郎 役
真夜中の弥次さん喜多さん(2005年4月2日公開)- 主演・栃面屋弥次郎兵衛 役
ヘブンズ・ドア(2009年2月7日公開)- 主演・青山勝人 役
劇場アニメ
ストレンヂア 無皇刃譚(2007年)主演
ラジオ
TOKIOナイトCLUB(ニッポン放送)
TOKIOナイトCLUB 「ともや with ウガッチョベーション」
TOKIOナイトCLUB 「tko.tom」
CM
江崎グリコ・ニューパピコ(TOKIO加入前のジャニーズJr.時代に単独で出演)
ハウス食品・バーモントカレー
ポーラ化粧品・イーガー
SONY・スタミナ乾電池
SUZUKI・ストリートマジック
SUZUKI・カルタスワゴン
タイ国際航空・「タイは若いうちに行け」キャンペーン
ボシュロム・レイバンサングラス
アサヒ飲料・カフェオ
ボシュロム・Medalist
ボシュロム・ReNu
au・携帯電話A5304T
SEIKO・WIRED
UNIQLO・「DRY-DESIGN」キャンペーン
サントリー・リプトン・リモーネ
富士重工業|SUBARU・FORESTER
三共・リゲイン
NHN Japan・ハンゲーム
キリンビール・キリンラガービール(TOKIO「カンパイ!ラガー」として出演)
サントリー・マグナムドライ
スズキ・カルタス
スバル・フォレスター
MAZDA・「100m走れば、MAZDAはわかる。」キャンペーン
グンゼ・BODY WILD/YG-X
NTTドコモ・DoCoMo2.0(2007年)
日立製作所・Wooo
富士写真フイルム・FUJICOLORデジカメプリント
富士写真フイルム・写ルンです
ロッテ・クーリッシュ
日清焼そばU.F.O.・まっすぐ編
ロッテ・シャルロッテ・アイ(2010年)
ロッテ・トッポ
アサヒビール・アサヒスタイルフリー
ブリヂストン・TAIYA CAFE、タイヤ館
舞台
姫ちゃんのリボン(1993年、博品館劇場) - 支倉浩一 役

11月6日生まれの有名人「松岡修造」



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松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11
月6日 - )は、東京都出身の日本の元男子プロテニス選手、テニス指導者。身長188cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げた。日本のテニス選手としては大柄な体躯から繰り出される威力の高いサービスショットを最大の武器とした典型的なビッグサーバータイプの選手の一人であり、1995年ウィンブルドン選手権で日本人男子として62年振りのシングルスベスト8に進出した人物である。

現役引退後はジュニア選手の指導やテニス大会の運営、日本テニス協会の理事を務めるなど引き続きテニスに携わりつつ、スポーツキャスター、タレントとしても活動している。


松岡は山本鈴美香の漫画『エースをねらえ!』に憧れてテニスを始め、海外遠征の間はいつも全18巻を荷物に入れて愛読していた。試合中にもコートに持ち込むことがあり、ウィンブルドンのセンターコートにも持ち込んでいる。
1995年のウィンブルドンでは、インターバルのみならず、プレー中も「この一球は絶対無二の一球なり」(福田雅之助の「庭球訓」の一節)などと、日本語で自己暗示を掛け続けていた。ベスト8を決めた試合では、歓喜の余りコートに倒れこみ、その様子がBBC等で大々的に放映された。
1996年4月28日、松岡は「韓国オープン」で準々決勝敗退に終わった後、直ちに日本へ帰国し、東京・有明コロシアムで行われた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦の日本 vs. ドイツ戦に駆けつけた。伊達公子とシュテフィ・グラフのエース対決で、松岡が日の丸の旗を振り回して会場の大声援を集めた話は今なお語り草になっている。伊達はこの試合でグラフに 7-6, 3-6, 12-10 で勝ち、この日は日本のテニスファンが最も盛り上がった瞬間となった。
1998年の引退会見の際、松岡は「これは終わりではなく新しい修造の始まり。」と語り、彼自身が嫌う「限界」や「無理」という言葉は会見でついに最後まで発しなかった。後に中田英寿の引退の際の報道ステーションの席で松岡は「負けても全然悔しいと思わなくなった自分に気が付いてしまった」と引退の理由を語った。
テニス指導者としては、厳しい側面があり、テニスを1日指導するイベントなどで、ふがいないプレーをしている子供を叱りつける場面もあるが若手育成にも力を入れており、JTA強化本部及びジュニア育成本部との共催で、毎年10数名の男子有望トップジュニアを対象に「修造チャレンジ」と題した強化合宿を開催している。歴代の合宿生からは錦織圭、伊藤竜馬、三橋淳等の後に日本トップレベルに成長した選手を輩出している。
現在は東宝東和株式会社で代表取締役社長を務める1歳年上の実兄・宏泰は、慶應義塾大学時代に慶應義塾體育會庭球部で主将を務めて、全日本大学選手権などに出場。テニス専門誌などにもしばしば登場するほどの名選手だった。
茶目っ気が豊富で、オフィシャルサイトで公開されている番組収録の合間に撮影されたプライベート映像が「応援メッセージ」と題して公開されており、松岡の人生観や信条に則った応援メッセージ、その他ユニークなパフォーマンスの数々を見ることが出来る。またこれらコンテンツを勝手に編集加工した動画(いわゆるMADムービー)がインターネット上の動画サイト等に多数アップロードされており、一種のインターネットミームとなっている。この事に対し本人は、「怒るとかそういうことよりも、ホント、よくできているな、と思って見ている。こんなに一所懸命に作ってくれて逆に感謝したいくらいだ」と好意的な発言をしている[81][82]。
週刊文春の「スポーツキャスター、解説者 こいつが出るとTVを消したくなるランキング」(2009年8月6日号)で2位に大差をつけて1位になった。その一方で、オリコンの「好きなスポーツキャスター・コメンテーターランキング」では2008年、2009年と連続で1位を獲得している。
自著において高校に入った時は165cm程度しかなかったことを告白し、身長で結果が決まるのならコートの上で身体測定をすればいいと述べている

11月5日生まれの有名人「天地真理」



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天地 真理(あまち まり、1951年11月5日 - )は、1970年代前半に国民的アイドルとして人気を博した日本の女性歌手。埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。日本初のアイドルでもある。

出生時の姓名は齋藤 眞理(さいとう まり)であったが、結婚後の本名は青木 眞理(あおき まり)である。なお「眞理」という名の命名者は、埼玉県比企郡都幾川村・法燈禅林皎円寺(臨済宗妙心寺派)住職であった柳瀬有禅である。

うさぎ年生まれ。蠍座。血液型はO型。2歳の頃、両親が離婚し[1]、母親に連れられて大宮から東京・中野へ転居(1955~1956年、中野保育園に通う)。さらに、世田谷区上北沢に移り、1958年、上北沢小学校に入学。小学5年のころ母親に買ってもらった88鍵のアップライト・ピアノ(Kreutzer 社製)に親しみ、演奏の腕を上げる。1964年、国立音楽大学附属中学校に入学。中学在学中に練馬区桜台、さらに神奈川県座間市相模台に転居。1967年、国立音楽大学附属高等学校に進学。当初はピアノ科に入るも、そののち声楽科へ転科。高校在学中からジョーン・バエズ[2]等のフォークソングを愛好する。1970年3月、国立音楽大学附属高等学校声楽科卒業[3]。同年4月、「中里音楽事務所」に所属(同年11月には契約破棄)。同年7月、女優・天路圭子(映画監督斎藤耕一の妻)と偶然出会い、芸能界接触の糸口をつかむ[4]。同月、TBS系視聴者参加番組『ヤング720』に出演。同年12月、渡辺プロダクションへの所属が内定。1971年4月、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)との正式契約を結ぶ。デビュー当時の公称では、身長158cm、体重46kg、B83cm、W56cm、H88cmである[5]。趣味は靴[6]の収集。好きな食べ物はメロン[7]。好きな色は青・白。チャームポイントは並びのよい白い歯・ややうわ向きの鼻。憧れの土地はパリ。

1970年代前半に天真爛漫な笑顔で国民的アイドルとなる。後に続くアイドル歌手の基本スタイル[8]を確立した。キャッチフレーズは「(あなたの心の隣にいるソニーの)白雪姫」。なお、デビュー当初には「可愛いアヒルちゃん」という愛称も用いられた。

デビュー当時の所属事務所は渡辺プロダクションであった。その後、渡辺プロダクション傘下の渡辺ワークショップ、エヌ・エンター・プライズ、スムーズクリエイツ、サムシングリアル、有限会社ケイワイと所属替えし、現在は天地真理ファンクラブがマネージメントしている。

梶原一騎の著書『わが懺悔録』(こだま出版、1986年)によれば、自身原作の劇画『朝日の恋人』(のちに、『太陽の恋人』と改題)の主人公の名前「天地真理」を、当時デビュー予定の彼女の芸名に使いたいという申し出が渡辺プロダクション側からあったという。

1971年6月6日、TBS系人気番組『時間ですよ』(第2期・第3期)での銭湯「松の湯」従業員役(川口晶の次のレギュラー)のオーディションを受け、西真澄と一緒に最終審査まで残ったが、合格したのは西真澄であった。しかし、選考時に天地を見た主演の「おかみさん(松野まつ)」こと森光子が彼女の不合格を惜しみ、それまでの台本にない急ごしらえの新登場人物として出演させることを同番組演出の久世光彦[9]らに提案したため、「松の湯の健ちゃん(宮崎健)」こと堺正章がひたすら憧れる「隣のまりちゃん」役(厳密な役名は「マリ」)としてテレビ画面に登場、一躍脚光を浴びた。1971年7月21日の初出演時には、「松の湯」隣家2階の窓辺で白いギターを爪弾きながら「恋は水色」を歌った。

同年10月1日にアイドル歌手として「水色の恋」[10]でデビューし大ヒットした。以後、1974年までにかけて「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」「若葉のささやき」「恋する夏の日」「空いっぱいの幸せ」「恋人たちの港」「恋と海とTシャツと」「想い出のセレナーデ」からなる一連の大ヒット曲を発表する。相前後してデビューした南沙織、小柳ルミ子とともに『三人娘』と呼ばれた。ヒット曲は主に『森田公一とトップギャラン』で知られる森田公一が手掛けていたことは有名。オリコンシングルチャートでは5曲が1位を取っており、この記録は、後に松田聖子に破られるまで女性ソロシンガーでの最多記録であった。70年代初期における天地真理ブームは老若男女を問わず厚い層に波及し、正に国民的スーパー・アイドルとなった。


1972年から1975年にかけて、テレビで冠番組の『真理ちゃんシリーズ』(TBS系列、毎週木曜日19:00-19:30)を担当し、『真理ちゃんとデイト』(1972年10月5日-1973年3月29日)、『となりの真理ちゃん』(1973年4月5日-9月27日)、『とび出せ!真理ちゃん』(1973年10月4日-1974年3月28日)、『アタック真理ちゃん!』(1974年4月4日-9月26日)、『はばたけ!真理ちゃん』(1974年10月3日-1975年3月27日)の5シリーズが放送される。内容はおもに人形たちとともに天地が童話等を題材とした小歌劇を演ずるというもので、当時の低年齢層視聴者の人気を独り占めにした。

1972年2月5日、「ちいさな恋」発売開始。同年3月19日、「青山タワーホール」にて第1回ファンクラブの集いが開催され、2000人が集合。同年5月21日、「ひとりじゃないの」発売開始。同月28日、「日比谷公会堂」にて初コンサート「真理ちゃんと日比谷でデート」が開かれ、5000人の観衆が集まる。同年7月5日より、TBSテレビ水曜劇場「おはよう」にレギュラー出演。同年9月1日、「虹をわたって」発売開始。同月30日から封切りの松竹映画『虹をわたって』(監督:前田陽一)に主演(星野マリ役)。同年11月16日、「ひとりじゃないの」で第3回日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。同年12月3日、第5回日本有線大賞大衆賞受賞。同月5日、「ふたりの日曜日」発売開始。同月24日、「日本武道館」にて「3人娘クリスマス・ショー」開催。同月31日には第14回日本レコード大賞大衆賞を受賞し、「水色の恋」ピアノ演奏と「ひとりじゃないの」歌唱を披露。


1973年、春の選抜高校野球甲子園大会において「虹をわたって」が入場行進曲に選ばれる。

1973年3月、第10回ゴールデン・アロー賞特別賞(1972年度)受賞。同年4月7日、埼玉県所沢市の西武園ユネスコ村での「若葉のささやき」(3月21日発売開始)の新曲発表会において、3万人の入場を予定していたイベント「真理ちゃんと3万人のウィークエンド」に、全国から10万人に及ぶファンが集まる。同月29日から上映の松竹映画『愛ってなんだろ』(監督:広瀬襄)に主演(浅見麻里子役)。同年7月1日、「恋する夏の日」発売開始。同月19~27日、急性盲腸炎のため銀座・菊地病院に手術入院。同年8月14~20日に大阪・梅田コマ劇場で初のワンマンショーを行う。同年10月21日、「空いっぱいの幸せ」発売開始。同年11月18日、ファンとのイベント「真理ちゃん気球に乗って大空へ」が開催され、5000人が参加。同年12月31日、「若葉のささやき」(編曲:竜崎孝路)が第15回日本レコード大賞編曲賞受賞。さらに同月、第6回日本レコードセールス大賞ゴールデン賞受賞[11]。

1973年のブロマイド年間売上枚数が女性部門で1位になる。また、人気アイドルとしてキャラクターグッズ(下敷きなどの文房具やトランプなどの玩具)が多数つくられ、さらにはブリヂストンからは自転車「ドレミまりちゃん」[12]なども発売された。今では当たり前となったアイドルグッズのはしりといえる。


1974年元旦~7日、東京・日本劇場で小柳ルミ子とハッピーニューイヤーショーを行う。ゲストは井上順。同年2月1日、「恋人たちの港」発売開始。同年3月25~31日、東京・浅草国際劇場で「天地真理ショウ」を行う。同年4月3日、大阪フェスティバルホールにてフォークコンサートを開く。同月5日~9月21日放送のTBSテレビ・アニメ『星の子チョビン』(原作:石森章太郎)でナレーターを担当。同年6月1日、「恋と海とTシャツと」発売開始。また同日、葉山マリーナ第1回天地真理杯ヨットレース開催。同年8月15~21日、大阪・梅田コマ劇場でワンマンショーを行う。同年9月1日、「想い出のセレナーデ」発売開始。同月15日、東京「九段会館」にてライブコンサート開催。同年10月、第1回横浜音楽祭・音楽祭特別賞受賞。同年12月10日、「木枯らしの舗道」発売開始。


1975年元旦~6日、昨年に引き続き東京・日本劇場で小柳ルミ子とハッピーニューイヤーショーを行う。ゲストは愛川欽也。同年2月3日~3月4日、約1カ月の休暇をとり、単身でヨーロッパに滞在する。同年4月1日、「愛のアルバム」発売開始。同月19日、東京・中野サンプラザホールで初のリサイタルを昼夜2回行う。同年5月21日、「初めての涙」発売開始。同月31日~6月24日、日本劇場のミュージカル『君よ知るや南の国』(原作:ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』)に主演(ミニヨン役)。同年8月7~12日、大阪・梅田コマ劇場でワンマンショーを行う。同年9月1日、「さよならこんにちわ」発売開始。同月から10月にかけ各地で民音コンサート開催。同年12月5日、「夕陽のスケッチ」発売開始。


1976年1月元旦~7日、東京・浅草国際劇場の「新春・森進一ショー」に特別ゲストとして出演する。同年4月17日、東京・芝の郵便貯金ホールで「天地真理コンサート・私は天地真理」(その内容はのちにレコード化される)を行う。太田裕美が激励に駆けつけた。森光子は客席でコンサートを鑑賞していたが、アンコールの「水色の恋」で再び緞帳が上がると、客席から舞台に上がり、「水色の恋」を歌う天地に寄り添い激励した。同月21日、「矢車草」発売開始。同年7月20日、葉山マリーナ第2回天地真理杯ヨットレース開催。同月21日、「愛の渚」発売開始。同年8月7~9日、大阪・梅田コマ劇場でワンマンショーを行う。 同年8月27日~9月1日、デビュー5周年を記念し日本劇場にて「天地真理ショー――愛の渚」が開催される。同年9月8日~12月16日、音協全国縦断ツアー「天地真理リサイタル――そよ風に誘われて」敢行[13](9月8日中野サンプラザホール、9月17日浜松市民会館、9月27日川崎産業文化会館、10月27日名古屋市民会館、10月30日京都会館第1ホール、11月28日日立小平会館、12月7日大阪厚生年金会館、12月10日宇都宮栃木会館、12月16日千葉文化会館)。同年12月5日、「夢ほのぼの」発売開始(TBSテレビ水曜劇場『ふたりでひとり』劇中歌として歌われる)。


紅白歌合戦には1972年、1973年、1974年と3度出場している。1度目は「ひとりじゃないの」、2度目は「恋する夏の日」、そして3度目の出演が「想い出のセレナーデ」である。この「想い出のセレナーデ」を歌う際に、紅組キャプテン佐良直美が当時日本で初公開されたダ・ヴィンチの『モナ・リザ』[14]にちなみ「微笑(ほほえみ)といえば天地真理さん」と紹介したが、歌っているときの天地は憂いを帯びた表情が大半で、それが何とも言い表せない可憐絶妙な魅力を醸しだしていた。

芸能活動休業以後
1977年1月23日、甲状腺機能不調などを理由に東京・港区三田の東京専売病院に緊急入院、約1か月後の2月20日には退院するもののひきつづき休養生活に入り、芸能活動を約2年半にわたり休業した[15]。休養期間中は単に心身を休めるのではなく、東京音楽学院に定期的に通ってレッスンに励み、また繁忙期には楽しめなかったショッピング・絵画製作・ひとり旅などを満喫し充実した日々を過ごした。なお、休業中といえどもナベプロ恒例の新年会には欠かさず出席していた。

1979年5月1日、天地は新宿・厚生年金ホールで開かれた「森田公一とトップギャラン結成10周年記念コンサート」に招かれ、ひさびさに公衆の面前に姿を現した。同年6月7日、「天地真理を励ます会」が発起人森光子・森田公一立ち合いのもとCBSソニー録音スタジオ[16]において200名を超える取材陣を前に開かれた。復帰会見では「とにかく歌が好き。私には歌しかないと思っていました。」というメッセージをみずから公表し、また、約2年半休業の間ファンクラブが存続していたことに対し支援を忘れなかったファンへの感謝の辞を述べていた。同月10日午前8時5分から放送のTBSラジオ『ラジオリクエスト大賞・森田公一の青春ベストテン』[17]へのレギュラー出演を機にカムバック。このときの所属事務所は渡辺ワークショップである。同月16日からは美顔器「エレンスパック」のテレビコマーシャルにも登場、ナレーションは森光子が務めた。

同年10月15日、東京芝・ABCホールで復帰コンサート「天地真理 明日への出発(たびだち)」(主催:渡辺ワークショップ、CBSソニー) を行う。ファンとより近い会場でという天地の希望により400席のホールで開催され、収容数を100名超えるファンが駆けつけた。特別ゲストに森田公一を迎え、演奏は当時太田裕美のバックバンドであった「コズミックララバイ」と淡海悟郎が担当した。客席で森光子が鑑賞した。このコンサートは翌日のワイドショー番組や新聞等で大きくとり上げられた。

同年12月に森田公一作曲、松本隆作詞「愛・つづれ織り」を発表。ライブハウス新宿ルイード他全国でのミニコンサートを精力的に行う他、テレビおよびラジオでも天地の復帰を祝う番組に多数出演した。翌1980年9月に「初恋のニコラ」(原曲歌唱シルヴィ・ヴァルタン)をカバーし発表するも以前ほどの大ヒットには結びつかなかった。

1982年9月に再々デビュー。所属事務所はエヌ・エンタープライズ。ラジオ日本『思い出の愛の歌』のパーソナリティーを務める。天地と男性局アナによるMCで進行し、洋画の名曲等を紹介するような落ち着いた内容で、30歳を過ぎた天地に合った落ち着いた大人の雰囲気のある番組であった。

当時、東京紀尾井町のホテルニューオータニにあった「クリスタルルーム」においてピーターとレビューショーを行い、天地の新しい魅力としてマスコミに大きくとりあげられた。その後、舞台(芝居)へ意欲的に出演する。沢竜二主演の大衆演劇の芝居、新宿紀伊国屋ホール『上州乱気流』他、下北沢本多劇場でも数々の舞台に参加、『堕落』では御木本伸介とシリアスな芝居にも取り組んでいる。舞台、映画やテレビ等で女優として活躍する傍ら、フジテレビ系の『オレたちひょうきん族』にレギュラー出演した時期があった。

1983年2月、「私が雪だった日」を歌うことにより、「白雪姫」時代の終幕を飾る。

その後、アダルトへと路線変更し、同年12月にセミヌード写真集を、また1986年にはヌード写真集を発売。にっかつロマンポルノ『魔性の香り』(原作:結城昌治、監督:池田敏春)に主演(滝村秋子役)。1986年、アダルトビデオ『危険なレッスン』(監督:渡辺優)を発売。

1986年3月15日公開の映画『まんだら屋の良太』(原作:畑中純、監督:石山昭信)に出演(芸者お染役)。同年9月、カフェバー経営者と結婚、翌年女児を出産するが、1996年に離婚する。

1990年代前半には太りぎみとなり、明石家さんま司会の番組にしばしば準レギュラー出演、天然風のキャラで人気を博す[18]。1993年公開の松竹映画『中指姫 俺たちゃどうなる?』(監督:堤ユキヒコ)にちょい役出演(銭湯脱衣所で憩うある婦人役)。1994年10月から1995年9月までの1年間、『笑っていいとも!』にレギュラー出演した。

その後、減量に成功し痩身法についての著書『スリムになるってステキなことネ 天地真理の白雪姫ダイエット』(双葉社、1997年)を出版したり、ダイエット商品の広告で雑誌に頻繁に登場したりするようになる。1997年7月、ヘアヌード写真集『東京モガ』を発売。同年、岩下志麻主演の松竹映画『お墓がない!』(監督:原隆仁)に出演(未亡人敏江役)。

2001年まで数年間、ラジオ日本の『天地真理の深夜発熱烈熱愛大放送』(木曜深夜1:00-)という番組のパーソナリティーを務めていたが、同年5月に降板した。降板の理由は更年期障害と言われていたが、本人はこれをきっぱりと否定している。2003年1月からは、同じくラジオ日本の『今夜もノリノリ歌謡曲』(深夜1:00-)の奇数週金曜日をパーソナリティーとして担当。2003年9月には日テレのバラエティ番組『壮絶バトル!花の芸能界 衝撃の天地真理スペシャル!』で、あまりの変貌ぶりに誰もが驚愕するほどかなり太った姿でテレビ出演する。その後、上沼恵美子等が司会を務める関西ローカルのバラエティ番組にゲスト出演することがあった。

2006年10月1日(デビュー曲「水色の恋」発売日から丸35年目の日)には、35周年記念CD-BOX『天地真理 プレミアム・ボックス』が発売された。これは天地の歌手としての業績のほとんどを網羅したモニュメンタルなCD全集[19]である。

2007年以降の天地は、おも立った芸能活動はほとんど行われていない状況だったが、2010年10月19日にTBSテレビ番組『解禁!(秘)ストーリー 〜知られざる真実〜』出演で久々の画面登場を果たす(収録日は歌手デビューの記念日10月1日)。出身校である国立音大附校舎の一室で、かつての三人娘の一人である小柳ルミ子と対談し、アイドル時代当時のファンの過熱ぶり、一時休業に至った際の真相、そして今後の決意を語っていた。


2011年4月1日、歌手・天地真理の実績と歌を再び伝えるために、「天地真理ファンクラブ」が新たにスタートする。現在、かねてからのファンや再び聴き始めたファン、そして新しい世代からも、再評価を支持する声が高まりつつある。

2011年5月25日、天地の代表曲の一つ「ひとりじゃないの」が東日本大震災復興支援チャリティーソングとして、石川ひとみ、伊藤蘭、太田裕美、大島花子、桑江知子、サエラ、ザ・リリーズ、ラヴァーズソウル、広谷順子、中尾ミエ、松本明子、michiko、山下久美子による歌唱で発表されている(2011/05/25 配信 itunes.apple.com)。

デビュー40周年にあたる2011年および2012年にはファンクラブ主催でさまざまな記念イベントが行われている。

2011年10月1日の40周年記念日に、40年前の同日にデビュー曲「水色の恋」を発表した会場、ケネディハウス銀座(旧「銀座メイツ」[20])において、年来の親友太田裕美を来賓に迎え歌手デビュー40周年祝賀会が催された。同日夜には銀座シネパトスにおいて主演映画『虹をわたって』がニュープリントで上映された。更に、同年11月5日の天地の誕生日には、銀座シネパトスにおいて主演映画『愛ってなんだろ』がニュープリントで上映された。

11月4日生まれの有名人「西田敏行」



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西田 敏行(にしだ としゆき、1947年(昭和22年)11月4日 - )は、日本の俳優、歌手、タレント、司会者。

福島県郡山市出身。オフィスコバック所属。明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。身長166cm。体重80kg超。主演の映画『釣りバカ日誌』は1988年(昭和63年)から2009年(平成21年)まで22作続いた代表作。日本俳優連合理事長。4歳年下の夫人との間に2女あり。

5歳の時に父が亡くなり、同じ郡山市内に住む母方の伯母夫婦に引き取られた。

少年時代は映画好きの養父に連れられ映画館へ通い、チャンバラ映画に熱中。観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していた。中学校に入り、演劇に興味を持つが、演劇部は女性部員ばかりで、当時、男子生徒の部活動といえば、スポーツが一般的だった風潮もあり、悶々とした3年間を過ごす。映画で「東京弁」に触れるうち、「俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか」との危機感を感じ始め[1]、演劇が好きでも福島弁でしか演じられない現状に自問し、標準語を習得したいと思い始め、両親を説得の上、中学卒業と共に上京。

高校に進学するとバレーボール部に入部。たまたま男子部員が居なくて困っていた演劇部の女子部員から、男役として部に協力してほしい、と請われ、顧問のような形で演劇部に参加する。

1966年(昭和41年)、明治大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入る。同年大学を中退して夜間部から昼間部に移り、翌年に卒業。仲間と劇団『シアター67』を結成するが失敗。ちょうどその頃、1967年(昭和42年)に『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)でテレビ俳優としてデビューしている。

1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となる。同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台。1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せた。その後は役者として不遇の日々を送るが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』、『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得、1977年(昭和52年)には『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には『西遊記』(日本テレビ)に出演。さらに1980年(昭和55年)には『池中玄太80キロ』(日本テレビ)、1981年(昭和56年)に『おんな太閤記』(NHK)に出演するなど連続ドラマで活躍。

また、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ挿入歌)は大ヒットとなった。なおNHK紅白歌合戦において、歌手、司会、審査員、応援の4パターン(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田のみである。素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮している。

1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』に主演。西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前、1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己を演じた。この作品ではモンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール、中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行。話題となったが、7ヶ月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田は死を覚悟して臨んだ[2] 。「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられました。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品だと思います。」と、自身にとって大きな転機となった作品だとしている[3]。2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加。一時は「極地俳優」の異名をとった。

1988年(昭和63年)から映画『釣りバカ日誌』シリーズに出演。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。ちなみに西田の映画初出演作品は、三國主演の『襤褸の旗』(1974年、監督:吉村公三郎、足尾銅山鉱毒事件を題材にした作品)で、反体制派農民の一人、多々良治平という役だった。[4]。

1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢、その後7年にわたり出演している。

2000年(平成12年)、『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』(テレビ朝日、2001年5月28日放送)の収録のため、南米最高峰アコンカグア(標高 6,962 m)登山に挑戦している。この当時、焼肉とビールをこよなく愛し、大食漢で大酒飲みでありながら、運動と言えば数か月に1度のゴルフ程度の上、1日の喫煙量は80本以上のヘビースモーカーという生活で、体重は94kg。そのため中性脂肪が人並外れて高いなど身体的な不安材料を抱えながらも、8月からネパールでの高地トレーニングを開始。11月上旬にアタックを開始したが、強風や低温など天候に恵まれず、スケジュール的に無理と判断。高度6,830m地点で登頂を断念している。尚、『植村直己物語』の撮影以来、知己の関係である小西浩文を登山隊長に迎え、国内有数の登山家がサポーターとして同行した[5][6]。

2001年(平成13年)ABCテレビ『探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、1月26日放送分からレギュラー出演している(詳しくは 後述 「探偵ナイトスクープ」)。初代局長・上岡龍太郎が2000年3月末で芸能界引退のため降板(番組では4月放送分まで)。西田は番組からの熱心な打診を受け内諾していたものの、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録が完了するや上述のアコンカグア登山のスケジュールに追われており、その収録を終えなければ出演できない状況だった。そのため番組内では登場まで西田の名前を伏せ、局長席に「鋭意交渉中」の札を掛け続けて探偵、顧問が週替わりで進行役を務めた。局長としての初出演は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行しての収録となり、ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭をたくわえたワイルドな出で立ちでの登場となった。

同年11月7日、首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され、手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院。15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、翌月には退院・復帰している[7]。

2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院[8]。処置が早く、症状も安定していたため28日には退院している[9]。上述の通り肉食中心の生活でヘビースモーカーだったが、入院中、吉永小百合から手紙をもらい、そこに書かれていた「タバコだけはやめてね、西やん」の言葉に一念発起し禁煙宣言した[10]。また体重も82kgまで減量した。復帰後のインタビューで「ここで死んだら遺作(のタイトル)が『ゲロッパ!』になるが、それだけは避けたかった」と、この時の出演映画の告知とユーモアを交えたコメントを述べ、全快をアピールしている。

2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団。元青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍。これは自身の健康上の事とともに2001年10月18日、師事していた青年座元プロデューサーで青年座映画放送代表取締役の金井彰久(声優、かないみかの父)が65歳で死去[11]したことが契機となっている。

2008年(平成20年)11月、長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章[12]。

同年4月からNHKラジオ第1のラジオドラマ番組『新日曜名作座』に竹下景子とともに起用される。森繁久彌と加藤道子のコンビで50年にわたり放送された『日曜名作座』の番組スタイルを継承している。

2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任[13]。俳優の資質や地位の向上・権利問題などにも取り組んでいる。

2010年(平成22年)3月、『釣りバカ日誌』シリーズで、22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞[14]。

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生、出身地である福島県も甚大な被害を受けた事を受け、支援ライブへの出演[15]のほか、積極的な支援活動を行っている。震災以降、月に2 - 3回は単身、地元・郡山に戻り長期滞在する生活になっているという[16]

2012年(平成24年)3月15日、社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞[17]。

2013年(平成25年)3月27日、『池中玄太80キロ』で恋人役で共演した坂口良子が57歳で死去[18]。西田は談話を発表し「早過ぎるよアッコ・・・坂口良子さん早過ぎます・・・」と、『池中玄太』での役名(暁子 - アッコ)で呼びかけ、その無念さを表した[19]。また、4月14日には『釣りバカ日誌』シリーズでコンビを組んだ三國連太郎が急性呼吸不全で死去。7月19日にグランドハイアット東京で営まれた「お別れの会」で西田は祭壇に“お別れの言葉”を述べ、故人を偲ぶとともに「実に見事な生涯でした」と、90年の生涯を称賛した[20]。

2014年7月1日、9月12日〜16日に開催予定の「第7回したまちコメディ映画祭in台東」でコメディ栄誉賞を受賞することと、リスペクト上映として第1作目の『釣りバカ日誌』の上映が決定した[21][22]。

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